詩(し)に曰(いわ)く、
都城(とじょう)大国(たいこく)実(まこと)に観(み)るに堪(た)えたり
八水(はっすい)周流(しゅうりゅう=巡り流れ)して四山(しざん)を繞(めぐ)る
多少(たしょう)の帝王(ていおう)此(ここ)に興(おこ)り
古来(こらい)天下(てんか)長安(ちょうあん)を説(と)く
此(こ)れ単(ひとえ)に表(あらわ)すは陝西(せんせい)の大国(たいこく)長安城(ちょうあんじょう)、乃(すなわ)ち歴代(れきだい)帝王(ていおう)の都(みやこ)を建(た)つるの地(ち)なり。周(しゅう)・秦(しん)・漢(かん)より以来(このかた)、三州(さんしゅう)花(はな)錦(にしき)に似(に)て、八水(はっすい)城(しろ)を繞(めぐ)りて流(なが)る。三十六条(さんじゅうろくじょう)の花柳巷(かりゅうこう=花街)、七十二座(しちじゅうにざ)の管弦楼(かんげんろう=音曲の楼)。華夷図(かいず=中華と夷狄の図)の上(うえ)に看(み)れば、天下(てんか)最(もっと)も頭(かしら)と為(な)り、真(まこと)に是(こ)れ奇勝(きしょう=勝れて奇特)の方(ところ)なり。今(いま)却(かえっ)て是(こ)れ大唐(だいとう)太宗(たいそう)文皇帝(ぶんこうてい)の基(き)に登(のぼ)り、改元(かいげん)して龍集(りゅうしゅう=歳名)貞観(じょうかん)と為(な)す。此(こ)の時(とき)已(すで)に極(きょく)に登(のぼ)ること十三年(じゅうさんねん)、歳(とし)己巳(きし)に在(あ)り。且(しばら)く他(かれ)が駕前(がぜん=御前)に有(あ)る安邦定国(あんぽうていこく=国を安んじ定むる)の英豪(えいごう)と、那(か)の創業争疆(そうぎょうそうきょう=国を興し疆を争う)の傑士(けっし)とを説(と)かず。
却(さ)て説(つ)ぐ、長安城(ちょうあんじょう)外(そと)涇河(けいが)の岸辺(きしべ)に、両(ふた)りの賢人(けんじん)有(あ)り:一(ひと)りは是(こ)れ漁翁(ぎょおう=漁夫)、名(な)を張稍(ちょうしょう)と喚(よ)び;一(ひと)りは是(こ)れ樵子(しょうし=木こり)、名(な)を李定(りてい)と喚(よ)ぶ。他(かれ)の両(ふた)りは是(こ)れ科(か)に登(のぼ)らざる進士(しんし)、字(じ)を識(し)る能(あた)うの山人(さんじん=隠者)なり。一日(あるひ)、長安城(ちょうあんじょう)の裡(うち)に在(あ)りて、肩(かた)の上(うえ)の柴(しば)を売(う)り、籃(かご)の中(なか)の鯉(こい)を貨(う)り、同(とも)に酒館(しゅかん=居酒屋)の中(なか)に入(い)り、半酣(はんかん=ほろ酔い)まで喫(きっ)し、各(おのおの)一瓶(ひとびん)を携(たずさ)え、涇河(けいが)の岸辺(きしべ)に順(したが)い、徐(しず)かに歩(あゆ)みて回(かえ)る。張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「李兄(りけい)、我(われ)想(おも)うに那(か)の名(な)を争(あらそ)う者(もの)は、名(な)に因(よ)りて体(たい)を喪(うしな)い;利(り)を奪(うば)う者(もの)は、利(り)の為(ため)に身(み)を亡(ほろぼ)し;爵(しゃく)を受(う)くる者(もの)は、虎(とら)を抱(いだ)いて眠(ねむ)り;恩(おん)を承(う)くる者(もの)は、蛇(へび)を袖(そで)にして走(はし)る。算(かぞ)え起(おこ)せば、還(ま)た我(われ)等(ら)が水秀山青(すいしゅうさんせい=水清く山青し)、逍遥自在(しょうようじざい=気ままにのんびり)、淡薄(たんぱく=淡々)を甘(あまん)じ、縁(えん)に随(したが)いて過(すご)すに如(し)かざるなり」と。李定(りてい)道(い)わく、「張兄(ちょうけい)の説(と)く所(ところ)理(り)有(あ)り。但(た)だ只(た)だ是(こ)れ汝(なんじ)が那(そ)の水秀(すいしゅう)は、我(わ)が山青(さんせい)に如(し)かず」と。張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「汝(なんじ)が山青(さんせい)は我(わ)が水秀(すいしゅう)に如(し)かず。一(ひと)つの《蝶恋花(ちょうれんか)》の詞(し)の証(あかし)と為(な)る有(あ)り。詞(し)に曰(いわ)く、
烟波(えんぱ=煙る波)万里(ばんり)扁舟(へんしゅう=小舟)小(ちいさ)く
静(しず)かに孤篷(こほう=孤りの帆)に依(よ)り、西施(せいし)声音(せいおん=声)繞(めぐ)る
慮(おもんぱかり)を滌(あら)い心(こころ)を洗(あら)えば名利(みょうり)少(すく)なし
閑(しず)かに蓼穂(りょうすい=蓼の穂)・蒹葭(けんか=葦)の草(くさ)を攀(よ)ず
数点(すうてん)の沙鴎(さおう=洲の鴎)道(みち)を楽(たの)しむに堪(た)えたり
柳岸(りゅうがん=柳の岸)芦湾(ろわん=芦の入江)、妻子(さいし)同(とも)に歓笑(かんしょう)す
一覚(ひとねむり)安眠(あんみん)風浪(ふうろう)俏(しず)かなり
栄(さかえ)無(な)く辱(はじ)無(な)く煩悩(はんのう)無(な)し
李定(りてい)道(い)わく、「汝(なんじ)が水秀(すいしゅう)は、我(わ)が山青(さんせい)に如(し)かず。亦(ま)た箇(ひと)つの《蝶恋花(ちょうれんか)》の詞(し)の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、詞(し)に曰(いわ)く、
雲林(うんりん)一段(いちだん)松花(しょうか=松の花)満(み)ち
黙(しず)かに鶯啼(おうてい=鶯の鳴き)を聴(き)き、巧舌(こうぜつ=巧みな舌)調管(ちょうかん=笛)の如(ごと)し
紅痩(こうそう=紅は痩せ)緑肥(りょくひ=緑は肥ゆ)春(はる)正(まさ)に暖(あたた)かなり
倏然(しゅくぜん=たちまち)として夏至(げし)に至(いた)り光陰(こういん)転(うつ)る
又(また)秋(あき)の来(きた)るに値(あ)いて容易(ようい)に換(かわ)り、黄花香(こうかこう=菊の香)は、玩(もてあそ)ぶに堪(た)えたり
迅速(じんそく)たる厳冬(げんとう=厳しい冬)指(ゆび)を拈(ひね)るが如(ごと)し
逍遥(しょうよう)四季(しき)人(ひと)の管(かん=干渉)する無(な)し
漁翁(ぎょおう)道(い)わく、「汝(なんじ)が山青(さんせい)は我(わ)が水秀(すいしゅう)に如(し)かず、些(いささ)かの好物(こうぶつ=美味)を受用(じゅよう=享受)す、一(ひと)つの《鷓鴣天(しゃこてん)》の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、
仙郷(せんきょう)雲水(うんすい)生涯(しょうがい)に足(た)れり
櫓(ろ)を擺(あやつ)り舟(ふね)を横(よこた)えて便(すなわ)ち是(こ)れ家(いえ)
活(い)きながら鮮鱗(せんりん=生きた魚)を剖(さ)きて緑鱉(りょくべつ=青鼈)を烹(に)り
旋(ただ)ちに紫蟹(しがい=紫の蟹)を蒸(ふか)し紅蝦(こうか=赤蝦)を煮(に)る
青蘆笋(せいろしゅん=青き蘆の筍)、水荇芽(すいこうが=水草の芽)
菱角(りょうかく=菱の実)鶏頭(けいとう=芡の実)更(さら)に夸(ほ)む可(べ)し
嬌藕(きょうぐう=柔き蓮根)老蓮(ろうれん=古き蓮)芹葉(きんよう=芹の葉)嫩(やわ)らかに
慈菇(じこ=慈姑)茭白(こうはく=マコモ)鳥英花(ちょうえいか=鳥英の花)
樵夫(しょうふ)道(い)わく、「汝(なんじ)が水秀(すいしゅう)は我(わ)が山青(さんせい)に如(し)かず、些(いささ)かの好物(こうぶつ)を受用(じゅよう)す、亦(ま)た一(ひと)つの《鷓鴣天(しゃこてん)》の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、
崔巍(さいがい=そびえ立つ)峻嶺(しゅんれい=険しき峰)天涯(てんがい)に接(つらな)り
草舎(そうしゃ=草の家)茅庵(ぼうあん=萱の庵)是(こ)れ我(わ)が家(いえ)
腌臘(えんろう=塩漬け乾物)の鶏鵝(けいが=鶏と鵞鳥)は蟹鱉(かいべつ)に強(まさ)り
獐豝(しょうは=獐と雌猪)兔鹿(とろく=兎と鹿)は魚蝦(ぎょか)に勝(まさ)る
香椿葉(こうちんよう=香椿の葉)、黄楝芽(おうれんが=黄楝の芽)
竹笋(ちくじゅん=竹の子)山茶(さんさ=山茶)更(さら)に夸(ほ)む可(べ)し
紫李(しり=紫の李)紅桃(こうとう=赤き桃)梅杏(ばいきょう=梅と杏)熟(じゅく)し
甜梨(てんり=甘き梨)酸棗(さんそう=酸き棗)木樨花(もくせいか=木犀の花)
漁翁(ぎょおう)道(い)わく、「汝(なんじ)が山青(さんせい)は真(まこと)に我(わ)が水秀(すいしゅう)に如(し)かず、又(また)《天仙子(てんせんし)》一首(ひとつ)有(あ)り、
一葉(いちよう)の小舟(しょうしゅう)寓(やど)る所(ところ)に随(したが)い
万迭(ばんじょう=幾重もの)烟波(えんぱ)恐惧(きょうく=恐れ)無(な)し
鉤(はり)を垂(た)れ網(あみ)を撒(う)ちて鮮鱗(せんりん)を捉(とら)え
醤膩(しょうじ=醤の脂)無(な)けれど、偏(ひとえ)に味(あじ)有(あ)り
老妻(ろうさい)稚子(ちし=幼子)団円会(だんえんかい=団欒の集い)
魚多(うおおお)く又(また)長安市(ちょうあんし)に貨(う)り
香醪(こうろう=芳き酒)に換(か)えて箇(ひと)りの醉(よい)を喫(きっ)す
蓑衣(さい=蓑)当(あ)てて被(ふすま)と為(な)し秋江(しゅうこう)に臥(ふ)す
鼾鼾(かんかん=ぐうぐう)と睡(ねむ)り、憂慮(ゆうりょ)無(な)し
人間(にんげん)の栄(さかえ)と貴(たっと)びを恋(こい)せず
樵子(しょうし)道(い)わく、「汝(なんじ)が水秀(すいしゅう)は還(ま)た我(わ)が山青(さんせい)に如(し)かず、亦(ま)た《天仙子(てんせんし)》一首(ひとつ)有(あ)り、
茆舎(ぼうしゃ=萱の家)数椽(すうてん=数本の垂木)山下(さんか)に蓋(おお)い
松竹梅蘭(しょうちくばいらん)真(まこと)に愛(あい)す可(べ)し
林(はやし)を穿(うが)ち嶺(みね)を越(こ)えて乾柴(かんさい=乾き柴)を覓(もと)め
人(ひと)の怪(あやし)むも無(な)く、我(わ)が売(う)るに従(したが)い
或(あるい)は少(すくな)く或(あるい)は多(おお)きは世界(せかい)に憑(よ)る
銭(ぜに)を将(も)ちて酒(さけ)を沽(か)えば心(こころ)に随(したが)いて快(こころよ)し
瓦鉢(がはつ=土の鉢)磁甌(じおう=磁器の碗)殊(こと)に自在(じざい)なり
酕醄(もうとう=泥酔)して醉(よ)い了(おわ)り松陰(しょういん)に臥(ふ)す
掛礙(かいげ=心の妨げ)無(な)く、利害(りがい)無(な)し
人間(にんげん)の興(おこり)と敗(やぶれ)とを管(かん=構)せず
漁翁(ぎょおう)道(い)わく、「李兄(りけい)、汝(なんじ)が山中(さんちゅう)は我(われ)が水上(すいじょう)の生意(せいい=生業)の快活(かいかつ=楽しい)に如(し)かず、一(ひと)つの《西江月(せいこうげつ)》の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、
