却説(さて)三蔵(さんぞう)宝林寺(ほうりんじ)の禅堂(ぜんどう)の中(うち)に坐(ざ)し、灯下(とうか=灯の下)に一会(ひとしきり)の《梁皇水懺(りょうこうすいさん)》を念(ねん)じ、一会(ひとしきり)の《孔雀真経(くじゃくしんきょう)》を看(み)、只(た)だ坐(ざ)して三更(さんこう=真夜中)の時(とき)に到(いた)り、却(かえっ)て才(ようや)く経本(きょうほん)を嚢(ふくろ)の裏(うち)に包(つつ)み、正(まさ)に身(み)を起(た)てて去(ゆ)きて睡(ね)んと欲(ほっ)するに、只(た)だ聴(き)こゆるは門外(もんがい)、撲剌剌(ぼくらつらつ=ばさり)と一声(ひとこえ)の響喨(きょうりょう=響き)、淅零零(せきれいれい=ひゅうひゅう)と一陣(ひとしきり)の狂風(きょうふう)の刮(ふ)くこと。
那(か)の長老(ちょうろう)灯(とうか=灯)を吹(ふ)き滅(け)されんことを恐(おそ)れ、慌(あわ)てて褊衫(へんさん=衣)の袖子(しゅうし=袖)を将(もっ)て遮(おお)い住(とど)む、又(また)那(か)の灯(ひ)の或(ある)い明(あか)るく或(ある)い暗(くら)きを見(み)、便(すなわ)ち些(いささ)か心驚(しんきょう=心驚き)胆戦(たんせん=胆ふるい)を覚(おぼ)ゆ。此(こ)の時(とき)又(また)困倦(こんけん=疲れ)上(のぼ)り来(きた)り、経案(きょうあん=経机)の上(うえ)に伏(ふ)して盹睡(とんすい=うたた寝)す、是(こ)れ眼(まなこ)を合(あわ)せて朦朧(もうろう=おぼろ)なると雖(いえど)も、却(かえっ)て還(なお)心中(しんちゅう)明白(めいはく=はっきり)にして、耳(みみ)の内(うち)に嚶嚶(おうおう=かすか)と那(か)の窗外(そうがい=窓の外)の陰風(いんぷう)の飒飒(さつさつ=ざあざあ)たるを聴(き)き着(つ)く。
好(よ)き風(かぜ)、真個(まこと)に那(か)の淅淅瀟瀟(せきせきしょうしょう=ざあざあ)、飄飄蕩蕩(ひょうひょうとうとう=ひらひら)たり。
淅淅瀟瀟(せきせきしょうしょう)として落葉(らくよう)を飛(と)ばし、
飄飄蕩蕩(ひょうひょうとうとう)として浮雲(ふうん)を巻(ま)く。
満天(まんてん)の星斗(せいと=星)皆(みな)昏昧(こんまい=かすか)に、
遍地(へんち=あちこち)の塵沙(じんさ=砂埃)尽(ことごと)く洒紛(しゃふん=まい散)る。
一陣家(ひとしきり)は猛(たけ)く、一陣家(ひとしきり)は純(おだやか)なり。
純(おだやか)なる時(とき)松竹(しょうちく)清韻(せいいん=清き音)を敲(たた)き、
猛(たけ)き処(ところ)江湖(こうこ)波浪(はろう)渾(にご)る。
刮(ふ)き得(え)て那(か)の山鳥(さんちょう)栖(すみ)き難(がた)く声(こえ)哽哽(こうこう=むせび)、
海魚(かいぎょ)定(さだ)まらずして跳(は)ね噴噴(ふんぷん=ぴちぴち)。
東西(とうざい)の館閣(かんかく)門窓(もんそう)脱(はず)れ、
前後(ぜんご)の房廊(ぼうろう)神鬼(しんき)嘆(なげ)く。
仏殿(ぶつでん)の花瓶(かへい)吹(ふ)かれて地(ち)に堕(お)ち、
琉璃(るり)揺(ゆ)り落(お)ちて慧灯(えとう=智慧の灯)昏(くら)し。
香炉(こうろ)倒(たお)れて香灰(こうかい=香の灰)迸(ほとばし)り、
燭架(しょくか=燭台)歪斜(わいしゃ=斜め)にして燭焰(しょくえん=蝋燭の炎)横(よこた)わる。
幢幡(どうばん=幟)宝蓋(ほうがい=天蓋)都(みな)揺(ゆ)り拆(さ)かれ、
鐘鼓楼台(しょうころうだい)根(こん=土台)を撼動(かんどう=揺り動か)す。
那(か)の長老(ちょうろう)昏夢(こんむ=うつらうつら)の中(うち)に風声(ふうせい=風の音)の一時(ひととき)過(す)ぎ去(さ)る処(ところ)を聴(き)き着(つ)け、又(また)禅堂(ぜんどう)の外(そと)に、隐隐(いんいん=おぼろげ)に一声(ひとこえ)叫(よ)ぶを聞(き)き得(う)。
「師父(しふ)!」
忽(たちま)ち頭(こうべ)を抬(あ)げて夢中(むちゅう)に観(み)るに、門外(もんがい)に一条(ひとり)の漢子(かんし=男)立(た)ち在(あ)り、渾身(こんしん=全身)上下(じょうげ)、水淋淋(すいりんりん=びしょ濡れ)として、眼(め)の中(うち)涙(なみだ)を垂(た)れ、口(くち)の裏(うち)に住(や)まず叫(よ)ばんとす、
「師父(しふ)!師父!」
三蔵(さんぞう)身(み)を欠(か)けて道(い)わく、
「汝(なんじ)莫(も)し是(こ)れ魍魎(もうりょう=妖怪)妖魅(ようみ=妖)、神怪(しんかい)邪魔(じゃま)の、夜深(よふけ)の時(とき)に至(いた)りて此(ここ)に来(きた)りて我(われ)を戯(たわむ)るるか?我(われ)却(かえっ)て是(こ)れ那(か)の貪欲(とんよく)貪嗔(とんしん=貪り怒る)の類(たぐい)に非(あら)ず。我(われ)本(もと)是(こ)れ個(ひとり)の光明正大(こうみょうせいだい)の僧(そう)、東土大唐(とうどだいとう)の旨意(しい=勅命)を奉(ほう)じて、西天(さいてん)に上(のぼ)り仏(ほとけ)を拝(おが)み経(きょう)を求(もと)むる者(もの)也(なり)。我(わ)が手下(しゅか=配下)に三個(みっつ)の徒弟(とてい)有(あ)り、都(みな)是(こ)れ龍(りゅう)を降(くだ)し虎(とら)を伏(ふく)するの英豪(えいごう=豪傑)、怪(かい)を掃(はら)い魔(ま)を除(のぞ)くの壮士(そうし)也(なり)。他(かれ)ら若(も)し汝(なんじ)を見(み)れば、尸(しかばね)を砕(くだ)き骨(ほね)を粉(こな)にし、化(か)して微塵(みじん)と作(な)さん。此(こ)れ是(こ)れ我(わ)が大慈悲(だいじひ=大いなる慈悲)の意(い)、方便(ほうべん)の心(こころ)也(なり)。汝(なんじ)趁早(すみやか)に身(み)を潜(ひそ)め遠(とお)く遁(のが)れ、我(わ)が禅門(ぜんもん)に上(のぼ)り来(きた)る莫(なか)れ」
那(か)の人(ひと)禅堂(ぜんどう)に倚(よ)り定(さだ)めて道(い)わく、
「師父(しふ)、我(われ)は是(こ)れ妖魔鬼怪(ようまきかい)に非(あら)ず、亦(また)魍魎邪神(もうりょうじゃしん)に非(あら)ず」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「汝(なんじ)既(すで)に是(こ)れ此(こ)の類(たぐい)に非(あら)ざれば、却(かえっ)て深夜(しんや)に此(ここ)に来(きた)りて何(なん)を為(な)すや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「師父(しふ)、汝(なんじ)眼(め)を舍(おし)みて我(われ)を一看(ひとみ=ちょっと見)よ」
長老(ちょうろう)果(はた)して仔細(しさい=よくよく)に睛(ひとみ)を定(さだ)めて看(み)る処(ところ)、呀(ああ)!只(た)だ見(み)る他(かれ)頭(かしら)に一頂(ひとつ)の沖天冠(ちゅうてんかん=天を衝く冠)を戴(いただ)き、腰(こし)に一条(ひとすじ)の碧玉帯(へきぎょくたい)を束(つか)ね、身(み)に一領(ひとえ)の飛龍舞鳳(ひりゅうぶほう=飛ぶ龍舞う鳳)の赭黄袍(しゃこうほう=赤茶の袍)を穿(き)、足(あし)に一双(いっそう)の雲頭繍口(うんとうしゅうこう=雲の刺繍)の無憂履(むゆうり=憂い無き靴)を踏(ふ)み、手(て)に一柄(ひとふり)の列斗羅星(れつとうらせい=星を並べ羅列す)白玉珪(はくぎょくけい=白き玉の笏)を執(と)る。面(かお)は東岳長生帝(とうがくちょうせいてい)の如(ごと)く、形(すがた)は文昌開化君(ぶんしょうかいかくん)に似(に)たり。三蔵(さんぞう)見(み)て、大(おおい)に驚(おどろ)き色(いろ)を失(うしな)い、急(いそ)ぎ身(み)を躬(かが)め厳(きび)しき声(こえ)を高(たか)めて叫(よ)ばんとす、
「是(こ)れ那(いず)れの一朝(いっちょう)の陛下(へいか)ぞ?請(こう)う坐(ざ)せ」
手(て)を用(もち)いて忙(いそ)ぎ攙(たす)けんとするも、撲(ぼく=からり)と個(ひとつ)の空虚(くうきょ=空)に、身(み)を回(めぐ)らして坐(ざ)し定(さだ)む。再(また)看(み)る処(ところ)、還(なお)是(こ)れ那(か)の個(ひとり)の人(ひと)也(なり)。長老(ちょうろう)便(すなわ)ち問(と)う、
「陛下(へいか)、汝(なんじ)是(こ)れ那裡(いずこ)の皇王(こうおう)ぞ?何(いず)れの邦(くに)の帝主(ていしゅ=君主)ぞ?想(おも)うに必(かなら)ず是(こ)れ国土(こくど)寧(やす)からず、讒臣(ざんしん=讒言する臣)の欺虐(ぎぎゃく=虐げ)するに、半夜(よなか)に生(いき)を逃(のが)れて此(ここ)に至(いた)れるならん。何(なん)の話(はなし)有(あ)らば、説(と)きて我(われ)に聴(き)かせよ」
這(こ)の人才(この人は)涙(なみだ)を腮辺(さいへん=頬)に滴(したた)らせて旧事(きゅうじ=昔の事)を談(かた)り、愁(うれい)を眉上(びじょう=眉の上)に集(あつ)めて前因(ぜんいん=以前の事情)を訴(うった)え、道(い)わく、
「師父(しふ)啊(あ)、我(わ)が家(いえ)正西(しょうせい)に住(す)み、此(ここ)を離(はな)るること只(た)だ四十里(しじゅうり)の遠近(えんきん)有(あ)り。那廂(あちら)に一座(ひとつ)の城池(じょうち=城)有(あ)り、便(すなわ)ち是(こ)れ興基(こうき=興起)の処(ところ)也(なり)」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「甚麼(いず)れの地名(ちめい)と叫(よ)ぶや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「師父(しふ)に瞞(かく)さず説(い)わば、便(すなわ)ち是(こ)れ朕(ちん)当時(そのかみ)家邦(かほう=国)を創(つく)り立(た)て、号(ごう)を烏鶏国(うけいこく)と改(あらた)めし也(なり)」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「陛下(へいか)這等(このよう)に驚慌(きょうこう=慌て)たるは、却(かえっ)て甚(なん)の事(こと)に因(よ)りて此(ここ)に至(いた)れるや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「師父(しふ)啊(あ)、我(わ)が此(ここ)五年前(ごねんぜん)、天年(てんねん=天候)干旱(かんかん=日照り)し、草子(そうし=草の実)も生(しょう)ぜず、民(たみ)皆(みな)飢(う)えて死(し)に、甚(はなは)だ是(こ)れ情(じょう=心)を傷(そこな)う」
三蔵(さんぞう)言(げん)を聞(き)き、頭(こうべ)を点(うなず)かせて嘆(なげ)いて道(い)わく、
「陛下(へいか)啊(あ)、古人(こじん)云(い)う、国(くに)正(ただ)しければ天心(てんしん=天の心)順(したが)う。想(おも)うに必(かなら)ず是(こ)れ汝(なんじ)の万民(ばんみん)を慈恤(じじゅつ=慈しみ憐れ)まざりしに、既(すで)に荒歉(こうけん=凶作)を遭(あ)う。怎麼(どう)して便(すなわ)ち城郭(じょうかく=城)を逃(に)げ離(はな)れするや?且(しばら)く去(ゆ)きて倉庫(そうこ)を開(ひら)き、黎民(れいみん=民)を賑済(しんさい=救済)し、前非(ぜんぴ=以前の過ち)を悔(く)い改(あらた)め、今善(こんぜん=今の善)を重(かさ)ねて興(おこ)し、那(か)の枉法(おうほう=法を曲げ)の冤人(えんじん=罪なき人)を放(はな)ち赦(ゆる)せ。自然(じねん)に天心(てんしん)和合(わごう)し、雨(う)順(したが)い風(かぜ)調(ととの)わん」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「我(わ)が国中(こくちゅう)倉稟(そうりん=蔵)空虚(くうきょ)にして、銭糧(せんりょう=銭や糧)尽(ことごと)く絶(た)え、文武(ぶんぶ)両班(りょうはん)俸禄(ほうろく=給料)を停(とど)め、寡人(かじん=私)の膳食(ぜんしょく=食事)も亦(また)葷(くん=肉)無(な)し。禹王(うおう)の水(みず)を治(おさ)むるに仿效(ほうこう=手本と)し、万民(ばんみん)と与(とも)に甘苦(かんく=苦楽)を同(とも)にし、沐浴(もくよく)斎戒(さいかい)し、昼夜(ちゅうや)香(こう)を焚(た)きて祈祷(きとう)す。此(かく)の如(ごと)くすること三年(さんねん)、只(た)だ干(ひ)し得(え)て河(かわ)枯(か)れ井(いど)涸(か)るるのみ。正(まさ)に都(みな)危急(ききゅう)の処(ところ)に在(あ)るに、忽然(こつぜん)として鍾南山(しょうなんざん)より一個(ひとり)の全真(ぜんしん=道士)来(きた)れり、能(よ)く風(かぜ)を呼(よ)び雨(あめ)を喚(よ)び、石(いし)に点(てん=触れ)じて金(きん)と成(な)す。先(ま)ず我(わ)が文武(ぶんぶ)の多官(たかん=多くの役人)に見(まみ)え、後(のち)に来(きた)りて朕(ちん)に見(まみ)え、当(まさ)に即(すなわ)ち他(かれ)を請(しょう)じて壇(だん)に登(のぼ)り祈祷(きとう)せしむるに、果(はた)して応(おう=霊験)有(あ)り、只(た)だ見(み)る令牌(れいはい=札)の响(なり)く処(ところ)、頃刻(しばらく)にして大雨(たいう)滂沱(ぼうだ=どしゃ降り)たり。寡人(かじん)只(た)だ三尺(さんじゃく)の雨(あめ)の足(た)らんことを望(のぞ)めるに、他(かれ)説(い)わく久旱(きゅうかん=長き日照り)は潤沢(じゅんたく=潤す)する能(あた)わずと、又(また)二寸(にすん)を多(おお)く下(くだ)せり。朕(ちん)他(かれ)の此(かく)の如(ごと)く尚義(しょうぎ=義を尊ぶ)なるを見(み)、便(すなわ)ち他(かれ)と与(とも)に八拝(はちはい=八拝)して交(まじわ)りを為(な)し、兄弟(きょうだい)を以(もっ)て之(これ)を称(よ)べり」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「此(こ)れ陛下(へいか)の万千(ばんせん=幾万)の喜(よろこび)也(なり)」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「喜(よろこび)何(いずこ)よりか来(きた)るや?」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「那(か)の全真(ぜんしん)既(すで)に這等(このよう)なる本事(ほんじ=腕前)有(あ)らば、若(も)し雨(あめ)を要(よう)する時(とき)は、便(すなわ)ち他(かれ)に教(おし)えて雨(あめ)を下(くだ)さしめ、若(も)し金(きん)を要(よう)する時(とき)は、便(すなわ)ち他(かれ)に教(おし)えて金(きん)を点(てん)ぜしむ。還(なお)那些(あれら)の不足(ふそく)有(あ)りて、却(かえっ)て城闕(じょうけつ=都)を離(はな)れて此(ここ)に来(きた)れるや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「朕(ちん)他(かれ)と与(とも)に寝食(しんしょく)を同(とも)にせしは、只(た)だ二年(にねん)を得(え)たり。又(また)陽春(ようしゅん=春)の天気(てんき)に遇(あ)い、紅杏(こうきょう=紅き杏)夭桃(ようとう=若き桃)、花(はな)を開(ひら)き蘂(ずい=花蕊)を綻(は)かせ、家家(かか)の士女(しじょ=男女)、処処(しょしょ=処々)の王孫(おうそん=若君)、俱(みな)去(ゆ)きて春(はる)を遊(あそ)び賞玩(しょうがん=楽しみ味わ)う。那(そ)の時節(とき)、文武(ぶんぶ)衙(が=役所)に帰(かえ)り、嬪妃(ひんひ=后妃)院(いん)に転(うつ)る。朕(ちん)那(か)の全真(ぜんしん)と手(て)を携(たずさ)えて歩(あゆみ)を緩(ゆる)め、御花園(ごかえん)の裏(うち)に至(いた)り、忽(たちま)ち八角琉璃井(はっかくるりい=八角の琉璃の井戸)の辺(ほとり)に行(ゆ)き到(いた)るに、知(し)らず他(かれ)些(いささ)かの甚麼(いず)れの物件(ぶっけん)を抛(なげう)ち下(おろ)し、井(いど)の中(うち)に万道(ばんどう=幾万条)の金光(きんこう)有(あ)り。朕(ちん)を哄(だま)して井(いど)の辺(ほとり)に到(いた)りて甚麼(いず)れの宝貝(ほうばい)を看(み)しめんとし、他(かれ)陡(にわか)に凶心(きょうしん=凶悪な心)を起(おこ)し、撲通(ぼくつう=どぼん)と寡人(かじん)を把(もっ)て井内(せいない=井戸の中)に推(お)し下(おろ)し、石板(せきばん=石の板)を将(もっ)て井口(せいこう=井戸の口)を盖(おお)い住(とど)め、泥土(でいど)を擁(かぶ)せ上(あ)げ、一株(ひとかぶ)の芭蕉(ばしょう)を移(うつ)して上(うえ)に栽(う)え着(つ)けたり。可怜(あわれ)我(われ)啊(や)、已(すで)に死(し)んで三年(さんねん)、是(こ)れ個(ひとり)の井(いど)に落(お)ちて生(せい)を傷(そこな)える冤屈(えんくつ=無念)の鬼(おに)也(なり)!」
唐僧(とうそう)鬼(おに)と説(い)くを聞(き)き、唬(おどろ)かされ得(え)て筋力(きんりき=筋の力)酥軟(そなん=ふにゃふにゃ)となり、毛骨(もうこつ=毛と骨)聳然(しょうぜん=ぞっとする)たり。没奈何(どうしようもなく)、只(た)だ言(げん)を将(もっ)て又(また)他(かれ)に問(と)うて道(い)わく、
「陛下(へいか)、汝(なんじ)の説(と)く此(こ)の話(はなし)全(まった)く理(り)に在(あ)らず。既(すで)に死(し)して三年(さんねん)、那(か)の文武(ぶんぶ)の多官(たかん)、三宮(さんきゅう)の皇后(こうごう)、三朝(さんちょう)に遇(あ)うて殿上(でんじょう)に駕(が)を見(まみ)ゆるに、怎麼(どう)して便(すなわ)ち汝(なんじ)を尋(たず)ねざるや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「師父(しふ)啊(あ)、他(かれ)が本事(ほんじ=腕前)を説(と)き起(お)こせば、果(はた)して世間(せけん)に罕(まれ)なり!朕(ちん)を害(そこな)いてより、他(かれ)当時(そのとき)花園(かえん)の内(うち)に在(あ)りて身(み)を揺(ゆす)って一変(ひとへん)じ、便(すなわ)ち変(へん)じて朕(ちん)が模様(すがた)と做(な)り、更(さら)に差別(さべつ=違い)無(な)し。現今(いま)我(わ)が江山(こうざん=国)を占(し)め、暗(あん)に我(わ)が国土(こくど)を侵(おか)せり。他(かれ)我(わ)が両班(りょうはん)の文武(ぶんぶ)、四百朝官(しひゃくちょうかん)、三宮(さんきゅう)の皇后(こうごう)、六院(ろくいん)の嬪妃(ひんひ)を把(もっ)て、尽(ことごと)く他(かれ)に属(ぞく)せしめ了(しま)える也(なり)」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「陛下(へいか)、汝(なんじ)忒(いささ)かも懦(よわ)し」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「何(なん)ぞ懦(よわ)きや?」