紅蓼(こうりょう=赤き蓼)花(はな)繁(しげ)く月(つき)に映(えい)じ
黄蘆(こうろ=黄ばむ蘆)葉(は)乱(みだ)れて風(かぜ)に揺(ゆ)る
碧天(へきてん=碧き空)清遠(せいえん=清く遠し)楚江(そこう)空(むな)し
一潭(いったん=ひとつの淵)の星(ほし)を牽(ひ)き攪(みだ)して動(うご)く
網(あみ)に入(い)る大魚(たいぎょ)隊(たい)を作(な)し
鉤(はり)を吞(の)む小鱖(しょうけつ=小さき鮭)叢(むら)を成(な)す
得来(とくらい=得たる)を烹煮(ほうしゃ=煮炊き)すれば味(あじ)偏(ひとえ)に濃(こ)し
江湖(こうこ)を笑傲(しょうごう=笑い誇り)して打哄(だこう=騒ぐ)
樵夫(しょうふ)道(い)わく、「張兄(ちょうけい)、汝(なんじ)が水上(すいじょう)は還(ま)た我(わ)が山中(さんちゅう)の生意(せいい)の快活(かいかつ)に如(し)かず、亦(ま)た《西江月(せいこうげつ)》の証(あかし)と為(な)る有(あ)り。
敗葉(はいよう=枯れ葉)枯藤(ことう=枯れ葛)路(みち)に満(み)ち
破梢(はしょう=折れ梢)老竹(ろうちく=古き竹)山(やま)に盈(み)つ
女蘿(じょら=松蘿)乾葛(かんかつ=乾き葛)乱(みだ)れて牽攀(けんぱん=絡み攀じ)
折(お)り取(と)りて縄(なわ)を収(おさ)め担(に)を殺(す)ぐ
虫蛀(ちゅうしゅ=虫の食い)空心(くうしん=空洞)の楡柳(ゆりゅう=楡と柳)
風(かぜ)は断頭(だんとう=折れ梢)の松楠(しょうなん=松と楠)を吹(ふ)く
采(と)り来(きた)りて堆積(たいせき)し冬寒(とうかん=冬の寒さ)に備(そな)う
酒(さけ)に換(か)え銭(ぜに)に換(か)えて俺(おれ)に従(したが)う
漁翁(ぎょおう)道(い)わく、「汝(なんじ)が山中(さんちゅう)は比(くら)べ過(す)ぐ可(べ)きと雖(いえど)も、還(ま)た我(わ)が水秀(すいしゅう)の幽雅(ゆうが=幽玄優雅)に如(し)かず、一(ひと)つの《臨江仙(りんこうせん)》の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、
潮(しお)落(お)ちて旋(ただ)ちに孤艇(こてい=孤りの舟)を移(うつ)し去(ゆ)き
夜(よる)深(ふか)く棹(さお)を罷(や)めて歌(うた)い来(きた)る
蓑衣(さい)残月(ざんげつ=有明月)甚(はなは)だ幽(ゆう)なる哉(かな)
宿鴎(しゅくおう=眠る鴎)驚(おどろ)きて起(た)たず
天際(てんさい=空の果て)彩雲(さいうん)開(ひら)く
蘆洲(ろしゅう=芦の洲)に困臥(こんが=疲れて臥し)箇(ひと)の事(こと)も無(な)く
三竿(さんかん=三竿の高さ)日(ひ)上(のぼ)るも還(ま)た捱(たえしの)ぶ
心(こころ)に随(したが)い意(い)を尽(つく)して自(おのずか)ら安排(あんばい=整える)
朝臣(ちょうしん)は寒(さむ)くして漏(ろう=時刻)を待(ま)つ
争(いか)でか我(わ)が寛懐(かんかい=広き胸)に似(に)んや
樵夫(しょうふ)道(い)わく、「汝(なんじ)が水秀(すいしゅう)の幽雅(ゆうが)は、還(ま)た我(わ)が山青(さんせい)の更(さら)に幽雅(ゆうが)なるに如(し)かず、亦(ま)た《臨江仙(りんこうせん)》の証(あかし)と為(な)る可(べ)し、
蒼径(そうけい=蒼き径)秋高(しゅうこう=秋空高し)斧(おの)を曳(ひ)きて去(ゆ)き
晩涼(ばんりょう=夕涼)担(に)を抬(あ)げて回(かえ)り来(きた)る
野花(やか=野の花)鬢(びん)に插(さ)して更(さら)に奇(き)なる哉(かな)
雲(くも)を撥(か)き分(わ)けて路(みち)を尋(たず)ね出(い)で
月(つき)を待(ま)ちて門(かど)を叫(よ)び開(ひら)く
稚子(ちし)山妻(さんさい=山の妻)欣(よろこ)んで笑(え)み接(むか)え
草床(そうしょう=草の床)木枕(ぼくちん=木の枕)敧(かたむ)けて捱(たえしの)ぶ
梨(なし)を蒸(ふか)し黍(きび)を炊(かし)ぎて旋(ただ)ちに鋪排(ほはい=並べ整う)
甕中(おうちゅう=甕の中)新醸(しんじょう=新酒)熟(じゅく)し
真(まこと)に箇(こ)の幽懐(ゆうかい=幽玄の胸)を壮(ます)
漁翁(ぎょおう)道(い)わく、「此(こ)れ都(みな)我(われ)ら両(ふた)りが生意(せいい)、身(み)を贍(やしな)うの勾当(こうとう=稼ぎ)なれど、汝(なんじ)却(かえっ)て我(わ)が閑(ひま)の時節(じせつ)の好処(こうしょ=良さ)有(あ)ること無(な)し、詩(し)の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、詩(し)に曰(いわ)く、
閑(しず)かに看(み)る天辺(てんぺん=空の果て)白鶴(はっかく)の飛(と)ぶを
舟(ふね)を溪畔(けいはん=谷のほとり)に停(とど)めて蒼扉(そうひ=蒼き門)を掩(おお)う
篷(ほう=帆)に倚(よ)りて子(こ)に教(おし)えて釣線(ちょうせん=釣糸)を搓(よ)らしめ
棹(さお)を罷(や)めて妻(つま)と同(とも)に網(あみ)を晒(ほ)して囲(かこ)む
性(せい)定(さだ)まれば果然(かぜん)浪(なみ)の静(しず)かなるを知(し)り
身(み)安(やす)んずれば自(おのずか)ら是(こ)れ風(かぜ)の微(かす)かなるを覚(おぼ)ゆ
緑蓑(りょくさ=緑の蓑)青笠(せいりゅう=青き笠)時(とき)に随(したが)いて着(つ)く
朝中(ちょうちゅう)の紫綬衣(しじゅい=紫の綬の衣)を掛(か)くるに勝(まさ)る
樵夫(しょうふ)道(い)わく、「汝(なんじ)が那(そ)の閑時(かんじ=暇な時)は又(また)我(わ)が閑時(かんじ)の好(よ)きに如(し)かず、亦(ま)た詩(し)の証(あかし)と為(な)る有(あ)り、詩(し)に曰(いわ)く、
閑(しず)かに観(み)る縹緲(ひょうびょう=かすか)たる白雲(はくうん)の飛(と)ぶを
独(ひと)り茅庵(ぼうあん)に坐(ざ)して竹扉(ちくひ=竹の門)を掩(おお)う
事(こと)無(な)ければ児(こ)を訓(おし)えて巻(まき)を開(ひら)きて読(よ)ませ
時(とき)有(あ)れば客(きゃく)に対(むか)って棋(ご)を把(と)りて囲(かこ)む
喜(よろこ)び来(きた)れば杖(つえ)を策(つ)いて芳径(ほうけい=芳しき径)に歌(うたい)
興(きょう)到(いた)れば琴(きん)を携(たずさ)えて翠微(すいび=山の翠)に上(のぼ)る
草履(そうり=藁沓)麻絛(まちょう=麻の帯)粗布(そふ=粗き布)の被(ふすま)
心(こころ)寛(ひろ)きは羅衣(らい=薄絹の衣)を着(つ)くるに強(まさ)る
張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「李定(りてい)、我(われ)ら両(ふた)りは真(まこと)に是(こ)れ微吟(びぎん=低き吟)も相(あい)狎(なれ)る可(べ)く、檀板(だんばん=拍子木)と金樽(きんそん=金の杯)とを共(とも)にするを須(もち)いず。但(た)だ散道詞章(さんどうししょう=詞章を詠じ散らす)は、稀罕(きかん=珍し)と為(な)さず、且(しばら)く各(おのおの)幾句(いくく)を聯(つら)ねん、我(われ)らが漁樵(ぎょしょう=漁夫と木こり)の攀話(はんわ=語らい)の如何(いかん)を看(み)んか」と。李定(りてい)道(い)わく、「張兄(ちょうけい)の言(げん)最(もっと)も妙(みょう)なり、請(こ)う、兄(けい)先(ま)ず吟(ぎん)ぜよ」と。
舟(ふね)は緑水(りょくすい)烟波(えんぱ)の内(うち)に停(とど)まり
家(いえ)は深山(しんざん)曠野(こうや=広き野)の中(なか)に住(す)む
偏(ひとえ)に愛(あい)す溪橋(けいきょう=谷の橋)春水(しゅんすい)の漲(みなぎ)るを
最(もっと)も怜(あわれ)む岩岫(がんしゅう=岩の峰)暁雲(ぎょううん=朝雲)の蒙(おお)えるを
龍門(りゅうもん)の鮮鯉(せんり=新鮮な鯉)時(とき)に烹煮(ほうしゃ)し
虫(むし)の蛀(く)える乾柴(かんさい)日(ひ)に燎烘(りょうこう=焼き焙る)
釣網(ちょうもう=釣と網)多般(たはん=さまざま)老(おい)を贍(やしな)うに堪(た)え
担縄(たんじょう=担いと縄)二事(にじ)終(おわり)を容(い)る可(べ)し
小舟(しょうしゅう)に仰臥(ぎょうが=仰向けに臥し)飛雁(ひがん=飛ぶ雁)を観(み)
草径(そうけい=草の径)に斜(ななめ)に攲(よ)って唳鴻(れいこう=鳴く鴻)を聴(き)く
口舌(こうぜつ=口論)の場中(じょうちゅう)我(わ)が分(ぶん)無(な)く
是非(ぜひ)の海内(かいだい)吾(わ)が踪(あと)少(すく)なし
溪辺(けいへん)に掛(か)け晒(ほ)す繒(しょう=網)は錦(にしき)の如(ごと)く
石上(せきじょう)に重(かさ)ね磨(みが)く斧(おの)は鋒(きっさき)に似(に)たり
秋月(しゅうげつ)暉暉(きき=耀くさま)常(つね)に独(ひと)り釣(つ)り
春山(しゅんざん)寂寂(じゃくじゃく)人(ひと)の逢(あ)う無(な)し
魚多(うおおお)ければ酒(さけ)に換(か)えて妻(つま)と同(とも)に飲(の)み
柴(しば)剩(あま)れば壷(つぼ)を沽(か)いて子(こ)と共(とも)に叢(つど)う
自(みずか)ら唱(うたい)自(みずか)ら斟(そそ)いで放蕩(ほうとう=気まま)に随(したが)い
長歌(ちょうか)長嘆(ちょうたん)顛風(てんぷう=荒れ風)に任(まか)す
兄(あに)を呼(よ)び弟(おと)を喚(よ)んで船伙(せんか=舟仲間)を邀(むか)え
友(とも)を挈(ひっさ)げ朋(ほう)を携(たずさ)えて野翁(やおう=野の翁)に聚(あつま)る
行令(こうれい=酒令)猜拳(さいけん=拳あて)頻(しき)りに盞(さかずき)を逓(わた)し
牌(はい)を拆(ひら)き字(じ)を道(い)いて漫(みだ)りに鐘(かね)を伝(つた)う
蝦(えび)を烹(に)蟹(かに)を煮(に)て朝朝(ちょうちょう=毎朝)楽しみ
鴨(かも)を炒(い)り鶏(とり)を熬(あぶ)り日日(にちにち)豊(ゆた)かなり
愚婦(ぐふ=愚かなる妻)茶(ちゃ)を煎(せん)じて情(じょう)散誕(さんたん=おおらか)
山妻(さんさい)飯(めし)を造(つく)りて意(い)従容(しょうよう=のんびり)
暁(あかつき)に来(きた)り杖(つえ)を挙(あ)げて軽浪(けいろう=軽き波)を淘(あら)い
日(ひ)出(い)づれば柴(しば)を担(にな)いて大衝(だいしょう=大通り)を過(す)ぐ
雨後(うご)蓑(みの)を披(き)て活鯉(かつり=生きた鯉)を擒(とら)え
風前(ふうぜん)斧(おの)を弄(もてあそ)んで枯松(こしょう=枯れ松)を伐(き)る
踪(あと)を潜(ひそ)め世(よ)を避(さ)けて痴蠢(ちしゅん=愚か)を妝(よそお)い
姓(せい)を隠(かく)し名(な)を埋(うず)めて唖聾(あろう=唖と聾)と作(な)る
張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「李兄(りけい)、我(われ)才(わずか)に僭先(せんせん=僭越ながら先んじ)じて句(く)を起(おこ)せり、今(いま)我(わ)が兄(けい)に到(いた)る、亦(ま)た先(ま)ず一聯(いちれん)を起(おこ)せ、小弟(しょうてい)も亦(ま)た当(まさ)に之(これ)を続(つ)ぐ可(べ)し」と。