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「陛下(へいか)、那(か)の怪(かい)倒(かえっ)て些(いささ)か神通(じんつう)有(あ)り、汝(なんじ)の模様(すがた)に変(へん)じ作(な)り、汝(なんじ)が乾坤(けんこん=天下)を侵(おか)し占(し)むるも、文武(ぶんぶ)識(し)る能(あた)わず、后妃(こうひ)暁(さと)る能(あた)わず、只(た)だ汝(なんじ)の死(し)ししのみ明白(めいはく=はっきり)なり。汝(なんじ)何(なん)ぞ陰司(いんし=冥界)の閻王(えんおう)の処(ところ)に在(あ)りて具告(ぐこく=訴え出で)ず、汝(なんじ)が屈情(くつじょう=無念の思い)を把(もっ)て伸訴(しんそ=申し立て)を伸訴(しんそ)せざるや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「他(かれ)の神通(じんつう)広大(こうだい)にして、官吏(かんり)情熟(じょうじゅく=親しい)、都城隍(とじょうこう=都の城隍神)常(つね)に他(かれ)と与(とも)に会酒(かいしゅ=酒宴)し、海龍王(かいりゅうおう)尽(ことごと)く他(かれ)と与(とも)に親(しん=親戚)有(あ)り、東岳天斉(とうがくてんせい)は是(こ)れ他(かれ)の好(よ)き朋友(ほうゆう=友)、十代(じゅうだい)の閻羅(えんら)は是(こ)れ他(かれ)の異兄弟(いきょうだい=義兄弟)也(なり)。此(こ)の故(ゆえ)に這般(このよう)にして、我(われ)も亦(また)門(もん)の投告(とうこく=訴え出る)無(な)し」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「陛下(へいか)、汝(なんじ)陰司(いんし)の裏(うち)に既(すで)に他(かれ)を告(うった)うる本事(ほんじ)無(な)くんば、却(かえっ)て我(わ)が陽世(ようせ=この世)の間(あいだ)に来(きた)りて甚(なん)を作(な)すや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「師父(しふ)啊(あ)、我(わ)が此(こ)の一点(いってん)の冤魂(えんこん=無念の魂)、怎(いか)で敢(あえ)て汝(なんじ)が門(もん)に上(のぼ)り来(きた)らんや?山門前(さんもんぜん)に那(か)の護法(ごほう)諸天(しょてん)、六丁六甲(りくていりっこう)、五方掲諦(ごほうかいだい)、四値功曹(しちこうそう)、一十八位(じゅうはちい)の護教伽藍(ごきょうからん)有(あ)り、緊(きん=ぴったり)と鞍馬(あんば=馬)に随(したが)う。却(かえっ)て才(いま)夜遊神(やゆうしん)に被(よ)って一陣(ひとしきり)の神風(しんぷう)に、我(われ)を把(もっ)て送(おく)り将(や)り入(い)れ来(きた)らしめ、他(かれ)説(い)わく我(わ)が三年(さんねん)の水災(すいさい=水の災い)該(かか)わりて満(み)つ、我(われ)に着(つ)けて来(きた)りて師父(しふ)を拝謁(はいえつ=お訪ね)せしむ。他(かれ)説(い)わく汝(なんじ)が手下(しゅか)に一個(ひとり)の大徒弟(だいとてい)有(あ)り、是(こ)れ斉天大聖(せいてんだいせい)にして、極(きわ)めて能(よ)く怪(かい)を斬(き)り魔(ま)を降(くだ)す。今(いま)来(きた)りて志心(ししん=真心)に拝懇(はいこん=懇願)す、千(せん)乞(こ)う我(わ)が国中(こくちゅう)に到(いた)り、妖魔(ようま)を拿(とら)え住(とど)め、邪正(じゃせい)を辨明(べんめい=見分け)せよ、朕(ちん)当(まさ)に草(くさ)を結(むす)び環(たまき)を銜(くわ)え、師恩(しおん=師の恩)を報酬(ほうしゅう)する也(なり)!」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「陛下(へいか)、汝(なんじ)此(こ)の来(きた)れるは是(こ)れ我(わ)が徒弟(とてい)を請(しょう)じて汝(なんじ)と与(とも)に去(ゆ)きて那(か)の妖怪(ようかい)を除(のぞ)かしめんとするか?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「正(まさ)に是(こ)れ!正(まさ)に是(こ)れ!」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「我(わ)が徒弟(とてい)別(ほか)の事(こと)を干(や)るは済(な)し得(え)ざるも、但(た)だ降妖(ごうよう=妖を降す)捉怪(たくかい=怪を捕らう)を説(と)けば、正(まさ)に他(かれ)が宜(よろ)しきに合(かな)う。陛下(へいか)啊(あ)、是(こ)れ他(かれ)を着(つ)けて怪(かい)を拿(とら)えしむると雖(いえど)も、但(た)だ恐(おそ)らくは理(り)の上(うえ)に難行(なんぎょう=行い難し)ならん」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「怎麼(どう)して難行(なんぎょう)なるや?」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「那(か)の怪(かい)既(すで)に神通(じんつう)広大(こうだい)にして、汝(なんじ)と与(とも)に相同(あいおなじ)く変(へん)じ得(え)、満朝(まんちょう)の文武(ぶんぶ)、一個々(ひとりひとり)言(げん)和(わ)し心(こころ)順(したが)い、三宮(さんきゅう)の妃嬪(ひひん)、一個々(ひとりひとり)意(い)合(かな)い情(じょう)投(とう)ず。我(わ)が徒弟(とてい)縦(たと)い手段(しゅだん=腕前)有(あ)るも、決(けっ)して敢(あえ)て軽(かる)く干戈(かんか=武器)を動(うご)かさず。倘(もし)多官(たかん)に被(よ)って拿(とら)え住(とど)められ、我(われ)たちの邦(くに)を欺(あざむ)き国(くに)を滅(ほろ)ぼすと説(い)われ、一款(いっかん)の大逆(たいぎゃく)の罪(つみ)を問(と)われ、城(しろ)の中(うち)に困(くるし)め陷(おとしい)れられば、却(かえっ)て是(こ)れ画虎刻鵠(がここくこく=虎を描き鵠を刻む)に非(あら)ずや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「我(わ)が朝中(ちょうちゅう)に還(なお)人(ひと)有(あ)る哩(ぞ)」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「却(かえっ)て好(よ)し!却(かえっ)て好(よ)し!想(おも)うに必(かなら)ず是(こ)れ一代(いちだい)の親王(しんのう)の侍長(じちょう=長)の、何(いず)れの処(ところ)に発付(はっぷ=派遣)され鎮守(ちんしゅ=守備)し去(さ)れるならん」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「是(こ)れに非(あら)ず。我(わ)が本宮(ほんきゅう)に個(ひとり)の太子(たいし)有(あ)り、是(こ)れ我(わ)が親(みずか)ら生(う)める儲君(ちょくん=世継ぎ)也(なり)」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「那(か)の太子(たいし)想(おも)うに必(かなら)ず妖魔(ようま)に被(よ)って貶(おとし)められたるか?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「曾(かつ)てせず、他(かれ)只(た)だ金鑾殿(きんらんでん)の上(うえ)、五鳳楼(ごほうろう)の中(うち)に在(あ)り、或(ある)いは学士(がくし)と与(とも)に書(しょ)を講(こう)じ、或(ある)いは全真(ぜんしん)と共(とも)に位(くらい)に登(のぼ)る。此(こ)れより三年(さんねん)、太子(たいし)を禁(きん)じて皇宮(こうきゅう)に入(い)らしめず、娘娘(にゃんにゃん=母后)と与(とも)に相見(しょうけん=面会)するを彀(え)得(え)ざらしむ」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「此(こ)れ是(こ)れ何(なん)の故(ゆえ)ぞ?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「此(こ)れ是(こ)れ妖怪(ようかい)の使(つか)い下(おろ)せる計策(けいさく)にして、只(た)だ他(かれ)が母子(ぼし)の相見(あいまみ)え、閑中(かんちゅう=何気ない時)に長短(ちょうたん=あれこれ)を論(ろん)じ出(いだ)し、消息(しょうそく=秘密)の走(に)げんことを怕(おそ)るる也(なり)。此(こ)の故(ゆえ)に両(ふたり)面(めん)を会(かい)せず、他(かれ)永(とわ)に住(じゅう)し常(つね)に存(そん)ずるを得(う)る也(なり)」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「汝(なんじ)が災屯(さいたん=災い、汝(なんじ)が災屯(さいたん=災い)、想(おも)うに天(てん)の付(ふ)すに応(おう)じて、却(かえっ)て我(われ)と相類(あいるい=似たり)す。当時(そのかみ)我(わ)が父(ちち)曾(かつ)て水賊(すいぞく)に被(よ)って生(せい)を傷(そこな)われ、我(わ)が母(はは)水賊(すいぞく)に被(よ)って欺(あざむ)き占(し)められ、三箇月(みかげつ)を経(へ)て、我(われ)を分娩(ぶんべん=産み落と)せり。我(われ)水(みず)の中(うち)に在(あ)りて性命(せいめい)を逃(のが)れ、幸(さいわ)いに金山寺(きんざんじ)の恩師(おんし)に救(すく)い養(やしな)われ人(ひと)と成(な)り得(え)たり。記(おぼ)うるに我(われ)幼年(ようねん)に父母(ふぼ)無(な)かりしが、此間(ここ)の那(か)の太子(たいし)の双親(そうしん=両親)を失(うしな)えると、慚惶(ざんこう=恥じ恐れ)已(や)まず!」
又(また)問(と)うて道(い)わく、
「汝(なんじ)縦(たと)い太子(たいし)の朝(ちょう)に在(あ)る有(あ)るも、我(われ)怎(いか)で他(かれ)と与(とも)に相見(あいまみ)え得(え)んや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「如何(いかん)して見(み)え得(え)ざるや?」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「他(かれ)妖魔(ようま)に被(よ)って拘轄(こうかつ=拘束)され、一個(ひとり)の生身(しょうしん=産みの)の母(はは)すら尚(なお)見(み)るを得(え)ざるに、我(われ)一個(ひとり)の和尚(おしょう)、見(み)んと欲(ほっ)して何(なん)の由(よし)有(あ)らんや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「他(かれ)明早(あすのあさ)朝(ちょう)を出(い)で来(きた)る也(なり)」
三蔵(さんぞう)問(と)う、
「朝(ちょう)を出(い)でて甚(なん)を為(な)すや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「明日(みょうにち)早朝(そうちょう)、三千人馬(さんぜんじんば)を領(ひき)い、鷹犬(ようけん=鷹と犬)を架(か)けて城(しろ)を出(い)でて采猟(さいりょう=狩り)す、師父(しふ)断(かなら)ず他(かれ)と与(とも)に相見(あいまみ)ゆるを得(う)る也(なり)。見(み)ゆる時(とき)肯(あえ)て我(わ)が言語(げんご)を将(もっ)て他(かれ)に説(と)き与(あた)えれば、他(かれ)便(すなわ)ち信(しん)ぜん」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「他(かれ)本(もと)是(こ)れ肉眼凡胎(にくがんぼんたい=凡人の眼と身)、妖魔(ようま)に被(よ)って殿上(でんじょう)に哄(だま)され在(あ)り、那(いず)れの一日(いちじつ)か他(かれ)を幾声(いくこえ)も父王(ふおう)と叫(よ)ばざるや?他(かれ)怎(いか)で肯(あえ)て我(わ)が言語(げんご)を信(しん)ぜんや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「既(すで)に他(かれ)の信(しん)ぜざるを恐(おそ)るるならば、我(われ)一件(ひとつ)の表記(ひょうき=印)を留(とど)め下(おろ)して汝(なんじ)に与(あた)えん」
三蔵(さんぞう)問(と)う、
「是(こ)れ何(いず)れの物件(ぶっけん)ぞ?」
那(か)の人(ひと)手(て)の中(うち)に執(と)れる金廂白玉珪(きんしょうはくぎょくけい=金を嵌めた白玉の笏)を把(もっ)て放(おろ)し下(おろ)して道(い)わく、
「此(こ)の物(もの)以(もっ)て記(しるし)と為(な)す可(べ)し」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「此(こ)の物(もの)如何(いかん)ぞや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「全真(ぜんしん)我(わ)が模様(すがた)に変(へん)じ作(な)りしより、只(た)だ是(こ)れ此(こ)の件(ひとつ)の宝貝(ほうばい)を少(すこ)しく変(へん)じたるのみ。他(かれ)宮中(きゅうちゅう)に到(いた)りて、那(か)の雨(あめ)を求(もと)めし全真(ぜんしん)の此(こ)の珪(けい)を拐(かどわ)かし去(さ)りたりと説(い)い、此(こ)れより三年(さんねん)、還(なお)此(こ)の物(もの)無(な)し。我(わ)が太子(たいし)若(も)し看(み)れば、他(かれ)物(もの)を睹(み)て人(ひと)を思(おも)い、此(こ)の仇(あだ)必(かなら)ず報(ほう)ぜん」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「也罷(やは=まあよい)、我(われ)に留(とど)めしめよ、徒弟(とてい)を着(つ)けて汝(なんじ)と与(とも)に処置(しょち=処理)せしめん。却(かえっ)て那裡(いずこ)に在(あ)りて等(ま)つや?」
那(か)の人(ひと)道(い)わく、
「我(われ)も亦(また)敢(あえ)て等(ま)たず。我(われ)此(ここ)を去(さ)り、還(また)夜遊神(やゆうしん)に央求(おうきゅう=懇願)して再(また)一陣(ひとしきり)の神風(しんぷう)を使(つか)わしめ、我(われ)を把(もっ)て皇宮内院(こうきゅうないいん=后宮)に送(おく)り入(い)れ、一夢(ひとゆめ)を我(わ)が那(か)の正宮皇后(せいきゅうこうごう)に托(たく)し、他(かれ)をして母子(ぼし)たちをして意(い)を合(あわ)せ、汝(なんじ)が師徒(しと)たちをして心(こころ)を同(おなじ)くせしめん」
三蔵(さんぞう)頭(こうべ)を点(うなず)かせて応承(おうしょう=承諾)して道(い)わく、
「汝(なんじ)去(ゆ)けよ」
那(か)の冤魂(えんこん)頭(こうべ)を叩(たた)いて拝別(はいべつ=別れを告げ)、歩(あゆみ)を挙(あ)げて相送(そうそう=見送り)す、知(し)らず怎麼(どう)して脚(あし)を踢(け)りしに、一個(ひとつ)の筋斗(きんと=転び)を跌(ふ)み、三蔵(さんぞう)を把(もっ)て驚醒(きょうせい)せしむ、却(かえっ)て原来(げんらい)是(こ)れ南柯(なんか=槐の南の枝)の一夢(ひとゆめ)也(なり)、慌(あわ)て得(え)て那(か)の一盞(ひとつ)の昏灯(こんとう=暗き灯)に対(たい)し、連(つづ)け忙(いそ)ぎ叫(よ)ばんとす、
「徒弟(とてい)!徒弟!」
八戒(はっかい)醒(さ)め来(きた)りて道(い)わく、
「甚麼(いず)れの土地土地(とちどち)ぞ?当時(そのかみ)我(われ)好漢(こうかん=男の中の男)と做(な)りしに、専一(ひたすら)人(ひと)を食(くら)いて日(ひ)を度(わた)り、腥膻(せいせん=生臭い肉)を受用(じゅよう=享受)し、実(じつ)に快活(かいかつ)なりしに、偏(ひとえ)に汝(なんじ)出家(しゅっけ)して、我(われ)たちをして汝(なんじ)を保護(ほご)して路(みち)を走(はし)らしむ!原(もと)説(い)えるに只(た)だ和尚(おしょう)と做(な)るのみ、如今(いま)拿(つか)まえられて奴才(どさい=下男)と做(な)され、日間(ひるま)包袱(ほうふく=荷)を挑(にな)い馬(うま)を牽(ひ)き、夜間(よる)尿瓶(にょうへい=小便瓶)を提(さ)げて脚(あし)を務(つと)む!這(こ)の早晚(こんな夜更け)に睡(ね)ず、又(また)徒弟(とてい)を叫(よ)びて甚(なん)を為(な)すや?」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「徒弟(とてい)、我(われ)才(いま)しがた案(あん=机)の上(うえ)に伏(ふ)して盹(うたたね)し、一個(ひとつ)の怪(あや)しき夢(ゆめ)を做(な)し了(しま)えり」
行者(ぎょうじゃ)跳(と)び将(や)り起(た)ち上(あ)がりて道(い)わく、
「師父(しふ)、夢(ゆめ)は想(おもい)の中(うち)より来(きた)る。汝(なんじ)未(いま)だ山(やま)に上(のぼ)らざるに、先(ま)ず妖怪(ようかい)を怕(おそ)れ、又(また)雷音(らいおん)の路(みち)の遠(とお)きを愁(うれ)え、到(いた)り得(う)ざらんことを、長安(ちょうあん)を思念(しねん=思い慕)い、何(いず)れの日(ひ)か回程(かいてい=帰路)に就(つ)くを知(し)らず、此(こ)の故(ゆえ)に心(こころ)多(おお)く夢(ゆめ)多(おお)し。老孫(ろうそん)が一点(いってん)の真心(しんしん)の、専(もっぱ)ら西方(さいほう)に仏(ほとけ)に見(まみ)えんと要(よう)し、更(さら)に一個(ひとつ)の夢児(ゆめ)も我(われ)に到(いた)らざるに似(に)たり」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「徒弟(とてい)、我(わ)が這(こ)の樁(ひとつの)夢(ゆめ)、是(こ)れ郷(さと)を思(おも)うの夢(ゆめ)に非(あら)ず。才(いま)然(し)か眼(まなこ)を合(あわ)せしに、一陣(ひとしきり)の狂風(きょうふう)の過(す)ぎ去(さ)る処(ところ)を見(み)、禅房(ぜんぼう)の門外(もんがい)に一朝(いっちょう)の皇帝(こうてい)有(あ)り、自(みずか)ら烏鶏国王(うけいこくおう)と云(い)い、渾身(こんしん)水(みず)に湿(ぬ)れ、満眼(まんがん)に涙(なみだ)垂(た)れたり」
這等(このよう)這等(このよう)、如此(かく)如此(かく)と、那(か)の夢中(むちゅう)の話(はなし)を一一(いちいち)に将(もっ)て行者(ぎょうじゃ)に説(と)き与(あた)う。行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)わく、