風月(ふうげつ)に佯狂(ようきょう=狂を装う)山野(さんや)の漢(おのこ)
江湖(こうこ)に寄傲(きごう=傲りを寄せる)老余丁(ろうよてい=老いし者)
清閑(せいかん)分(ぶん)有(あ)って瀟洒(しょうしゃ=洒脱)に随(したが)い
口舌(こうぜつ)聞(き)こゆる無(な)く太平(たいへい)を喜(よろこ)ぶ
月夜(げつや)身(み)は茅屋(ぼうおく)に眠(ねむ)りて穏(おだや)かに
天昏(てんこん=空暗し)体(たい)は箬蓑(じゃくさ=竹の蓑)を蓋(おお)いて軽(かろ)し
情(じょう)を忘(わす)れて松梅(しょうばい)の友(とも)と結識(けっしき=交わり)し
意(い)を楽(たの)しんで鴎鷺(おうろ=鴎と鷺)の盟(ちかい)と相交(あいまじわ)る
名利(みょうり)心頭(しんとう=胸のうち)算計(さんけい=計算)無(な)く
干戈(かんか=武器)耳畔(じばん=耳のほとり)声(こえ)を聞(き)かず
時(とき)に随(したが)い一酌(いっしゃく=一杯)香醪(こうろう)の酒(さけ)
日(ひ)を度(わた)して三餐(さんさん=三度)野菜(やさい)の羹(あつもの)
両束(りょうそく=二束)の柴薪(さいしん=薪)活計(かっけい=生業)と為(な)し
一竿(いっかん=ひと竿)の釣線(ちょうせん)是(こ)れ営生(えいせい=暮らし)
閑(しず)かに稚子(ちし)を呼(よ)んで鋼斧(こうふ=鋼の斧)を磨(みが)かせ
静(しず)かに憨児(かんじ=愚かなる子)を喚(よ)んで旧繒(きゅうしょう=古き網)を補(おぎな)わしむ
春(はる)到(いた)れば楊柳(ようりゅう)の緑(みどり)を観(み)るを愛(あい)し
時(とき)融(と)ければ荻蘆(てきろ=荻と蘆)の青(あお)きを看(み)るを喜(よろこ)ぶ
夏天(かてん)暑(あつさ)を避(さ)けて新竹(しんちく=新しき竹)を修(おさ)め
六月(ろくがつ)涼(すずみ)を乗(と)って嫩菱(どんりょう=柔き菱)を摘(つ)む
霜降(そうこう)鶏肥(とりこ)えて常日(じょうじつ)に宰(ほふ)り
重陽(ちょうよう)蟹壮(かにこ)えて時(とき)に及(およ)んで烹(に)る
冬(ふゆ)来(きた)り日(ひ)上(のぼ)るも還(ま)た沉睡(ちんすい=深く眠)し
数九(すうきゅう=冬至から九日ずつ)天高(てんこう)自(おのずか)ら蒸(む)さず
八節(はっせつ=八つの節気)山中(さんちゅう)性(せい)を放(はな)つに随(したが)い
四時(しいじ=四季)湖裏(こり=湖の中)情(じょう)を陶(たのし)むに任(まか)す
薪(たきぎ)を采(と)るに自(おのずか)ら仙家(せんか=仙人の)興(きょう)有(あ)り
釣(つり)を垂(た)るるに全(まった)く世俗(せぞく)の形(かたち)無(な)し
門外(もんがい)野花(やか)香(こう)艶艶(えんえん=艶やか)
船頭(せんとう)緑水(りょくすい)浪(なみ)平平(へいへい=穏やか)
身(み)安(やす)んじて三公(さんこう)の位(くらい)を説(い)わず
性(せい)定(さだ)まりて十里(じゅうり)の城(しろ)に強(まさ)る
十里(じゅうり)の城(しろ)高(たか)くして閫令(こんれい=軍令)を防(ふせ)ぎ
三公(さんこう)の位(くらい)顕(あらわ)れて宣声(せんせい=布告の声)を聴(き)く
山(やま)を楽(たの)しみ水(みず)を楽(たの)しむは真(まこと)に是(こ)れ罕(まれ)なり
天(てん)を謝(しゃ)し地(ち)を謝(しゃ)し神明(しんめい)を謝(しゃ)す
他(かれ)の二人(ふたり)既(すで)に各(おのおの)詞章(ししょう)を道(い)い、又(また)相(あい)聯(つら)ねて詩句(しく)有(あ)り、那(か)の分路(ぶんろ=別れ道)の去処(ところ)に行(ゆ)き到(いた)り、躬(み)を躬(かが)めて作別(さくべつ=別れを告ぐ)。張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「李兄(りけい)呵(や)、途中(とちゅう)保重(ほじゅう=大切に)!山(やま)に上(のぼ)りて仔細(しさい=よくよく)虎(とら)を看(み)よ。假若(もし)些(いささ)かの凶険(きょうけん=危難)有(あ)らば、正(まさ)に是(こ)れ明日(みょうにち)街頭(がいとう)に故人(こじん)少(すくな)からんか!」と。李定(りてい)言(げん)を聞(き)き、大(おお)いに怒(いか)って道(い)わく、「汝(なんじ)此(こ)の厮(やつ)は憊懶(はいらん=怠け者)なるかな!好(よ)き朋友(ほうゆう=友)も亦(ま)た生死(しょうし)を替(かわ)るを得(う)るに、汝(なんじ)怎(いか)んぞ我(われ)を呪(のろ)うか?我(われ)若(も)し虎(とら)に遇(あ)いて害(そこな)いを遭(あわ)ば、汝(なんじ)必(かなら)ず浪(なみ)に遇(あ)いて江(こう)を翻(ひるがえ)さん!」と。張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「我(われ)永世(えいせい)にも亦(ま)た江(こう)を翻(ひるがえ)すを得(え)じ」と。李定(りてい)道(い)わく、「天(てん)に測(はか)りがたき風雲(ふううん)有(あ)り、人(ひと)に暫時(ざんじ=つかのま)の禍福(かふく)有(あ)り。汝(なんじ)怎(いか)んぞ就(すなわ)ち事(こと)無(な)きを保(たも)ち得(う)るか?」と。張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「李兄(りけい)、汝(なんじ)此(か)くの如(ごと)く説(と)くと雖(いえど)も、汝(なんじ)還(ま)た捉摸(そくまく=見込み)有(あ)らず;我(わ)が生意(せいい=生業)の捉摸(そくまく)有(あ)るに若(し)かず、定(かなら)ず此(か)くの如(ごと)き事(こと)を遭(あわ)じ」と。李定(りてい)道(い)わく、「汝(なんじ)が那(そ)の水面上(すいめんじょう)の営生(えいせい=暮らし)は、極(きわ)めて凶(きょう)に極(きわ)めて険(けん)、隠隠暗暗(いんいんあんあん=目に見えず暗し)、甚(なに)の捉摸(そくまく)有(あ)るか?」と。張稍(ちょうしょう)道(い)わく、「汝(なんじ)は是(こ)れ暁(さと)らざるなり。此(こ)の長安城(ちょうあんじょう)の裡(うち)、西門街(せいもんがい)の上(うえ)に、一(ひと)りの卦(け=易)を売(う)る先生(せんせい)有(あ)り。我(われ)毎日(まいにち)他(かれ)に一尾(ひとつ)の金色(こんじき)の鯉(こい)を送(おく)れば、他(かれ)便(すなわ)ち我(われ)と袖(そで)に一課(いっか)を伝(つた)え、方位(ほうい)に依(よ)らば、百下(ひゃっか)百着(ひゃくちゃく=百発百中)なり。今日(こんにち)我(われ)又(また)去(ゆ)きて卦(け)を買(か)いしに、他(かれ)我(われ)をして涇河湾頭(けいがわんとう=涇河の入り江)の東辺(とうへん)に網(あみ)を下(おろ)し、西岸(せいがん)に釣(つり)を抛(な)げしめ、定(かなら)ず満載(まんさい)の魚蝦(ぎょか)を得(え)て帰(かえ)らしむ。明日(みょうにち)城(しろ)に上(のぼ)り来(きた)り、銭(ぜに)に売(う)り酒(さけ)を沽(か)い、再(ふたた)び老兄(ろうけい)と相叙(しょうじょ=語ら)わん」と。二人(ふたり)此(ここ)より叙別(じょべつ=語らい別る)。
此(こ)れ正(まさ)に是(こ)れ路上(ろじょう)に話(はな)し、草裡(そうり=草の中)に人(ひと)有(あ)るなり。原来(もと)此(こ)の涇河(けいが)の水府(すいふ=竜宮)に一(ひと)りの水(みず)を巡(めぐ)る夜叉(やしゃ)有(あ)り、百下百着(ひゃっかひゃくちゃく)の言(げん)を聴(き)き了(おわ)り、急(いそ)ぎて水晶宮(すいしょうきゅう)に転(てん)じ、慌(あわ)てて龍王(りゅうおう)に報(ほう)じて道(い)わく、「禍事(かじ=大変)なるかな!禍事(かじ)なるかな!」と。龍王(りゅうおう)問(と)う、「甚(なに)の禍事(かじ)有(あ)るか?」と。夜叉(やしゃ)道(い)わく、「臣(しん)水(みず)を巡(めぐ)りて河辺(かへん)に去(ゆ)き到(いた)りしに、只(た)だ両(ふた)りの漁樵(ぎょしょう=漁夫と木こり)の攀話(はんわ=語らい)を聴(き)き得(う)。相別(あいわか)るる時(とき)、言語(げんご)甚(はなは)だ是(こ)れ利害(りがい=手痛し)。那(か)の漁翁(ぎょおう)説(と)く:長安城(ちょうあんじょう)の裡(うち)西門街(せいもんがい)の上(うえ)に、箇(ひと)りの卦(け)を売(う)る先生(せんせい)有(あ)りて、算(かぞ)うること最(もっと)も准(たしか)なり。他(かれ)毎日(まいにち)他(かれ)に鯉魚(りぎょ)一尾(ひとつ)を送(おく)れば、他(かれ)便(すなわ)ち袖(そで)に一課(いっか)を伝(つた)えて、他(かれ)をして百下百着(ひゃっかひゃくちゃく)ならしむ。若(も)し此(か)くの如(ごと)く算(かぞ)うるの准(たしか)なるに依(よ)らば、却(かえっ)て水族(すいぞく)を将(も)ちて尽(ことごと)く打(う)ち了(おわ)らざらんや?何(なん)を以(もっ)て水府(すいふ)を壮観(そうかん=立派に見せ)し、何(なん)を以(もっ)て浪(なみ)に躍(おど)り波(なみ)を翻(ひるがえ)して大王(だいおう)の威力(いりょく)を輔(たす)けんや?」と。龍王(りゅうおう)甚(はなは)だ怒(いか)り、急(いそ)ぎて剣(けん)を提(ひっさ)げて便(すなわ)ち長安城(ちょうあんじょう)に上(のぼ)り、此(こ)の卦(け)を売(う)る者(もの)を誅滅(ちゅうめつ)せんと要(よう)す。旁(かたわ)らより龍子龍孫(りゅうしりゅうそん=竜の子や孫)・蝦臣蟹士(かしんかいし=蝦の臣・蟹の士)・鰣軍師(じぐんし=鰣の軍師)・鱖少卿(けつしょうけい=鮭の少卿)・鯉太宰(りたいさい=鯉の太宰)の閃(ひらめ)き過(よ)ぎり、一斉(いっせい)に啓奏(けいそう)して道(い)わく、「大王(だいおう)且(しばら)く怒(いかり)を息(いこ)え。常言(じょうげん=諺)に道(い)わく、耳(みみ)を過(よ)ぎるの言(げん)、聴信(ちょうしん=信じ聴く)す可(べ)からずと。大王(だいおう)此(こ)の去(ゆ)くに、必(かなら)ず雲(くも)の従(したが)う有(あ)り、必(かなら)ず雨(あめ)の助(たす)け有(あ)らん、恐(おそ)らくは長安(ちょうあん)の黎庶(れいしょ=民草)を驚(おどろ)かし、上天(じょうてん)の責(せめ)を見(み)ん。大王(だいおう)隠顕(いんけん=隠れ現れ)測(はか)りがたく、変化(へんか)方(かた)無(な)し、但(た)だ只(た)だ一秀士(しゅうし=風雅の士)に変(へん)じ、長安城(ちょうあんじょう)内(ない)に到(いた)り、一番(ひととおり)訪問(ほうもん=訪ね問う)せよ。果(はた)して此(こ)の輩(やから)有(あ)らば、容(ゆる)して誅滅(ちゅうめつ)を加(くわ)うるも遅(おそ)からず;若(も)し此(こ)の輩(やから)無(な)くんば、是(こ)れ妄(みだ)りに他人(たにん)を害(そこな)うに非(あら)ずや?」と。龍王(りゅうおう)奏(そう)に依(よ)り、遂(つい)に宝剣(ほうけん)を棄(す)て、亦(ま)た雲雨(うんう)を興(おこ)さず、岸(きし)の上(うえ)に出(い)で、身(み)を揺(ゆすぶ)って一変(いっぺん)し、変(へん)じて一(ひと)りの白衣秀士(はくいしゅうし=白き衣の士)と作(な)る、真(まこと)に箇(こ)の豊姿英偉(ほうしえいい=姿豊かに偉なり)、聳壑昂霄(しょうがくこうしょう=谷に聳え空に昂る)。歩履(ほり=歩み)端祥(たんしょう=端整)、規(き)に循(したが)い矩(のり)を蹈(ふ)む。言語(げんご)は孔孟(こうもう)に遵(したが)い、礼貌(れいぼう)は周文(しゅうぶん)を体(たい=体現)す。身(み)には玉色(ぎょくしょく)の羅襴服(ららんぷく=羅の礼服)を穿(き)、頭(かしら)には逍遥(しょうよう)一字巾(いちじきん=一字の頭巾)を戴(いただ)く。路(みち)に上(のぼ)り来(きた)りて雲歩(うんぽ=雲の歩み)を開(ひら)き、径(ただ)ちに長安城(ちょうあんじょう)西門(せいもん)の大街(だいがい=大通り)の上(うえ)に到(いた)る。