「説(と)くを消(よう)せず、他(かれ)来(きた)りて夢(ゆめ)を汝(なんじ)に托(たく)せるは、分明(ぶんめい=はっきり)に是(こ)れ老孫(ろうそん)の一場(ひと場)の商売(しょうばい)を照顧(しょうこ=世話)する也(なり)。必(かなら)ず是(こ)れ個(ひとり)の妖怪(ようかい)の那(あ)そこに在(あ)りて位(くらい)を篡(うば)い国(くに)を謀(はか)れるならん、我(われ)に他(かれ)と与(とも)に個(ひとつ)の真偽(しんぎ)を辨(べん)ぜしめよ。想(おも)うに那(か)の妖魔(ようま)、棍(こん)の到(いた)る処(ところ)立(たち)どころに功(こう)を成(な)さんことを要(よう)す」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「徒弟(とてい)、他(かれ)説(い)えるに那(か)の怪(かい)神通(じんつう)広大(こうだい)哩(ぞ)」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「他(かれ)が甚麼(いず)れの広大(こうだい)を怕(おそ)れんや!早(はや)く老孫(ろうそん)の到(いた)れるを知(し)らば、他(かれ)をして即(すなわ)ち走(に)ぐるに方(みち)無(な)からしめん!」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「我(われ)又(また)記(おぼ)うるに一件(ひとつ)の宝貝(ほうばい)を留(とど)め下(おろ)して表記(ひょうき=印)と做(な)せり」
八戒(はっかい)答(こた)えて道(い)わく、
「師父(しふ)胡纏(こてん=ごちゃごちゃ言う)する莫(なか)れ、個(ひとつ)の夢(ゆめ)を做(な)せば便(すなわ)ち罷(や)むに、怎麼(どう)して只(た)だ管(かま)いて当真(とうしん=本気)にするや?」
沙僧(しゃそう)道(い)わく、
「直(なお)き中(うち)の直(なお)きを信(しん)ぜざるも、須(かなら)ず仁(じん)の不仁(ふじん)なるを防(ふせ)げ。我(われ)たち火(ひ)を打(う)ち起(おこ)し、門(もん)を開(ひら)き、看看(みみ=見て)如何(いかん)なるか便是(それでよし)」
行者(ぎょうじゃ)果(はた)して門(もん)を開(ひら)き、一斉(いっせい)に看(み)る処(ところ)、只(た)だ見(み)る星月光(せいげつこう=星月の光)の中(うち)、階檐(かいえん=階段の軒)の上(うえ)に真個(まこと)に一柄(ひとふり)の金廂白玉珪(きんしょうはくぎょくけい)の放(お)かれ在(あ)る有(あ)り。八戒(はっかい)近(ちか)づき前(まえ)に拿(と)り起(た)ちて道(い)わく、
「哥哥(あにい)、這(こ)れ是(こ)れ甚麼(いず)れの東西(もの)ぞ?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「這(こ)れ是(こ)れ国王(こくおう)の手(て)の中(うち)に執(と)れる宝貝(ほうばい)、名(な)を玉珪(ぎょくけい)と喚(よ)ぶ。師父(しふ)啊(あ)、既(すで)に此(こ)の物(もの)有(あ)れば、想(おも)うに此(こ)の事(こと)是(こ)れ真(まこと)也(なり)。明日(みょうにち)妖(よう)を拿(とら)うるは、全(まった)く都(みな)老孫(ろうそん)が身(み)の上(うえ)に在(あ)る、只(た)だ是(こ)れ汝(なんじ)に三樁児(みっつの)造化(ぞうけ=運)の低(ひく)きことを要(よう)する哩(ぞ)」
八戒(はっかい)道(い)わく、
「好好好(やれやれやれ)!個(ひとつ)の夢(ゆめ)を做(な)せば罷(や)むに、又(また)他(かれ)に告誦(こくしょう=告げ口)す。他(かれ)が那些(あれら)の児(こと)か人(ひと)を作弄(さくろう=からかう)せざるや?便(すなわ)ち汝(なんじ)に三樁児(みっつ)の造化(ぞうけ)の低(ひく)きを教(おし)うるわ」
三蔵(さんぞう)回(かえ)りて裏面(うち)に入(い)りて道(い)わく、
「是(こ)れ那(いず)れの三樁(みっつ)ぞ?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「明日(みょうにち)汝(なんじ)に缸(かめ)を頂(いただ)き、気(き)を受(う)け、瘟(えやみ)に遭(あ)わんことを要(よう)す」
八戒(はっかい)笑(わら)って道(い)わく、
「一樁児(ひとつ)も亦(また)是(こ)れ難(かた)し、三樁児(みっつ)却(かえっ)て怎麼(どう)して耽(た)え得(え)んや?」
唐僧(とうそう)是(こ)れ個(ひとり)の聡明(そうめい)なる長老(ちょうろう)なれば、便(すなわ)ち問(と)う、
「徒弟(とてい)啊(あ)、此(こ)の三事(さんじ)如何(いかん)に講(こう=説)ずるや?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「亦(また)講(こう)ずるを消(よう)せず、我(われ)に先(ま)ず汝(なんじ)と与(とも)に二件(ふたつ)の物(もの)を与(あた)えしめよ」
好(よ)きかな大聖(たいせい)、一根(ひとすじ)の毫毛(ごうもう)を抜(ぬ)き、一口(ひとくち)の仙気(せんき)を吹(ふ)き、叫(よ)ばんとす、
「変(へん)ぜよ!」
変(へん)じて一個(ひとつ)の紅金漆匣児(こうきんしつこうじ=赤金漆の箱)と做(な)り、白玉珪(はくぎょくけい)を把(もっ)て内(うち)に放(お)きて盛(も)り、道(い)わく、
「師父(しふ)、汝(なんじ)此(こ)の物(もの)を将(もっ)て手(て)の中(うち)に捧(ささ)げ、天(てん)の暁(あ)くる時(とき)に到(いた)らば、錦襴袈裟(きんらんけさ)を穿(き)て、正殿(せいでん)に去(ゆ)きて坐(ざ)して経(きょう)を念(ねん)じ、我(われ)に去(ゆ)きて他(かれ)が那(か)の城池(じょうち)を看看(みみ=見て)しめよ。端(まさ)に是(こ)れ個(ひとり)の妖怪(ようかい)ならば、便(すなわ)ち他(かれ)を打(う)ち殺(ころ)し、亦(また)此間(ここ)に在(あ)りて個(ひとつ)の功績(こうせき=手柄)を立(た)てん。仮若(もし)是(こ)れに非(あら)ざれば、且(しばら)く禍(わざわい)を撞(つ)くを休(や)めよ」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「正(まさ)に是(こ)れ!正(まさ)に是(こ)れ!」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「那(か)の太子(たいし)城(しろ)を出(い)でざれば便(すなわ)ち罷(や)むも、若(も)し真個(まこと)に夢(ゆめ)に応(おう)じて城(しろ)を出(い)で来(きた)らば、我(われ)定(かなら)ず他(かれ)を引(ひ)きて来(きた)りて汝(なんじ)に見(まみ)えしめん」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「我(われ)を見(み)て如何(いかん)に迎(むか)え答(こた)うるや?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「来(きた)り到(いた)る時(とき)、我(われ)先(ま)ず報(ほう)じ知(し)らす、汝(なんじ)那(か)の匣蓋児(こうがいじ=箱の蓋)を把(もっ)て些(すこ)しく扯(ひ)き開(ひら)き、我(われ)に変(へん)じて二寸(にすん)の長(たか)さの一個(ひとり)の小和尚(こおしょう)と作(な)り、匣児(こうじ=箱)の裏(うち)に鑽(もぐ)り在(あ)らしめ、汝(なんじ)我(われ)を連(つ)れて手(て)の中(うち)に捧(ささ)げよ。那(か)の太子(たいし)寺(てら)に入(い)り来(きた)れば、必(かなら)ず仏(ほとけ)を拝(おが)む、汝(なんじ)他(かれ)をして怎(いか)に下拝(かはい)せしむるも、只(た)だ是(こ)れ他(かれ)を睬(かえりみ)ず。他(かれ)汝(なんじ)の身(み)を動(うご)かざるを見(み)れば、一定(きっと)汝(なんじ)を拿(とら)えしむ、汝(なんじ)他(かれ)の拿(とら)え下(おろ)すに憑(まか)せ、打(う)つも亦(また)他(かれ)に由(よら)せ、縛(いまし)むも亦(また)他(かれ)に由(よら)せ、殺(ころ)すも亦(また)他(かれ)に由(よら)せよ」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「呀(ああ)!他(かれ)が軍令(ぐんれい)大(おおい)なれば、真個(まこと)に我(われ)を殺(ころ)さば、怎麼(どう)して好(よ)からんや?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「事(こと)無(な)し、我(われ)有(あ)る哩(ぞ)、若(も)し那(か)の緊関(きんかん=肝心)の処(ところ)に到(いた)らば、我(われ)自然(じねん)に汝(なんじ)を護(まも)らん。他(かれ)若(も)し問(と)う時(とき)、汝(なんじ)説(い)わく是(こ)れ東土(とうど)の欽差(きんさ=勅使)にして西天(さいてん)に上(のぼ)り仏(ほとけ)を拝(おが)み経(きょう)を取(と)りて宝(ほう)を進(たてまつ)る和尚(おしょう)なりと。他(かれ)道(い)わく甚(なん)の宝貝(ほうばい)有(あ)るや?汝(なんじ)却(かえっ)て錦襴袈裟(きんらんけさ)を把(もっ)て他(かれ)に対(たい)して一徧(ひとわたり)説(と)き、道(い)わく、『此(こ)れは是(こ)れ三等(さんとう=三等級)の宝貝(ほうばい)、還(なお)頭一等(とういっとう)、第二等(だいにとう)の好(よ)き物(もの)有(あ)る哩(ぞ)』と。但(た)だ問(と)う処(ところ)なれば、便(すなわ)ち説(い)わく這(こ)の匣(はこ)の内(うち)に一件(ひとつ)の宝貝(ほうばい)有(あ)り、上(かみ)は五百年(ごひゃくねん)を知(し)り、下(しも)は五百年(ごひゃくねん)を知(し)り、中(なか)は五百年(ごひゃくねん)を知(し)り、共(あわ)せて一千五百年(いっせんごひゃくねん)の過去未来(かこみらい)の事(こと)を、俱(みな)尽(ことごと)く暁(さと)り得(う)ると、却(かえっ)て老孫(ろうそん)を把(もっ)て放(はな)ち出(いだ)せ。我(われ)那(か)の夢中(むちゅう)の話(はなし)を将(もっ)て那(か)の太子(たいし)に告誦(こくしょう=告げ)せん、他(かれ)若(も)し肯(あえ)て信(しん)ぜば、便(すなわ)ち去(ゆ)きて那(か)の妖魔(ようま)を拿(とら)え、一(ひとつ)には他(かれ)と与(とも)に父王(ふおう)の仇(あだ)を報(ほう)じ、二(ふたつ)には我(われ)たち個(ひとつ)の名節(めいせつ=名誉)を立(た)てん。他(かれ)若(も)し信(しん)ぜざれば、再(また)白玉珪(はくぎょくけい)を将(もっ)て拿(と)りて他(かれ)に看(み)せよ。只(た)だ恐(おそ)らくは他(かれ)年幼(ねんよう)にして、還(なお)未(いま)だ認(みと)め得(え)ざる哩(ぞ)」
三蔵(さんぞう)言(げん)を聞(き)き大(おおい)に喜(よろこ)んで道(い)わく、
「徒弟(とてい)啊(あ)、此(こ)の計(けい)絶妙(ぜつみょう)なり!但(た)だ此(こ)の宝貝(ほうばい)を説(と)くに、一個(ひとつ)は錦襴袈裟(きんらんけさ)と叫(よ)び、一個(ひとつ)は白玉珪(はくぎょくけい)と叫(よ)ぶ、汝(なんじ)の変(へん)じたる宝貝(ほうばい)却(かえっ)て甚(いず)れの名(な)と叫(よ)ぶや?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「便(すなわ)ち立帝貨(りつていか=帝を立つる者)と叫(よ)ばんか」
三蔵(さんぞう)言(げん)に依(よ)って心(こころ)の上(うえ)に記(しる)し在(お)く。師徒(しと)たち一夜(いちや)那(いず)くんぞ曾(かつ)て睡(ね)るを得(え)ん。天明(てんめい)を盼(ま)ち到(いた)り、恨(うら)めしくも点頭(てんとう=うなずき)して扶桑日(ふそうじつ=朝日)を喚(よ)び出(いだ)し、気(いき)を噴(ふ)いて満天(まんてん)の星(ほし)を吹(ふ)き散(ちら)さんことを得(え)ざらんことを。
不多時(しばらく)、東方(とうほう)発白(はっぱく=白み)す。行者(ぎょうじゃ)又(また)八戒(はっかい)、沙僧(しゃそう)に吩咐(ふんふ=言いつ)け、他(かれ)兩個(ふたり)に教(おし)えて、
「僧人(そうにん)を攪擾(かくじょう=邪魔)し、出(い)で来(きた)りて乱(みだ)りに走(はし)る可(べ)からず。我(われ)が功(こう)を成(な)し了(おわ)るの後(のち)を待(ま)ち、汝(なんじ)等(たち)と共(とも)に同(とも)に行(ゆ)かん」
才(いま)唐僧(とうそう)に別(わか)れ、唿哨(こっしょう=口笛)を打(う)ち、一筋斗(ひとこんと)に空中(くうちゅう)に跳(と)び上(あが)り、火眼(かがん=火の眼)を睜(みひら)いて平西(へいせい=西の方)を看(み)る処(ところ)、果(はた)して一座(ひとつ)の城池(じょうち)有(あ)り。汝(なんじ)道(い)う怎麼(どう)して便(すなわ)ち看(み)え得(え)たるや?当時(そのかみ)説(い)えるに那(か)の城池(じょうち)の寺(てら)を離(はな)るること只(た)だ四十里(しじゅうり)と、此(こ)の故(ゆえ)に高(たか)きに憑(よ)れば便(すなわ)ち望(のぞ)み見(み)えたる也(なり)。行者(ぎょうじゃ)近(ちか)づき前(まえ)に仔細(しさい=つぶさ)に看(み)る処(ところ)、又(また)那(か)の怪霧(かいむ=妖しき霧)愁雲(しゅううん=愁いの雲)の漠漠(ばくばく=立ちこめ)、妖風(ようふう)怨気(えんき)の紛紛(ふんぷん=渦巻く)を見(み)る。行者(ぎょうじゃ)空中(くうちゅう)に在(あ)りて讃嘆(さんたん)して道(い)わく、
「若(も)し是(こ)れ真王(しんおう=真の王)の宝座(ほうざ=玉座)に登(のぼ)らば、自(おのずか)ら祥光(しょうこう=吉祥の光)五色雲(ごしきうん)有(あ)らん。只(た)だ因(よ)りて妖怪(ようかい)龍位(りゅうい=玉座)を侵(おか)し、騰騰(とうとう=もくもく)たる黒気(こくき)金門(きんもん)を鎖(とざ)す」
行者(ぎょうじゃ)正(まさ)に然(しか)く感嘆(かんたん)す。忽(たちま)ち炮声(ほうせい=大砲の音)の響喨(きょうりょう=響く)を聴(き)き得(え)、又(また)只(た)だ見(み)る東門(とうもん)の開(ひら)く処(ところ)、一路(ひとすじ)の人馬(じんば)闪(ひら)めき出(い)づ、真個(まこと)に是(こ)れ采猟(さいりょう=狩)の軍(ぐん)、果(はた)して勢(いきおい)勇(ゆう)なり、但(た)だ見(み)る:
暁(あかつき)に禁城(きんじょう)の東(ひがし)を出(い)で、
囲(かこみ)を浅草(せんそう)の中(うち)に分(わ)かつ。
彩旗(さいき)開(ひら)いて日(ひ)に映(うつ)り、
白馬(はくば)驟(はし)って風(かぜ)を迎(むか)う。
鼉鼓(だこ=鼉の皮の鼓)冬冬(とうとう)と擂(う)ち、
標槍(ひょうそう=槍)対対(ついがい)に衝(つ)く。
鷹(たか)を架(か)く軍(ぐん)猛烈(もうれつ)、
犬(いぬ)を牽(ひ)く将(しょう)驍雄(ぎょうゆう)なり。
火砲(かほう)天(てん)に連(つら)なりて振(ふる)い、
粘竿(ねんかん=鳥もち竿)日(ひ)に映(うつ)じて紅(あか)し。
人人(ひとびと)弩箭(どぜん=弩の矢)を支(ささ)え、
箇箇(それぞれ)雕弓(ちょうきゅう=彫刻の弓)を挎(か)く。
網(あみ)を山坡(さんぱ=山の坂)の下(した)に張(は)り、
縄(なわ)を小径(しょうけい)の中(うち)に鋪(し)く。
一声(ひとこえ)の驚(おどろ)く霹靂(へきれき)、
千騎(せんき)の貔熊(ひゆう=猛獣)を擁(いだ)く。
狡兔(こうと=賢き兎)身(み)の保(たも)ち難(がた)く、
乖獐(かいしょう=賢き獐)智(ちえ)も亦(また)窮(きわ)まる。
狐狸(こり)該(かかわ)りて命(いのち)尽(つ)き、
麋鹿(びろく)当(まさ)に終(おわり)に喪(うしな)うべし。
山雉(さんち=山鳥)飛(と)び脱(のが)れ難(がた)く、
野鶏(やけい=雉)怎(いか)で凶(きょう)を避(よ)けんや?
他(かれ)ら都(みな)山場(さんじょう=猟場)を撿占(けんせん=選び占め)て猛獣(もうじゅう)を擒(とら)え、
林木(りんぼく)を摧残(さいざん=荒らし)て飛虫(ひちゅう)を射(い)んと要(よう)す。
那些(あれら)の人(ひと)城(しろ)を出(い)で得(え)て、歩(あゆみ)を東郊(とうこう=東の郊外)に散(さん)じ、不多時(しばらく)、二十里(にじゅうり)の向高田地(こうこうでんち=高き田畑)に有(あ)る時(とき)、又(また)只(た)だ見(み)る中軍営(ちゅうぐんえい)の裏(うち)に、小小(ちいさ)なる一個(ひとり)の将軍(しょうぐん)有(あ)り、盔(かぶと)を頂(いただ)き、甲(よろい)を貫(つらぬ)き、果肚花(かとばな=腹当ての花)、十八札(じゅうはちさつ=十八の札)、手(て)に青鋒宝剣(せいほうほうけん=青き刃の宝剣)を執(と)り、黄驃馬(こうひょうば=黄の駿馬)に坐(ざ)し、腰(こし)に満弦(まんげん=いっぱいに張りし)の弓(ゆみ)を帯(お)ぶ、真個(まこと)に是(こ)れ:
隐隐(いんいん=おぼろげ)たる君王(くんおう)の象(すがた)、
昂昂(こうこう=堂々たる)帝主(ていしゅ=君主)の容(かたち)。
規模(きぼ)小輩(しょうはい=小物)に非(あら)ず、
行動(こうどう)真龍(しんりゅう=真の龍)を顕(あらわ)す。
行者(ぎょうじゃ)空(くう)に在(あ)りて暗(あん)に喜(よろこ)んで道(い)わく、
「説(と)くを須(もち)いず、那(あ)れ便(すなわ)ち是(こ)れ皇帝(こうてい)の太子(たいし)了(なり)。我(われ)に他(かれ)を一戯(ひとたわむれ)戯(たわむ)れしめよ」
好(よ)きかな大聖(たいせい)、雲頭(うんとう)を按(おさ)え下(おろ)し、軍中(ぐんちゅう)に撞(つ)き入(い)りて太子(たいし)が馬前(ばぜん)に至(いた)り、身(み)を揺(ゆす)って一変(ひとへん)じ、変(へん)じて一個(ひとつ)の白兔児(はくとじ=白兎)と作(な)り、只(た)だ太子(たいし)が馬前(ばぜん)に在(あ)りて乱(みだ)りに跑(はし)る。太子(たいし)看(み)て、正(まさ)に歓心(かんしん=心の喜び)に合(かな)い、箭(や)を拈(ひね)り起(た)ち、弓(ゆみ)を曳(ひ)き満(み)たし、一箭(ひとや)正(まさ)に那(か)の兔児(うさぎ)に中(あた)る。原来(げんらい)是(こ)れ那(か)の大聖(たいせい)故意(わざ)と他(かれ)をして中(あた)らしめたるに、却(かえっ)て眼(め)乖(かしこ)く手(て)疾(はや)く、一把(ひとつかみ)に那(か)の箭頭(せんとう=矢尻)を接(う)け住(とど)め、箭翎花(せんれいか=矢羽)を把(もっ)て前辺(まえ)に落(おと)し、脚步(あしど)を投(な)げ開(ひら)いて跑(はし)り了(しま)う。那(か)の太子(たいし)箭(や)の玉兔(ぎょくと=玉の兎)に中(あた)れるを見(み)、馬(うま)を兜(あお)り開(ひら)き、独(ひと)り自(みずか)ら先(さき)を争(あらそ)いて来(きた)り赶(お)う。知(し)らず馬(うま)の行(ゆ)くの快(はや)きも、行者(ぎょうじゃ)風(かぜ)の如(ごと)し、馬(うま)の行(ゆ)くの遅(おそ)きときは、行者(ぎょうじゃ)慢(ゆる)く走(はし)り、只(た)だ他(かれ)が面前(めんぜん)に在(あ)りて遠(とお)からず。他(かれ)を一程一程(ひとくぎりひとくぎり)と、太子(たいし)を哄(みちび)きて宝林寺(ほうりんじ)の山門(さんもん)の下(した)に到(いた)らしめ、行者(ぎょうじゃ)本(もと)の身(み)を現(あらわ)し、兔児(うさぎ)の見(み)えざるに、只(た)だ一枝(ひとすじ)の箭(や)の門檻(もんかん=敷居)の上(うえ)に插(さ)さる在(あ)るを見(み)る。径(ただち)に撞(つ)き入(い)り去(さ)り、唐僧(とうそう)に見(まみ)えて道(い)わく、