只(た)だ一簇(ひとむら)の人(ひと)の、擠擠雑雑(せいせいざつざつ=押し合い雑然)、鬧鬧哄哄(どうどうこうこう=騒々しく賑わう)を見(み)る。内(うち)に高談闊論(こうだんかつろん=大いに論ずる)の道(い)う有(あ)り、「龍(たつ)に属(ぞく)するは本命(ほんめい=本命星)、虎(とら)に属(ぞく)するは相衝(そうしょう=ぶつかる)。寅辰巳亥(いんしんみがい)、合局(ごうきょく=吉の組み合わせ)と称(しょう)すと雖(いえど)も、但(た)だ只(た)だ怕(おそ)るるは是(こ)れ日(ひ)の歳君(さいくん=その年の星)を犯(おか)すなり」と。龍王(りゅうおう)言(げん)を聞(き)き、情(こころ)に是(こ)れ那(か)の卜(ぼく)を売(う)るの処(ところ)なるを知(し)り、上(のぼ)り前(まえ)に走(はし)り、衆人(しゅうじん)を分(わ)け開(ひら)き、裡(うち)を望(のぞ)みて観(み)るに、只(た)だ見(み)ゆ、
四壁(しへき)珠璣(しゅき=珠玉)、満堂(まんどう)綺繍(きしゅう=美しき刺繍)
宝鴨(ほうおう=鴨形の香炉)香(こう)断(た)ゆる無(な)く、磁瓶(じへい)水(みず)恁(か)くも清(きよ)し
両辺(りょうへん)に羅列(られつ)す王維(おうい)の画(え)
座上(ざじょう)に高(たか)く懸(か)く鬼谷(きこく)の形(かたち)
端渓硯(たんけいけん=端渓の硯)、金烟墨(きんえんぼく=金烟の墨)
相(あい)襯(あ)いて霜毫(そうごう=白き筆)の大筆(だいひつ)
火珠林(かじゅりん)・郭璞数(かくはくすう=郭璞の術)
謹(つつし)んで台政新経(たいせいしんけい)に対(たい=照合)す
六爻(りっこう=六爻)熟諳(じゅくあん=精通)、八卦(はっけ)精通(せいつう)
天地(てんち)の理(り)を知(し)る能(あた)い、鬼神(きじん)の情(じょう)を暁(さと)るに善(よ)し
一槃(いっぱん=ひとまとめ)の子午(しご=十二支)安排(あんばい)定(さだ)まり
満腹(まんぷく)の星辰(せいしん=星々)布列(ふれつ)清(きよ)し
真(まこと)に箇(こ)の那(か)の未来事(みらいじ)、過去事(かこじ)
観(み)ること月鏡(げっきょう=月の鏡)の如(ごと)し
幾家(いくいえ)か興(おこ)り、幾家(いくいえ)か敗(やぶ)るるを
鑑(かんが)みること神明(しんめい)の若(ごと)し
凶(きょう)を知(し)り吉(きち)を定(さだ)め、死(し)を断(だん)じ生(しょう)を言(い)う
談(だん)を開(ひら)けば風雨(ふうう)迅(はや)く、筆(ふで)を下(くだ)せば鬼神(きじん)驚(おどろ)く
招牌(しょうはい=看板)に字(じ)有(あ)り姓(せい)名(な)を書(か)く
神課先生(しんかせんせい)袁守誠(えんしゅせい)
此(こ)の人(ひと)は誰(たれ)なるか?原来(もと)是(こ)れ当朝(とうちょう=今の朝廷)欽天監(きんてんかん=天文台)台正(だいせい=長官)先生(せんせい)袁天罡(えんてんこう)の叔父(おじ)、袁守誠(えんしゅせい)是(こ)れなり。那(か)の先生(せんせい)果然(かぜん=果たして)相貌(そうぼう=容貌)稀奇(きき=珍しく)、儀容(ぎよう=姿)秀麗(しゅうれい)、名(な)は大国(たいこく)に揚(あ)がり、術(じゅつ)は長安(ちょうあん)に冠(かんむり)たり。龍王(りゅうおう)門(もん)に入(い)り来(きた)り、先生(せんせい)と相見(しょうけん)す。礼(れい)畢(おわ)り、龍(りゅう)を請(しょう)じて上座(じょうざ)に坐(ざ)し、童子(どうじ)茶(ちゃ)を献(けん=捧ぐ)。先生(せんせい)問(と)うて曰(いわ)く、「公(こう)来(きた)りて何事(なにごと)を問(と)うか?」と。龍王(りゅうおう)曰(いわ)く、「請(こ)う、天上(てんじょう)の陰晴(いんせい=晴れ曇り)の事(こと)の如何(いかん)を卜(ぼく)せよ」と。先生(せんせい)即(すなわ)ち袖(そで)に一課(いっか)を伝(つた)え、断(だん)じて曰(いわ)く、「雲(くも)は山頂(さんちょう)を迷(まよ)わせ、霧(きり)は林梢(りんしょう=林の梢)を罩(おお)う。若(も)し雨沢(うたく=恵みの雨)を占(うらな)わば、准(かなら)ず明朝(みょうちょう)に在(あ)り」と。龍(りゅう)曰(いわ)く、「明日(みょうにち)甚(いず)れの時(とき)に雨(あめ)降(ふ)るか?雨(あめ)多少(たしょう)の尺寸(せきすん=寸法)有(あ)るか?」と。先生(せんせい)道(い)わく、「明日(みょうにち)辰時(しんじ)に雲(くも)を布(し)き、巳時(しじ)に雷(かみなり)を発(はっ)し、午時(ごじ)に雨(あめ)降(ふ)り、未時(びじ)に雨(あめ)足(た)り、共(あわ)せて水(みず)三尺三寸零(さんじゃくさんすんれい)四十八点(しじゅうはってん)を得(う)」と。龍王(りゅうおう)笑(わら)って曰(いわ)く、「此(こ)の言(げん)戯(ぎ=冗談)と作(な)す可(べ)からず。如(も)し明日(みょうにち)雨(あめ)有(あ)りて、汝(なんじ)が断(だん)じたる時辰(じしん=時刻)・数目(すうぼく=数量)に依(よ)らば、我(われ)課金(かきん=占い料)五十両(ごじゅうりょう)を送(おく)りて奉謝(ほうしゃ=謝礼)せん。若(も)し雨(あめ)無(な)く、或(あるい)は時辰(じしん)・数目(すうぼく)に依(よ)らざれば、我(われ)汝(なんじ)と実(じつ)に説(と)かん、定(かなら)ず汝(なんじ)が門面(もんめん=店構え)を打(う)ち壊(こわ)し、汝(なんじ)が招牌(しょうはい)を扯(ひ)き砕(くだ)き、即時(そくじ)に長安(ちょうあん)より赶(お)い出(いだ)し、此(ここ)に在(あ)りて衆(しゅう)を惑(まど)わすを許(ゆる)さざらん!」と。先生(せんせい)欣然(きんぜん=喜び)として答(こた)えて曰(いわ)く、「此(こ)れ一定(いちじょう)汝(なんじ)に任(まか)す。請(さ)らば、請(さ)らば。明朝(みょうちょう)雨(あめ)の後(のち)来(きた)りて会(かい)せん」と。
龍王(りゅうおう)辞別(じべつ)し、長安(ちょうあん)を出(い)で、水府(すいふ)に回(かえ)る。大小(だいしょう)の水神(すいしん)接(むか)え着(つ)き、問(と)うて曰(いわ)く、「大王(だいおう)那(か)の卦(け)を売(う)る者(もの)を訪(たず)ぬること如何(いかん)?」と。龍王(りゅうおう)道(い)わく、「有(あ)る、有(あ)る、有(あ)る!但(た)だ是(こ)れ一(ひと)りの掉嘴口(ちょうしこう=おしゃべり)討春(とうしゅん=春を売る)の先生(せんせい)なるのみ。我(われ)他(かれ)に何時(いつ)雨(あめ)の降(ふ)るを問(と)えば、他(かれ)便(すなわ)ち明日(みょうにち)雨(あめ)降(ふ)ると説(い)い、他(かれ)に甚(なに)の時辰(じしん)、甚(なに)の雨数(うすう=雨量)を問(と)えば、他(かれ)便(すなわ)ち辰時(しんじ)に雲(くも)を布(し)き、巳時(しじ)に雷(かみなり)を発(はっ)し、午時(ごじ)に雨(あめ)降(ふ)り、未時(びじ)に雨(あめ)足(た)り、水(みず)三尺三寸零(さんじゃくさんすんれい)四十八点(しじゅうはってん)を得(う)と説(い)う。我(われ)他(かれ)と箇(ひと)の賭賽(とさい=賭け)を打(う)てり、若(も)し果(はた)して他(かれ)が言(げん)の如(ごと)くならば、他(かれ)に謝金(しゃきん)五十両(ごじゅうりょう)を送(おく)らん;如(も)し略(ほん)の些(ささ)やかに差(たが)わば、便(すなわ)ち他(かれ)が門面(もんめん)を打(う)ち破(やぶ)り、他(かれ)を赶(お)いて身(み)を起(た)たしめ、長安(ちょうあん)に在(あ)りて衆(しゅう)を惑(まど)わすを許(ゆる)さじ」と。衆水族(しゅうすいぞく)笑(わら)って曰(いわ)く、「大王(だいおう)は是(こ)れ八河(はっか)の都総管(とそうかん=総監)、司雨(しう=雨を司る)の大龍神(だいりゅうじん)なり、雨(あめ)の有(あ)る無(な)きは、惟(た)だ大王(だいおう)之(これ)を知(し)る、他(かれ)怎(いか)んぞ敢(あえ)て此(か)くの如(ごと)く胡言(こげん=出鱈目)を言(い)わんや?那(か)の卦(け)を売(う)る者(もの)は定(かなら)ず是(こ)れ輸(やぶ)れたり!定(かなら)ず是(こ)れ輸(やぶ)れたり!」と。
此(こ)の時(とき)龍子龍孫(りゅうしりゅうそん)と那(か)の魚鯽蟹士(ぎょせきかいし=魚・鮒・蟹の士)と正(まさ)に歓笑(かんしょう)して此(こ)の事(こと)を談(だん)じ未(いま)だ畢(おわ)らざるに、只(た)だ半空(はんくう=空の中)に叫(よ)ぶを聴(き)く、「涇河(けいが)の龍王(りゅうおう)、旨(し)を接(う)けよ」と。衆(しゅう)頭(かしら)を抬(あ)げて上(うえ)を看(み)れば、是(こ)れ一(ひと)りの金衣力士(こんいりきし=金の衣の力士)、手(て)に玉帝(ぎょくてい)の勅旨(ちょくし)を擎(ささ)げ、径(ただ)ちに水府(すいふ)に投(とう)じて来(きた)る。慌(あわ)て得(て)龍王(りゅうおう)衣(ころも)を整(ととの)え端粛(たんしゅく=謹み粛み)、香(こう)を焚(た)いて旨(し)を接(う)く。金衣力士(こんいりきし)空(くう)に回(かえ)って去(ゆ)く。龍王(りゅうおう)恩(おん)を謝(しゃ)し、封(ふう)を拆(ひら)きて看(み)る時(とき)、上(うえ)に写(うつ)して曰(いわ)く、「八河総(はっかそう)に勅命(ちょくめい)し、雷(かみなり)を駆(か)り電(いなずま)を掣(ひ)いて行(ゆ)け;明朝(みょうちょう)雨沢(うたく)を施(ほどこ)し、普(あまね)く長安城(ちょうあんじょう)を済(すく)え」と。旨意(しい)の上(うえ)の時辰(じしん)・数目(すうぼく=数量)、那(か)の先生(せんせい)の判断(はんだん)せる者(もの)と毫髪(ごうはつ=毛筋ほど)も差(たが)わず、唬(おど)し得(て)那(か)の龍王(りゅうおう)魂(たましい)飛(と)び魄(たましい)散(さん)ず。少頃(しばらく)して蘇醒(そせい=正気に返り)、衆水族(しゅうすいぞく)に対(むか)いて曰(いわ)く、「塵世(じんせい=人の世)の上(うえ)に此(か)くの如(ごと)き霊人(れいじん=霊妙の人)有(あ)り!真(まこと)に箇(こ)は是(こ)れ能(よ)く天(てん)に通(つう)じ地(ち)に徹(てっ)す、却(かえっ)て他(かれ)に輸(やぶ)れざらんや!」と。鰣軍師(じぐんし)奏(そう)して云(い)わく、「大王(だいおう)心(こころ)を安(やすん)ぜよ。他(かれ)に贏(か)たんと要(よう)するに何(なん)の難処(なんしょ=難しさ)有(あ)らんや?臣(しん)小計(しょうけい=小さき計)有(あ)り、管(きっと)那(か)の厮(やつ)が口嘴(こうし=口)を滅(ほろぼ)さしめん」と。龍王(りゅうおう)計(けい)を問(と)う。軍師(ぐんし)道(い)わく、「雨(あめ)を行(おこな)うに時辰(じしん)を差(たが)え、点数(てんすう)を少(すく)なくせば、便(すなわ)ち是(こ)れ那(か)の厮(やつ)が断卦(だんけ=占い)の准(たしか)ならざるなり、怕(おそ)れずんば他(かれ)に贏(か)たざらんや?那(そ)の時(とき)招牌(しょうはい)を捽(ひっつか)み砕(くだ)き、他(かれ)を赶(お)いて路(みち)を跑(はし)らしめん、果(はた)して何(なん)の難(なん)か有(あ)らんや?」と。龍王(りゅうおう)他(かれ)が奏(そう)する所(ところ)に依(よ)り、果(はた)して憂(うれ)えず。