「師父(しふ)、来(きた)れる!来(きた)れる!」
却(かえっ)て又(また)一変(ひとへん)じ、変(へん)じて二寸(にすん)の長短(ながさ)の小和尚児(こおしょうじ=小坊主)と做(な)り、紅匣(こうこう=赤き箱)の内(うち)に鑽(もぐ)り在(あ)る。
却説(さて)那(か)の太子(たいし)山門前(さんもんぜん)に赶(お)い到(いた)り、白兔(はくと)の見(み)えざるに、只(た)だ門檻(もんかん)の上(うえ)に一枝(ひとすじ)の雕翎箭(ちょうれいせん=彫り羽の矢)の插(さ)さり住(とど)めるを見(み)る。太子(たいし)大(おおい)に驚(おどろ)き色(いろ)を失(うしな)って道(い)わく、
「怪(あや)しき哉(かな)!怪(あや)しき哉(かな)!分明(ぶんめい)に我(わ)が箭(や)玉兔(ぎょくと)に中(あた)りしに、玉兔(ぎょくと)怎麼(どう)して見(み)えず、只(た)だ箭(や)の此間(ここ)に在(あ)るあるのみ!想(おも)うに是(こ)れ年(とし)多(おお)く日(ひ)久(ひさ)しくして、精魅(せいみ=妖怪)と成(な)れるならん」
箭(や)を抜(ぬ)き、頭(こうべ)を抬(あ)げて看(み)る処(ところ)、山門(さんもん)の上(うえ)に五個(いつつ)の大字(だいじ)有(あ)り、勅建宝林寺(ちょくけんほうりんじ)と写(しる)し在(あ)り。
太子(たいし)道(い)わく、
「我(われ)之(これ)を知(し)れり。向年間(むかし)曾(かつ)て記(おぼ)うるに我(わ)が父王(ふおう)金鑾殿(きんらんでん)の上(うえ)に在(あ)りて官(つかい)を差(つか)わし些(いささ)かの金帛(きんぱく=金と絹)を赍(おく)りて這(こ)の和尚(おしょう)と与(とも)に仏殿(ぶつでん)仏象(ぶつぞう)を修繕(しゅうぜん)せしめしが、不期(おもわず)今日(こんにち)此(ここ)に到(いた)れり。正(まさ)に是(こ)れ道院(どういん)を過(す)ぎて僧話(そうわ=僧の話)に逢(あ)い、又(また)浮生(ふせい=はかない世)の半日(はんじつ)の閑(ひま)を得(う)る、我(われ)且(しばら)く入(い)り去(さ)りて走走(あるこう)」
那(か)の太子(たいし)馬(うま)を跳(と)び下(お)り来(きた)り、正(まさ)に入(い)らんと欲(ほっ)するに、只(た)だ見(み)る那(か)の保驾(ほが=お供)の官将(かんしょう)と三千人馬(さんぜんじんば)の赶(お)いつき、簇簇擁擁(ぞくぞくようよう=ぞろぞろ)と、都(みな)山門(さんもん)の裏面(うち)に入(い)る。慌(あわ)て得(え)て那(か)の本寺(ほんじ)の衆僧(しゅうそう)、都(みな)来(きた)りて頭(こうべ)を叩(たた)き拜接(はいせつ=拝み迎)え、正殿(せいでん)の中間(ちゅうかん)に接(むか)え入(い)れ、仏象(ぶつぞう)を参拝(さんぱい)す。却(かえっ)て才(はじ)めて目(め)を挙(あ)げて観瞻(かんせん=眺め)、又(また)廊(ろう)を游(あそ)び景(けい)を玩(もてあそ)ばんと欲(ほっ)するに、忽(たちま)ち正(まさ)に当中(まんなか)に一個(ひとり)の和尚(おしょう)の坐(ざ)し在(あ)るを見(み)る、太子(たいし)大(おおい)に怒(いか)って道(い)わく、
「這個(こ)の和尚(おしょう)無礼(ぶれい)なり!我(われ)今(いま)半朝(はんちょう=朝廷の半ば)の鑾駕(らんが=天子の駕)を率(ひき)いて山(やま)に入(い)るに、旨意(しい=勅命)の知会(ちかい=通達)無(な)しと雖(いえど)も、遠(とお)く接(むか)うるに当(あた)らざるも、此(こ)の時(とき)軍馬(ぐんば)門(もん)に臨(のぞ)むに、也(また)該(かか)わる身(み)を起(た)つべしに、怎麼(どう)して還(なお)坐(ざ)し着(つ)けて動(うご)かざるや?」
教(おし)えて、
「拿(とら)え下(おろ)せ!」
拿(とら)えよと説(い)う一声(ひとこえ)、両辺(りょうへん)の校尉(こうい=近衛)、一斉(いっせい)に手(て)を下(おろ)し、唐僧(とうそう)を把(もっ)て抓(つか)み将(や)り下(おろ)し、急(いそ)ぎ縄索(じょうさく=縄)を理(ととの)えて便(すなわ)ち縛(いまし)む。行者(ぎょうじゃ)匣(はこ)の裏(うち)に在(あ)りて默默(もくもく)と呪(じゅ=呪文)を念(ねん)じ、教(おし)えて道(い)わく、
「護法(ごほう)諸天(しょてん)、六丁六甲(りくていりっこう)、我(われ)今(いま)法(ほう)を設(もう)けて妖(よう)を降(くだ)さんとす、這(こ)の太子(たいし)知識(ちしき=承知)する能(あた)わず、縄(なわ)を将(もっ)て我(わ)が師父(しふ)を縛(いまし)めんとす、汝(なんじ)等(たち)即(すなわ)ち早(はや)く護持(ごじ=守護)せよ、若(も)し真(まこと)に縛(いまし)め了(しま)えば、汝(なんじ)等(たち)都(みな)該(かかわ)りて罪(つみ)有(あ)るべし!」
那(か)の大聖(たいせい)暗中(あんちゅう)に吩咐(ふんふ)す、誰(たれ)か敢(あえ)て遵(したが)わざらん、却(かえっ)て三蔵(さんぞう)を将(もっ)て護持(ごじ)し定(さだ)めたり:有(あ)る人(ひと)は摸(さわ)るも亦(また)他(かれ)が光頭(こうとう=坊主頭)に摸(さわ)り着(つ)かず、好(あたか)も一壁(ひとつ)の墻(かべ)の擋(ふせ)ぎ住(とど)めて、其(そ)の身(み)に攏(よ)り難(がた)きに似(に)たり。那(か)の太子(たいし)道(い)わく、
「汝(なんじ)是(こ)れ那方(いずこ)より来(きた)れる、這般(このよう)なる隠身法(おんしんぽう=隠れ身の術)を使(つか)いて我(われ)を欺(あざむ)くや!」
三蔵(さんぞう)上前(まえ)に施礼(せれい)して道(い)わく、
「貧僧(ひんそう=この拙僧)隠身法(おんしんぽう)無(な)し、乃(すなわ)ち是(こ)れ東土(とうど)の唐僧(とうそう)、雷音寺(らいおんじ)に上(のぼ)りて仏(ほとけ)を拝(おが)み経(きょう)を求(もと)めて宝(ほう)を進(たてまつ)る和尚(おしょう)也(なり)」
太子(たいし)道(い)わく、
「汝(なんじ)が那(か)の東土(とうど)は是(こ)れ中原(ちゅうげん)なると雖(いえど)も、其(そ)の窮(きゅう=貧しさ)比(なら)ぶ無(な)し、甚(なん)の宝貝(ほうばい)有(あ)るや、汝(なんじ)説(と)き来(きた)りて我(われ)に聴(き)かせよ」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「我(わ)が身(み)の上(うえ)に穿(き)たる這(こ)の袈裟(けさ)は、是(こ)れ第三様(だいさんよう=三番目)の宝貝(ほうばい)也(なり)。還(なお)第一等(だいいっとう)、第二等(だいにとう)の更(さら)に好(よ)き物(もの)有(あ)る哩(ぞ)!」
太子(たいし)道(い)わく、
「汝(なんじ)が那(か)の衣服(いふく)、半辺(なかば)は身(み)を苫(おお)い、半辺(なかば)は臂(うで)を露(あらわ)す、多少(いくら)の物(もの)に値(あたい)せん、敢(あえ)て宝貝(ほうばい)と称(よ)ぶや!」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「這(こ)の袈裟(けさ)全体(ぜんたい=全部)ならずと雖(いえど)も、詩(し)幾句(いくく)有(あ)り、詩(し)に曰(い)わく:
仏衣(ぶつえ=仏の衣)偏袒(へんたん=片肌脱ぎ)論(ろん)ずるを須(もち)いず、
内(うち)に真如(しんにょ=真実)を隠(かく)して世塵(せいじん=俗塵)を脱(だっ)す。
万線千針(ばんせんせんしん=幾万の糸幾千の針)正果(しょうか)を成(な)し、
九珠八宝(きゅうしゅはっぽう=九つの珠八つの宝)元神(げんしん)に合(がっ)す。
仙娥聖女(せんがせいじょ=仙女)恭(うやうや)しく修制(しゅうせい=作り)し、
禅僧(ぜんそう)に遺(のこ)し賜(たまわ)りて垢身(くしん=汚れた身)を静(きよ)む。
駕(が)を見(み)て迎(むか)えざるは猶(なお)自(おのずか)ら可(よ)きも、
汝(なんじ)が父冤(ふえん=父の無念)未(いま)だ報(ほう)ぜずして枉(むな)しく人(ひと)と為(な)る!」
太子(たいし)言(げん)を聞(き)き、心中(しんちゅう)大(おおい)に怒(いか)って道(い)わく、
「這(こ)の潑和尚(はつおしょう=図太い坊主)胡説(こせつ=でたらめ)す!汝(なんじ)が那(か)の半片(はんぺん=半分)の衣(ころも)、汝(なんじ)が口(くち)の能(よく)舌(した)の便(たくみ)なるに憑(よ)せて、好(よ)しを夸(ほこ)り強(つよ)しを夸(ほこ)る。我(わ)が父冤(ふえん)何(いずこ)よりか未(いま)だ報(ほう)ぜざる、汝(なんじ)説(と)き来(きた)りて我(われ)に聴(き)かせよ」