次日(よくじつ)に至(いた)り、風伯(ふうはく=風の神)・雷公(らいこう=雷の神)・雲童(うんどう=雲の童子)・電母(でんぼ=電の女神)を点札(てんさつ=点呼)し、直(ただ)ちに長安城(ちょうあんじょう)九霄(きゅうしょう=天の高き)の空(そら)の上(うえ)に至(いた)る。他(かれ)那(か)の巳時(しじ)に挨(もちこた)えて方(まさ)に雲(くも)を布(し)き、午時(ごじ)に雷(かみなり)を発(はっ)し、未時(びじ)に雨(あめ)を落(おと)し、申時(しんじ)に雨(あめ)止(や)み、却(かえっ)て只(た)だ三尺零四十点(さんじゃくれいしじゅってん)を得(え)しのみ、他(かれ)が一(ひと)つの時辰(じしん)を改(あらた)め、他(かれ)が三寸八点(さんすんはってん)を剋(へら)し、雨(あめ)の後(のち)衆将(しゅうしょう)を発放(はっぽう=解散)し班師(はんし=帰還)す。他(かれ)又(また)雲頭(うんとう)を按(おさ)え落(おと)し、還(ま)た白衣秀士(はくいしゅうし)に変(へん)じ、那(か)の西門裡(せいもんり)の大街(だいがい)の上(うえ)に到(いた)り、袁守誠(えんしゅせい)の卦鋪(けほ=占いの店)に撞(つ)き入(い)り、分説(ぶんせつ=弁明)を容(い)れず、便(すなわ)ち他(かれ)が招牌(しょうはい)・筆(ふで)・硯(すずり)等(とう)を将(も)ちて一斉(いっせい)に捽(ひっつか)み砕(くだ)く。那(か)の先生(せんせい)椅(いす)の上(うえ)に坐(ざ)し、公然(こうぜん=平然)として動(うご)かず。此(こ)の龍王(りゅうおう)又(また)門板(もんばん=戸板)を輪(ふる)い起(おこ)して便(すなわ)ち打(う)ち、罵(ののし)って道(い)わく、「此(こ)の妄(みだ)りに禍福(かふく)を言(い)う妖人(ようじん)、擅(ほしいまま)に衆心(しゅうしん=人の心)を惑(まど)わす潑漢(はつかん=悪漢)なるかな!汝(なんじ)卦(け)も又(また)霊(たま)ならず、言(げん)も又(また)狂謬(きょうびゅう=狂い誤れり)す!今日(こんにち)雨(あめ)の降(ふ)るの時辰(じしん)・点数(てんすう)を説(と)きて俱(みな)相対(あいたい=合致)せざるに、汝(なんじ)還(ま)た危然(きぜん=どっか)と高(たか)く坐(ざ)す、早(はや)きに趁(つ)けて去(い)ね、汝(なんじ)が死罪(しざい)を饒(ゆる)さん!」と。守誠(しゅせい)猶(な)お公然(こうぜん)として分毫(ぶんごう=毫ほど)も懼(おそ)れず、面(おもて)を仰(あお)ぎ天(てん)に朝(むか)いて冷笑(れいしょう)して道(いわ)く、「我(われ)怕(おそ)れず!我(われ)怕(おそ)れず!我(われ)に死罪(しざい)無(な)し、只(た)だ怕(おそ)るるは汝(なんじ)倒(かえっ)て箇(ひと)の死罪(しざい)有(あ)るかな!別人(べつじん)は好(よ)く瞞(だま)すも、只(た)だ是(こ)れ我(われ)を瞞(だま)し難(がた)きのみ。我(われ)汝(なんじ)を認(みと)め得(え)たり、汝(なんじ)は秀士(しゅうし)に非(あら)ず、乃(すなわ)ち是(こ)れ涇河(けいが)の龍王(りゅうおう)なり。汝(なんじ)玉帝(ぎょくてい)の勅旨(ちょくし)に違(そむ)き、時辰(じしん)を改(あらた)め、点数(てんすう)を剋(へら)し、天条(てんじょう)を犯(おか)せり。汝(なんじ)那(か)の剮龍台(かろうだい=竜を刻む台)の上(うえ)に在(あ)りて、恐(おそ)らくは一刀(いっとう)を免(まぬが)れ難(がた)からん、汝(なんじ)還(ま)た此(ここ)に在(あ)りて我(われ)を罵(ののし)るか?」と。龍王(りゅうおう)説(と)くを見(み)、心(こころ)驚(おどろ)き胆(きも)戦(おのの)き、毛骨(もうこつ)悚然(しょうぜん=身の毛がよだつ)、急(いそ)ぎ門板(もんばん)を棄(す)て、衣(ころも)を整(ととの)え礼(れい)に伏(ふく)し、先生(せんせい)に向(むか)いて跪(ひざまず)き下(おろ)りて道(いわ)く、「先生(せんせい)怪(とが)むるなかれ。前言(ぜんげん)は之(これ)を戯(たわむ)れしのみ、豈(あ)に知(し)らんや仮(かり)を作(な)して真(しん)と成(な)し、果然(かぜん)天条(てんじょう)に違犯(いはん)せり、奈何(いかん)?望(のぞ)むらくは先生(せんせい)我(われ)を救(すく)うて一救(ひとすく)いせよ!然(しか)らずんば、我(われ)死(し)すとも亦(ま)た汝(なんじ)を放(はな)たじ」と。守誠(しゅせい)曰(いわ)く、「我(われ)汝(なんじ)を救(すく)うを得(え)ず、只(た)だ一条(ひとすじ)の生路(せいろ=生きる道)を指(さし)して汝(なんじ)に与(あた)え、投生(とうしょう=生を受け直す)せしめんのみ」と。龍(りゅう)曰(いわ)く、「願(ねが)わくは指教(しきょう=教え)を求(もと)めん」と。先生(せんせい)曰(いわ)く、「汝(なんじ)明日(みょうにち)午時三刻(ごじさんこく)、当(まさ)に人曹官(じんそうかん=人間界の役)魏征(ぎちょう)の処(ところ)に赴(おもむ)きて斬(きら)るるを聴(き)く可(べ)し。汝(なんじ)果(はた)して性命(せいめい)を要(よう)せば、須(すべから)く当(まさ)に急急(いそい)に去(ゆ)きて当今(とうきん=今の)唐太宗(とうたいそう)皇帝(こうてい)に告(つ)ぐるを可(よ)しとす。那(か)の魏征(ぎちょう)は是(こ)れ唐王(とうおう)駕下(がか=配下)の丞相(じょうしょう)なり、若(も)し他(かれ)が箇(ひと)の人情(にんじょう=情け)を討(こ)う得(う)れば、方(まさ)に事(こと)無(な)きを保(たも)たん」と。龍王(りゅうおう)言(げん)を聞(き)き、拝(はい)し辞(じ)して涙(なみだ)を含(ふく)みて去(ゆ)く。覚(おぼ)えず紅日(こうじつ=赤き日)西(にし)に沈(しず)み、太陰星(たいいんせい=月)上(のぼ)る、但(た)だ見(み)ゆ、
烟(けむり)は凝(こ)り山紫(さんし=山は紫)帰鴉(きあ=帰る鴉)倦(つか)れ
遠路(えんろ)の行人(こうじん=旅人)旅店(りょてん=宿)に投(とう)ず
渡頭(ととう=渡し場)の新雁(しんがん=新しき雁)眭沙(せいさ=砂浜)に宿(やど)り
銀河(ぎんが)現(あら)わる 更籌(こうちゅう=時を告げる)を催(うなが)し
孤村(こそん)の灯火(とうか)光(ひかり)焰(ほのお)無(な)し
風(かぜ)は炉烟(ろえん=炉の煙)を裊(たなび)かせ道院(どういん=道観)清(きよ)し
蝴蝶(こちょう)の夢中(むちゅう)人(ひと)見(み)えず
月(つき)は花影(かえい)を移(うつ)して欄干(らんかん)に上(のぼ)る
星光(せいこう)乱(みだ)れ 漏声(ろうせい=水時計の音)換(かわ)り
覚(おぼ)えず深沉(しんちん=夜更け)にして夜(よる)已(すで)に半(なか)ばなり
此(こ)の涇河(けいが)の龍王(りゅうおう)も亦(ま)た水府(すいふ)に回(かえ)らず、只(た)だ空(くう=空)の中(なか)に在(あ)り、子時(しじ)の前後(ぜんご)に到(いた)るを等(ま)ち、雲頭(うんとう)を収(おさ)め、霧角(むかく=霧の角)を斂(おさ)め、径(ただ)ちに皇宮(こうきゅう)の門首(もんしゅ=門前)に来(きた)る。此(こ)の時(とき)唐王(とうおう)正(まさ)に夢(ゆめ)に宮門(きゅうもん)の外(そと)に出(い)で、月(つき)を歩(あゆ)み花陰(かいん=花の陰)に在(あ)りしに、忽然(たちま)ち龍王(りゅうおう)変(へん)じて人相(じんそう=人の姿)と作(な)り、上(のぼ)り前(まえ)に跪(ひざまず)き拝(はい)す。口(くち)に叫(よ)んで曰(いわ)く、「陛下(へいか)、我(われ)を救(すく)え!我(われ)を救(すく)え!」と。太宗(たいそう)云(い)わく、「汝(なんじ)は是(こ)れ何人(なんびと)なるか?朕(ちん)当(まさ)に汝(なんじ)を救(すく)わん」と。龍王(りゅうおう)云(い)わく、「陛下(へいか)は是(こ)れ真龍(しんりゅう=真の竜)、臣(しん)は是(こ)れ業龍(ごうりゅう=業の竜)なり。臣(しん)天条(てんじょう)を犯(おか)ししに因(よ)り、陛下(へいか)が賢臣(けんしん)人曹官(じんそうかん)魏征(ぎちょう)の処(ところ)に斬(きら)るるに当(あ)たる、故(ゆえ)に来(きた)りて拝(はい)し求(もと)む、望(のぞ)むらくは陛下(へいか)我(われ)を救(すく)うて一救(ひとすく)いせよ!」と。太宗(たいそう)曰(いわ)く、「既(すで)に魏征(ぎちょう)の処(ところ)に斬(きら)るるならば、朕(ちん)以(もっ)て汝(なんじ)を救(すく)う可(べ)し。汝(なんじ)心(こころ)を安(やすん)じて前(まえ)に去(い)ね」と。龍王(りゅうおう)歓喜(かんき)し、叩(ぬかず)き謝(しゃ)して去(ゆ)く。
却(さ)て説(つ)ぐ、那(か)の太宗(たいそう)夢(ゆめ)醒(さ)めし後(のち)、念念(ねんねん=一心に)心(こころ)に在(あ)り。早(はや)くも已(すで)に五鼓三点(ごこさんてん=明け方)に至(いた)り、太宗(たいそう)朝(ちょう)を設(もう)け、両班(りょうはん=左右の列)の文武(ぶんぶ)官員(かんいん)を聚集(しゅうしゅう=集める)。但(た)だ見(み)ゆるは那(か)の、
烟(けむり)は鳳闕(ほうけつ=鳳凰の門)を籠(こ)め、香(こう)は龍楼(りゅうろう)に藹(ただよ)い
光(ひかり)揺(ゆ)れて丹扆(たんい=赤き屏風)動(うご)き、雲(くも)は翠華(すいか=翠の旗)を払(はら)いて流(なが)る
君臣(くんしん)相契(あいけい=契り合い)堯舜(ぎょうしゅん)に同(おな)じ
礼楽(れいがく)威厳(いげん)漢周(かんしゅう)に近(ちか)し
侍臣(じしん)の灯(ともしび)、宮女(きゅうじょ)の扇(おうぎ)、双々(そうそう)映(えい)じて彩(いろど)り
孔雀屏(くじゃくびょう)・麒麟殿(きりんでん)、処処(しょしょ)光(ひかり)浮(うか)ぶ
山呼(さんこ)して万歳(ばんぜい)を唱(とな)え、華祝(かしゅく)して千秋(せんしゅう)を祈(いの)る
静鞭(せいべん=静かの鞭)三下(さんげ)響(ひび)き、衣冠(いかん)冕旒(べんりゅう=天子の冠)を拝(はい)す
宮花(きゅうか)燦爛(さんらん)天香(てんこう)襲(および)
堤柳(ていりゅう)軽柔(けいじゅう)御楽(ぎょがく)謳(うた)う
珍珠簾(ちんじゅれん)・翡翠簾(ひすいれん)、金鉤(きんこう)高(たか)く控(ひか)え
龍風扇(りゅうふうせん)・山河扇(さんがせん)、宝輦(ほうれん=天子の車)停留(ていりゅう)す
文官(ぶんかん)英秀(えいしゅう=秀で)、武将(ぶしょう)抖擻(とそう=奮い立つ)
御道(ぎょどう)高下(こうげ)を分(わか)ち、丹墀(たんち=赤き階)品流(ひんりゅう=位階)を列(なら)ぶ
金章紫綬(きんしょうしじゅ=金印と紫の綬)三象(さんぞう=三公)に乗(じょう)じ
地久天長(ちきゅうてんちょう)万々秋(ばんばんしゅう)
衆官(しゅうかん)朝賀(ちょうが)已(すで)に畢(おわ)り、各(おのおの)班(はん=列)を分(わか)つ。唐王(とうおう)鳳目龍睛(ほうもくりゅうせい=鳳の目竜の瞳)を閃(ひらめ)かせ、一一(いちいち)頭(かしら)より観(み)るに、只(た)だ那(か)の文官(ぶんかん)の内(うち)は是(こ)れ房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)・徐世勣(じょせいせき)・許敬宗(きょけいそう)・王珪(おうけい)等(とう)、武官(ぶかん)の内(うち)は是(こ)れ馬三宝(ばさんぽう)・段志賢(だんしけん)・殷開山(いんかいざん)・程咬金(ていこうきん)・劉洪紀(りゅうこうき)・胡敬徳(こけいとく)・秦叔宝(しんしゅくほう)等(とう)、一箇一箇(いっこいっこ=めいめい)威儀(いぎ)端粛(たんしゅく)なるを見(み)るも、却(かえっ)て魏征(ぎちょう)丞相(じょうしょう)の見(み)えざるを見(み)る。唐王(とうおう)徐世勣(じょせいせき)を召(め)して殿(でん)に上(のぼ)らせ、道(い)わく、「朕(ちん)夜間(やかん)一(ひと)つの怪夢(けいむ=怪しき夢)を得(え)、一(ひと)りの人(ひと)の面(おもて)を迎(むか)えて拝謁(はいえつ=拝謁)し、口(くち)に涇河(けいが)の龍王(りゅうおう)なりと称(しょう)し、天条(てんじょう)を犯(おか)して人曹官(じんそうかん)魏征(ぎちょう)の処(ところ)に斬(きら)るるに当(あ)たると称(しょう)し、寡人(かじん=私)に拝告(はいこく)して他(かれ)を救(すく)わんことを乞(こ)う、朕(ちん)已(すで)に許諾(きょだく)せり。今日(こんにち)班前(はんぜん=列の前)に独(ひと)り魏征(ぎちょう)を見(み)ざるは、何(なん)ぞや?」と。世勣(せいせき)対(こた)えて曰(いわ)く、「此(こ)の夢(ゆめ)告(つ)ぐること准(たしか)なり、須臾(しばらく)して魏征(ぎちょう)来(きた)り朝(ちょう)せば、陛下(へいか)他(かれ)をして門(もん)を出(い)でしむることなかれ。此(こ)の一日(いちにち)を過(す)ごさば、夢中(むちゅう)の龍(りゅう)を救(すく)う可(べ)し」と。唐王(とうおう)大(おお)いに喜(よろこ)び、即(すなわ)ち旨(し)を伝(つた)え、当駕官(とうがかん=当直の官)をして魏征(ぎちょう)を宣(せん)して朝(ちょう)に入(い)らしむ。
却(さ)て説(つ)ぐ、魏征(ぎちょう)丞相(じょうしょう)府(ふ)に在(あ)りて、夜(よる)乾象(けんしょう=天象)を観(み)、正(まさ)に宝香(ほうこう=尊き香)を爇(た)き居(お)りしに、只(た)だ九霄(きゅうしょう)に鶴唳(かくれい=鶴の鳴き)の聞(き)こゆる有(あ)るを聞(き)く、是(こ)れ天(てん)の仙使(せんし=仙の使者)を差(さし)し向(む)け、玉帝(ぎょくてい)の金旨(きんし=金の勅)一道(ひとすじ)を捧(ささ)げ、他(かれ)をして午時三刻(ごじさんこく)に、夢(ゆめ)に涇河(けいが)の老龍(ろうりゅう)を斬(き)らしむ。此(こ)の丞相(じょうしょう)天恩(てんおん)を謝(しゃ)し、斎戒(さいかい=物忌み)沐浴(もくよく)し、府(ふ)の中(なか)に在(あ)りて慧剣(けいけん=智慧の剣)を試(こころ)み、元神(げんしん=精神)を運(めぐ)らす、此(こ)れに因(よ)って曾(かつ)て朝(ちょう)に入(い)らず。当駕官(とうがかん)の旨(し)を赍(もたら)して来(きた)り宣(せん)するを見(み)るや、惶懼(こうく=恐れ)に任(た)えず、又(また)敢(あえ)て君命(くんめい)に違(そむ)き遅(おく)るること無(な)く、只(た)だ急急(いそい)に衣(ころも)を整(ととの)え帯(おび)を束(つか)ね、旨(し)と同(とも)に朝(ちょう)に入(い)り、御前(ごぜん)に在(あ)りて頭(かしら)を叩(たた)いて罪(つみ)を請(こ)う。唐王(とうおう)道(い)わく、「卿(けい)を赦(ゆる)して罪(つみ)無(な)からしむ」と。那(そ)の時(とき)諸臣(しょしん)未(いま)だ朝(ちょう)を退(しりぞ)かず、此(ここ)に至(いた)りて、却(かえっ)て命(めい)じて簾(すだれ)を巻(ま)き朝(ちょう)を散(さん)ぜしむ。独(ひと)り魏征(ぎちょう)を留(とど)め、金鑾(きんらん)に宣(せん)し上(のぼ)せ、便殿(びんでん=控えの殿)に召(め)し入(い)れ、先(ま)ず安邦(あんぽう)の策(さく)・定国(ていこく)の謀(はかりごと)を談論(だんろん)す。巳末午初(みまつごしょ=巳の終り午の初め)の時候(じこう)に近(ちか)づくや、却(かえっ)て宮人(きゅうじん)に命(めい)じ、大棋(たいぎ=碁)を取(と)り過(よ)ぎ来(きた)らしめ、「朕(ちん)賢卿(けんけい)と対弈(たいえき=碁を打つ)すること一局(ひとくさ)りせん」と。衆嬪妃(しゅうひんひ=多くの妃)随(したが)って棋枰(きへい=碁盤)を取(と)り、御案(ぎょあん=天子の机)に鋪設(ほせつ=敷き設く)。魏征(ぎちょう)恩(おん)を謝(しゃ)し、即(すなわ)ち唐王(とうおう)と対弈(たいえき)す。一逓一着(いっていいっちゃく=一手ずつ)、陣勢(じんせい)を擺(ひら)き開(あ)く。正(まさ)に《爛柯経(らんかけい)》に合(かな)いて云(い)わく、
博弈(えき=碁)の道(みち)、謹厳(きんげん=慎み厳しき)を貴(たっと)ぶ
高者(こうしゃ=上手)は腹(はら=中央)に在(あ)り、下者(げしゃ=下手)は辺(へん=端)に在(あ)り、中者(ちゅうしゃ)は角(かど)に在(あ)り、此(こ)れ棋家(きか)の常法(じょうほう)なり
法(ほう)に曰(いわ)く、「寧(むし)ろ一子(いっし)を輸(ま)くるも、一先(いっせん=先手)を失(うしな)わず」
左(ひだり)を撃(う)てば則(すなわ)ち右(みぎ)を視(み)、後(うしろ)を攻(せ)めば則(すなわ)ち前(まえ)を瞻(み)る
先(さき)にして而(しか)も後(おく)るる有(あ)り、後(おく)れて而(しか)も先(さき)んずる有(あ)り
両生(りょうしょう=共に生きる)は断(た)つ勿(なか)れ、皆活(かいかつ=共に活きる)は連(つな)ぐ勿(なか)れ
闊(ひろ)きは太(はなは)だ疏(まば)らなる可(べ)からず、密(みっ)なるは太(はなは)だ促(せま)き可(べ)からず
其(そ)の子(こ)に恋(こい)して生(い)きるを求(もと)めんよりは、之(これ)を棄(す)てて勝(か)つを取(と)るに若(し)かず
其(そ)の事(こと)無(な)くして独(ひと)り行(ゆ)かんよりは、之(これ)を固(かた)めて自(みずか)ら補(おぎな)うに若(し)かず
彼(かれ)衆(おお)く我(われ)寡(すくな)ければ、先(ま)ず其(そ)の生(い)きるを謀(はか)り
我(われ)衆(おお)く彼(かれ)寡(すくな)ければ、務(つと)めて其(そ)の勢(いきおい)を張(は)れ
善(よ)く勝(か)つ者(もの)は争(あらそ)わず、善(よ)く陣(じん=布陣)する者(もの)は戦(たたか)わず
善(よ)く戦(たたか)う者(もの)は敗(やぶ)れず、善(よ)く敗(やぶ)るる者(もの)は乱(みだ)れず
夫(そ)れ棋(ご)は始(はじ)め正(せい)を以(もっ)て合(あ)い、終(おわ)り奇(き)を以(もっ)て勝(か)つ
凡(およ)そ敵(てき)の事(こと)無(な)くして自(みずか)ら補(おぎな)う者(もの)は、侵絶(しんぜつ=侵入し絶やす)の意(い)有(あ)り
小(しょう)を棄(す)てて救(すく)わざる者(もの)は、大(だい)を図(はか)るの心(こころ)有(あ)り
手(て)に随(したが)いて下(くだ)す者(もの)は、謀(はかりごと)無(な)きの人(ひと)なり
思(おも)わずして応(こた)うる者(もの)は、敗(やぶれ)を取(と)るの道(みち)なり
《詩(し)》に云(い)わく、『惴惴(ずいずい=恐れるさま)小心(しょうしん)、谷(たに)に臨(のぞ)むが如(ごと)し』と、此(こ)れを謂(い)うなり
詩(し)に曰(いわ)く、
棋盤(きばん)は地(ち)と為(な)り子(こ)は天(てん)と為(な)る
色(いろ)は陰陽(いんよう)に按(したが)いて造化(ぞうか)全(まった)し
玄微(げんび=奥深き)通変(つうへん=変化に通ずる)の処(ところ)に下(くだ)り到(いた)れば
当時(とうじ)の爛柯仙(らんかせん)を笑(わら)い夸(ほ)む
君臣(くんしん)両(ふた)り此(こ)の棋(ご)に対弈(たいえき)し、正(まさ)に午時三刻(ごじさんこく)に下(くだ)り到(いた)るや、一盤(いちばん)の残局(ざんきょく=終わらぬ碁)未(いま)だ終(おわ)らざるに、魏征(ぎちょう)忽然(たちま)ち案(あん=机)の辺(ほとり)に踏(ふ)み伏(ふ)し、鼾鼾(かんかん=ぐうぐう)と盹睡(とんすい=居眠り)す。太宗(たいそう)笑(わら)って曰(いわ)く、「賢卿(けんけい)は真(まこと)に是(こ)れ社稷(しゃしょく=国)を匡扶(きょうふ=助け支う)するの心(こころ)労(ろう)し、江山(こうざん=国)を創立(そうりつ)するの力(ちから)倦(つか)れたり、此(こ)れに因(よ)って覚(おぼ)えず盹睡(とんすい)するなり」と。太宗(たいそう)他(かれ)の眠(ねむ)るに任(まか)せ、更(さら)に呼(よ)び喚(よ)ばず。
多(あま)からずして、魏征(ぎちょう)醒(さ)め来(きた)り、地(ち)に俯(うつぶ)し伏(ふ)して道(い)わく、「臣(しん)万死(ばんし)に当(あ)たる可(べ)し!臣(しん)万死(ばんし)に当(あ)たる可(べ)し!却(かえっ)て才(ただいま)暈困(うんこん=眩み疲れ)し、為(な)す所(ところ)を知(し)らず、望(のぞ)むらくは陛下(へいか)臣(しん)が君(きみ)を慢(あなど)るの罪(つみ)を赦(ゆる)されんことを!」と。太宗(たいそう)道(い)わく、「卿(けい)何(なん)の慢罪(まんざい)有(あ)るか?且(しばら)く起(た)ち来(きた)れ、残棋(ざんき)を払(はら)い退(しりぞ)け、卿(けい)と従(あらた)めて新(あら)たに更(あらた)めて着(う)たん」と。魏征(ぎちょう)恩(おん)を謝(しゃ)し、却(かえっ)て才(いま)子(こ)を手(て)に拈(ひね)りしに、只(た)だ朝門(ちょうもん)の外(そと)に、大(おお)いに呼(よ)び小(ちい)さく叫(さけ)ぶを聞(き)く。原来(もと)是(こ)れ秦叔宝(しんしゅくほう)・徐茂功(じょもこう)等(とう)、一(ひと)つの血(ち)の淋(したた)る頭(かしら)の龍(りゅう)の首(くび)を将(ひっさ)げ、帝前(ていぜん)に擲(なげう)ち、啓奏(けいそう)して道(い)わく、「陛下(へいか)、海(うみ)浅(あさ)く河(かわ)枯(か)るるは曾(かつ)て見(み)る有(あ)り、此(か)くの如(ごと)き異事(いじ=奇妙な事)は却(かえっ)て聞(き)く無(な)し」と。太宗(たいそう)と魏征(ぎちょう)身(み)を起(おこ)して道(い)わく、「此(こ)の物(もの)何(いず)くより来(きた)れるか?」と。叔宝(しゅくほう)・茂功(もこう)道(い)わく、「千歩廊(せんぽろう=長い廊)の南(みなみ)、十字街頭(じゅうじがいとう=十字路)、雲端(うんたん=雲の端)の裡(うち)より此(こ)の顆(ひとつ)の龍頭(りゅうとう)落(お)ち下(くだ)る、微臣(びしん=私)敢(あえ)て奏(そう)せざること無(な)し」と。唐王(とうおう)驚(おどろ)きて魏征(ぎちょう)に問(と)う、「此(こ)れ是(こ)れ何(なん)の説(いいわけ)なるか?」と。魏征(ぎちょう)身(み)を転(てん)じ頭(かしら)を叩(たた)いて道(い)わく、「是(こ)れ臣(しん)が才(ただいま)一夢(ひとゆめ)に斬(き)れるなり」と。唐王(とうおう)言(げん)を聞(き)き、大(おお)いに驚(おどろ)いて道(い)わく、「賢卿(けんけい)盹睡(とんすい)の時(とき)、又(また)曾(かつ)て身(み)を動(うごか)し手(て)を動(うごか)すを見(み)ず、又(また)刀剣(とうけん)無(な)きに、如何(いか)んぞ却(かえっ)て此(こ)の龍(りゅう)を斬(き)れるか?」と。魏征(ぎちょう)奏(そう)して道(い)わく、「主公(しゅこう)、臣(しん)の身(み)は君前(くんぜん)に在(あ)り、夢(ゆめ)は陛下(へいか)を離(はな)る。身(み)君前(くんぜん)に在(あ)りて残局(ざんきょく)に対(たい)し、眼(め)を合(あわ)せて朦朧(もうろう)たり;夢(ゆめ)陛下(へいか)を離(はな)れて瑞雲(ずいうん=瑞雲)に乗(じょう)じ、神(しん)を出(いだ)して抖擻(とそう=奮い立つ)。那(か)の条(ひとつ)の龍(りゅう)、剮龍台(かろうだい)の上(うえ)に在(あ)りて、天兵(てんぺい)の将(しょう)に其(そ)の中(なか)に綁縛(ほうばく=縛りつけ)らる。是(ここ)に臣(しん)道(い)わく、『汝(なんじ)天条(てんじょう)を犯(おか)せり、当(まさ)に死罪(しざい)に合(かな)う。我(われ)天命(てんめい)を奉(ほう)じ、汝(なんじ)が残生(ざんせい=余命)を斬(き)らん』と。龍(りゅう)哀苦(あいく=哀しみ苦しむ)を聞(き)き、臣(しん)精神(せいしん)を抖(ふる)う。龍(りゅう)哀苦(あいく)を聞(き)きて、爪(つめ)を伏(ふ)し鱗(うろこ)を収(おさ)めて甘(あまん)じて死(し)を受(う)く;臣(しん)精神(せいしん)を抖(ふる)い、衣(ころも)を撩(まく)り進(すす)み歩(あゆ)んで霜鋒(そうほう=白刃)を挙(あ)ぐ。扢扠(こっさ=ずさり)一声(ひとこえ)刀(かたな)の過(よぎ)る処(ところ)、龍頭(りゅうとう)此(こ)れに因(よ)って虚空(こくう)に落(お)つ」と。
太宗(たいそう)言(げん)を聞(き)き、心(こころ)の中(うち)悲喜(ひき)一(ひと)つならず。喜(よろこ)ぶは、魏征(ぎちょう)の好臣(こうしん=良き臣)を夸(ほ)め奨(すす)め、朝(ちょう)中(ちゅう)に此(こ)の豪傑(ごうけつ)有(あ)れば、甚(なに)の江山(こうざん)の穏(やす)からざるを愁(うれ)えんや?悲(かなし)むは、夢(ゆめ)の中(うち)曾(かつ)て龍(りゅう)を救(すく)わんと許(ゆる)ししに、期(き)せず竟(つい)に誅(ちゅう)せらるるを致(いた)せり。只(た)だ強(し)いて精神(せいしん)を打(う)ち起(おこ)し、旨(し)を伝(つた)えて叔宝(しゅくほう)をして龍頭(りゅうとう)を市曹(しそう=市場)に懸(か)け挂(か)けしめ、長安(ちょうあん)の黎庶(れいしょ=民草)に暁諭(ぎょうゆ=告げ知ら)す。一壁廂(いっぺきしょう=一方)魏征(ぎちょう)を賞(しょう)し、衆官(しゅうかん)散(さん)じ訖(おわ)る。
当晩(そのばん)宮(きゅう)に回(かえ)り、心(こころ)の中(うち)只(た)だ是(こ)れ憂悶(ゆうもん=憂い悩み)、那(か)の夢中(むちゅう)の龍(りゅう)の、哭(な)き啼(な)きて哀(あわれ)に生(い)きんことを求(もと)めしを想(おも)うに、豈(あ)に知(し)らんや無常(むじょう=死)は、此(こ)の患(わずらい)を免(まぬが)れ難(がた)きを。思念(しねん=思い)ること多時(たじ=久しく)、漸(ようや)く神魂(しんこん=心身)の倦怠(けんたい=疲れだるき)を覚(おぼ)え、身体(しんたい)安(やす)んぜず。当夜(そのよ)二更(にこう)の時分(じぶん)に、只(た)だ宮門(きゅうもん)の外(そと)に号泣(ごうきゅう=泣き叫ぶ)の声(こえ)有(あ)るを聞(き)く、太宗(たいそう)愈(いよいよ)驚恐(きょうきょう=恐れ)す。正(まさ)に朦朧(もうろう=うつらうつら)と睡(ねむ)る間(あいだ)、又(また)那(か)の涇河(けいが)の龍王(りゅうおう)の、手(て)に一(ひと)つの血(ち)の淋(したた)る首級(しゅきゅう=首)を提(ひっさ)げ、高(たか)く叫(よ)ぶを見(み)る、「唐太宗(とうたいそう)!我(わ)が命(いのち)を還(かえ)せ!我(わ)が命(いのち)を還(かえ)せ!汝(なんじ)昨夜(さくや)満口(まんこう=口にいっぱい)に我(われ)を救(すく)わんと許諾(きょだく)せしに、怎(いか)んぞ天明(てんめい)の時(とき)反(かえっ)て人曹官(じんそうかん)を宣(せん)して来(きた)りて我(われ)を斬(き)らしむるか?汝(なんじ)出(い)で来(こ)よ!汝(なんじ)出(い)で来(こ)よ!我(われ)汝(なんじ)と閻君(えんくん=閻魔)の処(ところ)に到(いた)りて折弁(せつべん=言い争い)せん!」と。他(かれ)太宗(たいそう)を扯(ひ)き住(とど)め、再三(さいさん)嚷鬧(じょうどう=騒ぎ立て)て放(はな)たず。太宗(たいそう)口(くち)を箝(ふさ)がれて言(い)い難(がた)く、只(た)だ掙(あが)き得(て)汗(あせ)の体(たい)に流(なが)るるのみ。正(まさ)に那(か)の難分難解(なんぶんなんかい=もつれ合う)の時(とき)に在(あ)りしに、只(た)だ正南(せいなん=真南)の上(うえ)に香雲(こううん=香しき雲)の繚繞(りょうじょう=たなびき)、彩霧(さいむ=彩りの霧)の飄颻(ひょうよう=漂う)し、一(ひと)りの女真人(にょしんじん=女の真人)の前(まえ)に上(のぼ)り来(きた)り、楊柳枝(ようりゅうし=柳の枝)を手(て)を用(もち)いて一(ひと)たび擺(ふ)るを見(み)る、那(か)の首(くび)無(な)き龍(りゅう)、悲悲啼啼(ひひていてい=悲しげに泣き)、径(ただ)ちに西北(せいほく)に向(むか)いて去(ゆ)く。原来(もと)此(こ)れ是(こ)れ観音菩薩(かんのんぼさつ)、仏旨(ぶっし)を領(う)け、東土(とうど=東の地)に上(のぼ)り、取経(しゅきょう=経を取る)の人(ひと)を尋(たず)ね、此(ここ)に長安城(ちょうあんじょう)都土地廟(ととちびょう=土地神の廟)の裡(うち)に住(じゅう)し、夜(よる)鬼泣(ききゅう=鬼の泣き)神号(しんごう=神の叫び)を聞(き)き、特(こと)に来(きた)りて業龍(ごうりゅう)を喝退(かったい=叱り退け)、皇帝(こうてい)を救脱(きゅうだつ=救い出し)たり。那(か)の龍(りゅう)径(ただ)ちに陰司(いんし=冥府)地獄(じごく)に到(いた)りて具(つぶさ)に告(つ)ぐるは題(だい=述べること)せず。
却(さ)て説(つ)ぐ、太宗(たいそう)蘇(よみがえ)り回(かえ)り来(きた)り、只(た)だ「鬼(おに)有(あ)り!鬼(おに)有(あ)り!」と叫(よ)ぶ。慌(あわ)て得(て)那(か)の三宮(さんきゅう)皇后(こうごう)、六院(ろくいん)嬪妃(ひんひ)、近侍(きんじ)太監(たいかん=宦官)と、戦兢兢(せんきょうきょう=おののき)として、一夜(ひとよ)眠(ねむ)り無(な)し。覚(おぼ)えず五更三点(ごこうさんてん=明け方)、那(か)の満朝(まんちょう)文武(ぶんぶ)多官(たかん=多くの官)は、都(みな)朝門(ちょうもん)の外(そと)に在(あ)りて朝(ちょう)を候(うかが)う。天明(てんめい)を等(ま)つも、猶(な)お朝(ちょう)に臨(のぞ)まざるを見(み)ず、唬(おど)し得(て)一箇一箇(いっこいっこ)驚懼(きょうく=恐れ)し踌躇(ちゅうちょ=ためらう)。日(ひ)の三竿(さんかん)に上(のぼ)るに及(およ)びて、方(まさ)に旨意(しい)の出(い)で来(きた)る有(あ)りて道(い)わく、「朕(ちん)心(こころ)快(こころよ)からず、衆官(しゅうかん)朝(ちょう)を免(めん)ず」と。覚(おぼ)えず倏(たちま)ち五七日(ごしちにち)、衆官(しゅうかん)憂惶(ゆうこう=憂え恐れ)、都(みな)正(まさ)に門(もん)を撞(つ)きて駕(が)に見(まみ)え安(やす)きを問(と)わんと要(よう)するに、只(た)だ太后(たいごう)の旨(し)有(あ)りて、医官(いかん)を召(め)して宮(きゅう)に入(い)り薬(くすり)を用(もち)いしむるを見(み)る。衆人(しゅうじん)朝門(ちょうもん)に在(あ)りて信(たより)を討(こ)うて等(ま)つ。少時(しばらく)して医官(いかん)出(い)で来(きた)る、衆(しゅう)何(なん)の疾(やまい)なるかを問(と)う。医官(いかん)道(い)わく、「皇上(こうじょう)の脈気(みゃくき=脈)正(ただ)しからず、虚(きょ)にして而(しか)も又(また)数(さく=頻数)、狂言(きょうげん=たわごと)に鬼(おに)を見(み)る;又(また)十動一代(じゅうどういちだい=脈が十打で一停止)と診(み)得(う)れば、五臓(ごぞう)に気(き)無(な)く、恐(おそ)らくは不諱(ふき=死)は只(た)だ七日(なのか)の内(うち)に在(あ)らんのみ」と。衆官(しゅうかん)言(げん)を聞(き)き、大(おお)いに驚(おどろ)き色(いろ)を失(うしな)う。
正(まさ)に愴惶(そうこう=慌ただし)の間(あいだ)、又(また)太后(たいごう)の旨(し)有(あ)りて徐茂功(じょもこう)・護国公(ごこくこう)・尉遅公(いっちこう)を宣(せん)して駕(が)に見(まみ)えしむと聞(き)く。三公(さんこう)旨(し)を奉(ほう)じ、急(いそ)ぎ入(い)りて分宮楼(ぶんきゅうろう)の下(した)に到(いた)る。拝(はい)し畢(おわ)り、太宗(たいそう)色(いろ)を正(ただ)しくし強(し)いて言(い)って道(い)わく、「賢卿(けんけい)、寡人(かじん)十九歳(じゅうきゅうさい)に兵(へい)を領(りょう)し、南征北伐(なんせいほくばつ)、東擋西除(とうとうせいじょ=東を防ぎ西を除く)、苦(くる)しく数載(すうさい=幾年)を歴(へ)し、更(さら)に曾(かつ)て半点(はんてん)の邪祟(じゃすい=邪気)を見(み)ず、今日(こんにち)却(かえっ)て反(かえっ)て鬼(おに)を見(み)る!」と。尉遅公(いっちこう)道(い)わく、「江山(こうざん)を創立(そうりつ)し、人(ひと)を殺(ころ)すこと数(かず)無(な)し、何(なん)ぞ鬼(おに)を怕(おそ)れんや?」と。太宗(たいそう)道(い)わく、「卿(けい)は是(こ)れ信(しん)ぜず。朕(ちん)が此(こ)の寝宮(しんきゅう=寝室)の門(もん)の外(そと)、夜(よる)に入(い)れば便(すなわ)ち磚(かわら)を抛(な)げ瓦(かわら)を弄(もてあそ)び、鬼魅(きび=妖怪)の号(さけ)び呼(よ)ぶ、着然(ちゃくぜん=まことに)難処(なんしょ=始末に負え)なり。白日(はくじつ)は猶(な)お可(よ)し、昏夜(こんや=宵)は禁(とど)め難(がた)し」と。叔宝(しゅくほう)道(い)わく、「陛下(へいか)心(こころ)を寛(ひろ)くせよ、今晩(こんばん)臣(しん)敬徳(けいとく)と宮門(きゅうもん)を把(たも)り守(まも)らん、甚(なに)の鬼祟(きすい=妖怪)の有(あ)るかを看(み)ん」と。太宗(たいそう)奏(そう)を准(じゅん=許)す。茂功(もこう)恩(おん)を謝(しゃ)して出(い)づ。当日(そのひ)天(てん)晩(く)れ、各(おのおの)披掛(ひかけ=武具)を取(と)り、他(かれ)の両(ふた)り介冑(かいちゅう=甲冑)整(ととの)い、金瓜鉞斧(きんかえっぷ=金の瓜・鉞の斧)を執(と)り、宮門(きゅうもん)の外(そと)に在(あ)りて把(と)り守(まも)る。好(よ)き将軍(しょうぐん)なるかな!汝(なんじ)看(み)よ他(かれ)の怎(いか)に生(な)る打扮(だはん=身なり)なるかを、
頭(かしら)に戴(いただ)く金盔(きんかい=金の兜)光(ひかり)爍爍(しゃくしゃく=きらきら)
身(み)に披(き)る鎧甲(がいこう=鎧)龍鱗(りゅうりん=竜の鱗)
護心(ごしん)宝鏡(ほうきょう=心を護る鏡)祥雲(しょううん)を幌(ひるがえ)し
獅蛮(しまん=獅子と蛮の帯)収(おさ)め緊(かた)く扣(か)け、繍帯(しゅうたい=刺繍の帯)彩霞(さいか)新(あらた)なり
此(こ)の一箇(ひとり)は鳳眼(ほうがん)天(てん)に朝(むか)いて星斗(せいと=星々)怕(おそ)れ
那(か)の一箇(ひとり)は環睛(かんせい=丸き眼)電(いなずま)を映(えい)じて月光(げっこう)浮(うか)ぶ
他(かれ)本(もと)是(こ)れ英雄豪傑(えいゆうごうけつ)の旧勲臣(きゅうくんしん=古き功臣)なるも
只(た)だ落(お)ち得(て)千年(せんねん)戸尉(こい=門衛)と称(しょう)せられ、万古(ばんこ)門神(もんしん)と作(な)る
二将軍(にしょうぐん)門(もん)の旁(かたわら)に侍立(じりつ=控え立つ)、一夜(ひとよ)天(てん)晩(く)るるも、更(さら)に曾(かつ)て一点(いってん)の邪祟(じゃすい)を見(み)ず。是(こ)の夜(よる)、太宗(たいそう)宮(きゅう)に在(あ)りて、安(やす)んじ寝(ね)て事(こと)無(な)く、暁(あかつき)に来(きた)り二将軍(にしょうぐん)を宣(せん)し、重重(じゅうじゅう=手厚く)賞(しょう)い労(ねぎら)って道(い)わく、「朕(ちん)疾(やまい)を得(え)しより、数日(すうじつ)睡(ねむ)るを得(え)ざりしに、今夜(こんや)二将軍(にしょうぐん)の威勢(いせい=威風)に仗(よ)りて甚(はなは)だ安(やす)し。卿(けい)且(しばら)く出(い)でて安息(あんそく=休み)し安息(あんそく)せよ、晩間(ばんかん=夕刻)を待(ま)ちて再(ふたた)び一(ひとたび)護衛(ごえい)せよ」と。二将(にしょう)恩(おん)を謝(しゃ)して出(い)づ。遂(つい)に此(こ)の二三夜(にさんや)把(と)り守(まも)ること倶(みな)安(やす)し、只(た)だ是(こ)れ御膳(ぎょぜん=食事)減損(げんそん=減る)し、病(やまい)転(うたた)じて重(おも)きを覚(おぼ)ゆ。太宗(たいそう)又(また)二将(にしょう)の辛苦(しんく=労苦)に忍(しの)びず、又(また)叔宝(しゅくほう)・敬徳(けいとく)と杜(と)・房(ぼう)の諸公(しょこう=皆)を宣(せん)して宮(きゅう)に入(い)れ、吩咐(ふんふ)して道(い)わく、「此(こ)の両日(りょうにち)朕(ちん)安(やす)きを得(う)ると雖(いえど)も、却(かえっ)て只(た)だ秦(しん)・胡(こ)の二将軍(にしょうぐん)の徹夜(てつや)の辛苦(しんく)を難(なん)とするのみ。朕(ちん)巧手(こうしゅ=巧みな手)の丹青(たんせい=絵師)を召(め)し、二将軍(にしょうぐん)の真容(しんよう=肖像)を伝(うつ)し写(うつ)させ、門(もん)の上(うえ)に貼(は)り、他(かれ)を労(ろう)するを免(まぬが)れしめんと欲(ほっ)す、如何(いかん)?」と。衆臣(しゅうしん)即(すなわ)ち旨(し)に依(よ)り、両(ふた)りの真(しん=肖像)を写(うつ)す会(あ)う者(もの)を選(えら)び、胡(こ)・秦(しん)の二公(にこう)をして前(さき)の如(ごと)く披掛(ひかけ)せしめ、照様(しょうよう=その通り)に画(えが)き了(おわ)り、門(もん)の上(うえ)に貼(は)るに、夜間(やかん)も亦(ま)た即(すなわ)ち事(こと)無(な)し。
此(か)くの如(ごと)く二三日(にさんにち)、又(また)後宰門(こうさいもん=裏門)に乒乒乓乓(ひんぴんぽんぽん=ばたばた)と磚瓦(せんが=煉瓦と瓦)の乱(みだ)れ響(ひび)くを聞(き)く。暁(あかつき)に来(きた)り急(いそ)ぎ衆臣(しゅうしん)を宣(せん)して曰(い)わく、「連日(れんじつ)前門(ぜんもん)は幸(さいわ)いに事(こと)無(な)きも、今夜(こんや)後門(こうもん)又(また)響(ひび)く、却(かえっ)て又(また)寡人(かじん)を驚(おどろ)かし殺(ころ)さんとするか!」と。茂功(もこう)進(すす)み前(まえ)に奏(そう)して道(い)わく、「前門(ぜんもん)の安(やす)からざるは、敬徳(けいとく)・叔宝(しゅくほう)の護衛(ごえい)するなり;後門(こうもん)の安(やす)からざるは、当(まさ)に魏征(ぎちょう)をして護衛(ごえい)せしむ可(べ)し」と。太宗(たいそう)奏(そう)を准(じゅん)じ、又(また)魏征(ぎちょう)を宣(せん)して今夜(こんや)後門(こうもん)を把(と)り守(まも)らしむ。征(ちょう)旨(し)を領(う)け、当夜(そのよ)結束(けっそく=身支度)整(ととの)い、那(か)の龍(りゅう)を誅(ちゅう)せし宝剣(ほうけん)を提(ひっさ)げ、後宰門(こうさいもん)の前(まえ)に侍立(じりつ)す、真(まこと)に箇(こ)の好(よ)き英雄(えいゆう)なる哉(かな)!他(かれ)怎(いか)に生(な)る打扮(だはん)なるか、
熟絹(じゅくけん=練り絹)の青巾(せいきん)抹額(まつがく=額当て)
錦袍(きんぽう=錦の袍)玉帯(ぎょくたい)腰(こし)に垂(た)れ
兜風(とうふう=風を兜う)氅袖(しょうしゅう=広袖)采霜(さいそう=霜の色)飄(ひるがえ)り
圧(あ)っして壘荼(るいと=茶の神)の神貌(しんぼう=神の姿)に賽(まさ)る
烏靴(うか=黒き靴)を脚(あし)に踏(ふ)み坐折(ざせつ=折り曲げ)し
利刃(りじん=鋭き刃)を手(て)に持(た)ち凶驍(きょうぎょう=猛々し)
両眼(りょうがん)を円(まる)く睜(ひら)きて四辺(しへん=あたり)を瞧(み)る
那(いず)れの邪神(じゃしん)か敢(あえ)て到(いた)らんや
一夜(ひとよ)通明(つうめい=明け方まで)、亦(ま)た鬼魅(きび)無(な)し。前後(ぜんご)の門(もん)に事(こと)無(な)しと雖(いえど)も、只(た)だ是(こ)れ身体(しんたい)漸(ようや)く重(おも)し。一日(あるひ)、太后(たいごう)又(また)旨(し)を伝(つた)え、衆臣(しゅうしん)を召(め)して殯殮(ひんれん=葬儀)の後事(こうじ)を商議(しょうぎ=相談)す。太宗(たいそう)又(また)徐茂功(じょもこう)を宣(せん)し、国家(こっか)の大事(だいじ)を吩咐(ふんふ)し、劉蜀主(りゅうしょくしゅ=劉備)の孤(こ)を托(たく)するの意(い)に仿(なら)うを叮囑(ていしょく=念押し)す。言(げん)畢(おわ)り、沐浴(もくよく)し更衣(こうい=着替え)し、時(とき)を待(ま)つのみ。旁(かたわ)らより魏征(ぎちょう)閃(ひらめ)き出(い)で、手(て)に龍衣(りゅうい=天子の衣)を扯(ひ)き、奏(そう)して道(い)わく、「陛下(へいか)心(こころ)を寛(ひろ)くせよ、臣(しん)一事(いちじ)有(あ)り、管(きっと)陛下(へいか)の長生(ちょうせい=長生き)を保(たも)たん」と。太宗(たいそう)道(い)わく、「病勢(びょうせい)已(すで)に膏肓(こうこう=病の極み)に入(い)り、命(いのち)将(まさ)に危(あや)うからんとす、如何(いか)んぞ保(たも)ち得(う)るか?」と。魏征(ぎちょう)云(い)わく、「臣(しん)書(ふみ)一封(ひとふう)有(あ)り、陛下(へいか)に進(しん=献)じ、冥司(めいし=冥府)に捎(つた)え去(ゆ)き、酆都(ほうと)判官(はんがん)崔珏(さいかく)に付(ふ)せよ」と。太宗(たいそう)道(い)わく、「崔珏(さいかく)は是(こ)れ誰(たれ)なるか?」と。魏征(ぎちょう)云(い)わく、「崔珏(さいかく)は乃(すなわ)ち是(こ)れ太上先皇帝(たいじょうせんこうてい=先の帝)駕前(がぜん)の臣(しん)、先(ま)ず茲州令(じしゅうれい=茲州の長官)を受(う)け、後(のち)礼部侍郎(れいぶじろう)に升(のぼ)る。在日(ざいじつ=生前)臣(しん)と八拝(はっぱい=義兄弟の契り)して交(まじわ)りを為(な)し、相知(あいし)ること甚(はなは)だ厚(あつ)し。他(かれ)如今(いま)已(すで)に死(し)し、現(げん)に陰司(いんし)に在(あ)りて生死(しょうし)の文簿(ぶんぼ=帳簿)を掌(つかさど)る酆都(ほうと)判官(はんがん)と作(な)り、夢中(むちゅう)常(つね)に臣(しん)と相会(しょうかい)す。此(こ)の去(ゆ)くに若(も)し此(こ)の書(ふみ)を将(も)ちて他(かれ)に付(ふ)せば、他(かれ)微臣(びしん)の薄分(はくぶん=薄き縁)を念(おも)い、必(かなら)ず陛下(へいか)を放(はな)ちて回(かえ)り来(きた)らしめん。管(きっと)魂魄(こんぱく)をして陽世(ようせい=現世)に還(かえ)らしめ、定(かなら)ず龍顔(りゅうがん=天子の顔)を取(と)りて帝都(ていと)に転(てん)ぜしめん」と。太宗(たいそう)言(げん)を聞(き)き、接(う)けて手(て)の中(なか)に在(あ)り、袖(そで)の裡(うち)に籠(こ)め入(い)れ、遂(つい)に目(め)を瞑(つぶ)りて亡(ほろ)ぶ。那(か)の三宮六院(さんきゅうろくいん)・皇后(こうごう)嬪妃(ひんひ)・侍長(じちょう)儲君(ちょくん=皇太子)及(および)両班(りょうはん)文武(ぶんぶ)、俱(みな)哀(あい)を挙(あ)げ孝(こう)を戴(いただ)き、又(また)白虎殿(びゃっこでん)の上(うえ)に在(あ)りて、梓宮(しきゅう=棺)を停(とど)め置(お)くは題(だい)せず。
畢竟(ひっきょう=結局)太宗(たいそう)の如何(いかん)にして還魂(げんこん)するかを知(し)らず、且(しばら)く下回(かかい)の分解(ぶんかい)を聴(き)け。