三蔵(さんぞう)前(まえ)に一步(いっぽ)入(い)り、掌(てのひら)を合(あわ)せて問(と)うて道(い)わく、
「殿下(でんか)、人(ひと)として生(うま)れて天地(てんち)の間(あいだ)に在(あ)る、能(よ)く幾(いく)つの恩(おん)有(あ)るか?」
太子(たいし)道(い)わく、
「四恩(しおん)有(あ)り」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「那(いず)れの四恩(しおん)ぞ?」
太子(たいし)道(い)わく、
「天地(てんち)の蓋載(がいさい=覆い載せる)の恩(おん)、日月(じつげつ)の照臨(しょうりん=照らし臨む)の恩(おん)、国王(こくおう)の水土(すいど)の恩(おん)、父母(ふぼ)の養育(よういく)の恩(おん)を感(かん)ず」
三蔵(さんぞう)笑(わら)って曰(いわ)く、
「殿下(でんか)の言(げん)之(これ)失(しつ=過ち)有(あ)り、人(ひと)只(た)だ天地(てんち)の蓋載(がいさい)、日月(じつげつ)の照臨(しょうりん)、国王(こくおう)の水土(すいど)有(あ)るのみ、那(いず)くんぞ個(ひとつ)の父母(ふぼ)の養育(よういく)有(あ)るを得(え)んや?」
太子(たいし)怒(いか)って道(い)わく、
「和尚(おしょう)は是(こ)れ那(か)の游手游食(ゆうしゅゆうしょく=ぶらぶら食い)削髪(さくはつ=髪を剃り)逆君(ぎゃくくん=君に逆らう)の徒(ともがら)なり!人(ひと)父母(ふぼ)の養育(よういく)を得(え)ざれば、身(み)何(いずこ)よりか来(きた)らんや?」
三蔵(さんぞう)道(い)わく、
「殿下(でんか)、貧僧(ひんそう)知(し)らず。但(た)だ只(た)だ這(こ)の紅匣(こうこう=赤き箱)の内(うち)に一件(ひとつ)の宝貝(ほうばい)有(あ)り、立帝貨(りつていか)と叫(よ)び、他(かれ)上(かみ)は五百年(ごひゃくねん)を知(し)り、中(なか)は五百年(ごひゃくねん)を知(し)り、下(しも)は五百年(ごひゃくねん)を知(し)り、共(あわ)せて一千五百年(いっせんごひゃくねん)の過去未来(かこみらい)の事(こと)を知(し)り、便(すなわ)ち父母(ふぼ)の養育(よういく)の恩(おん)無(な)きを知(し)り、貧僧(ひんそう)をして此(ここ)に在(あ)りて久(ひさ)しく等(ま)つこと多時(たじ=長き間)ならしめたり」
太子(たいし)聞(き)き説(と)きて、教(おし)えて、
「拿(と)り来(きた)りて我(われ)に看看(みみ=見せ)よ」
三蔵(さんぞう)匣蓋児(こうがいじ=箱の蓋)を扯(ひ)き開(ひら)く、那(か)の行者(ぎょうじゃ)跳(と)び将(や)り出(い)で、[足+勃]呀(ほつあ=ぴょこぴょこ)[足+勃]呀(ほつあ)と、両辺(りょうへん)に乱(みだ)りに走(はし)る。太子(たいし)道(い)わく、
「這(こ)の星星(ちいさき)の小人児(こびと)、能(よ)く甚(なん)の事(こと)を知(し)らんや?」
行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)き小(ちいさ)きを嫌(きら)い、却(かえっ)て便(すなわ)ち個(ひとつ)の神通(じんつう)を使(つか)い、腰(こし)を把(もっ)て一伸(ひと伸ばし)し、便(すなわ)ち長(たか)くなること三尺四五寸(さんじゃくしごすん)有(あ)り。衆(しゅう)の軍士(ぐんし)吃驚(きっきょう=びっくり)して道(い)わく、
「若(も)し是(こ)れ這般(このよう)に快(はや)く長(たか)くなれば、幾日(いくにち)も消(よう)せずして、便(すなわ)ち天(てん)を撑(つ)き破(やぶ)らん也(なり)」
行者(ぎょうじゃ)原身(げんしん=元の丈)に長(たか)くなり到(いた)れば、便(すなわ)ち長(たか)くならず。太子(たいし)才(はじ)めて問(と)うて道(い)わく、
「立帝貨(りつていか)、這(こ)の老和尚(ろうおしょう)説(い)わく汝(なんじ)能(よ)く未来過去(みらいかこ)の吉凶(きっきょう)を知(し)ると、汝(なんじ)却(かえっ)て亀(き=亀甲)有(あ)りて卜(ぼく=占)いと為(な)すか?蓍(し=蓍草)有(あ)りて筮(ぜい=筮)と為(な)すか?書句(しょく=書の句)に憑(よ)りて人(ひと)の禍福(かふく)を断(だん)ずるか?」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「我(われ)一毫(いちごう=少し)も用(もち)いず、只(た)だ是(こ)れ全(まった)く三寸(さんずん)の舌(した)に憑(よ)り、万事(ばんじ)尽(ことごと)く皆(みな)知(し)る」
太子(たいし)道(い)わく、
「這(こ)の厮(やつ)又(また)是(こ)れ胡説(こせつ)なり。古(いにしえ)より以来(いらい)、《周易(しゅうえき)》の書(しょ)の、極(きわ)めて玄妙(げんみょう)にして、天下(てんか)の吉凶(きっきょう)を断(だん)じ尽(つく)し、人(ひと)をして趨避(すうひ=進み避ける所)を知(し)らしむ、故(ゆえ)に亀(かめ)は卜(ぼく)する所以(ゆえん)なり、蓍(し)は筮(ぜい)する所以(ゆえん)なり。汝(なんじ)が言(げん)を聴(き)けば、何(いず)れの理(り)に拠(よ)りて、妄(みだ)りに禍福(かふく)を言(い)い、人心(じんしん)を扇惑(せんわく=惑わす)するや!」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「殿下(でんか)且(しばら)く忙(いそ)ぐ勿(なか)れ、我(われ)に説(と)きて汝(なんじ)に聴(き)かしめん。汝(なんじ)本(もと)是(こ)れ烏鶏国王(うけいこくおう)の太子(たいし)、汝(なんじ)が那裡(そこ)五年前(ごねんぜん)、年程(ねんてい=その年)荒旱(こうかん=日照り)し、万民(ばんみん)苦(くるしみ)を遭(あ)い、汝(なんじ)が家(いえ)の皇帝(こうてい)臣子(しんし=臣下)と共(とも)に、心(こころ)を秉(と)りて祈祷(きとう)せり。正(まさ)に一点(いってん)の雨(あめ)も無(な)きの時(とき)、鍾南山(しょうなんざん)より一個(ひとり)の道士(どうし)来(きた)り、他(かれ)善(よ)く風(かぜ)を呼(よ)び雨(あめ)を喚(よ)び、石(いし)に点(てん)じて金(きん)と為(な)す。君王(くんおう)忒(いささ)かも小(ちいさき)を愛(あい)し、便(すなわ)ち他(かれ)と与(とも)に拝(はい)して兄弟(きょうだい)と為(な)れり。這(こ)の樁(ひとつ)の事(こと)有(あ)るや?」
太子(たいし)道(い)わく、
「有有有(あるあるある)!汝(なんじ)再(また)説説(いってみ)よ」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「後(のち)三年(さんねん)全真(ぜんしん)を見(み)ざるに、孤(こ=我)と称(よ)ぶは却(かえっ)て是(こ)れ誰(たれ)ぞ?」
太子(たいし)道(い)わく、
「果(はた)して是(こ)れ個(ひとり)の全真(ぜんしん)有(あ)り、父王(ふおう)他(かれ)と与(とも)に拝(はい)して兄弟(きょうだい)と為(な)り、食(しょく)すれば則(すなわ)ち同(とも)に食(くら)い、寝(ね)れば則(すなわ)ち同(とも)に寝(ね)たり。三年前(さんねんぜん)御花園(ごかえん)の裏(うち)に景(けい)を玩(もてあそ)びし時(とき)、他(かれ)に一陣(ひとしきり)の神風(しんぷう)に被(よ)って、父王(ふおう)が手(て)の中(うち)の金廂白玉珪(きんしょうはくぎょくけい)を把(もっ)て、鍾南山(しょうなんざん)へ摂(さら)い回(かえ)し去(さ)られ、至今(いま)父王(ふおう)還(なお)他(かれ)を思慕(しぼ=慕い)す。他(かれ)を見(み)ざるに因(よ)りて、遂(つい)に心(こころ)を賞玩(しょうがん=楽しむ)に置(お)かず、花園(かえん)を把(もっ)て緊(きん)と閉(と)ざし、已(すで)に三年(さんねん)矣(なり)。皇帝(こうてい)と做(な)るは我(わ)が父王(ふおう)に非(あら)ずして何(なん)ぞや?」
行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)き、哂笑(しんしょう=あざ笑い)絶(た)えず。太子(たいし)再(また)問(と)うも答(こた)えず、只(た)だ是(こ)れ哂笑(しんしょう)す。太子(たいし)怒(いか)って道(い)わく、
「這(こ)の厮(やつ)当(まさ)に言(い)うべきに言(い)わず、如何(どう)して這等(このよう)に哂笑(しんしょう)するや?」
行者(ぎょうじゃ)又(また)道(い)わく、
「還(なお)許多(あまた)の話(はなし)有(あ)る哩(ぞ)!奈何(いかん)とも左右(さゆう)の人(ひと)衆(おお)く、是(こ)れ説(と)く処(ところ)に非(あら)ず」
太子(たいし)他(かれ)が言語(げんご)の因(よし)有(あ)るを見(み)、袍袖(ほうしゅう=袍の袖)を将(もっ)て一展(ひとひるがえ)し、軍士(ぐんし)をして且(しばら)く退(しりぞ)かしむ。那(か)の駕上(がじょう=駕に従う)の官将(かんしょう)、急(いそ)ぎ令(れい)を伝(つた)え、三千人馬(さんぜんじんば)を将(もっ)て、都(みな)門外(もんがい)に出(い)でて住札(じゅうさつ=駐屯)せしむ。此(こ)の時(とき)殿上(でんじょう)人(ひと)無(な)く、太子(たいし)上(うえ)に坐(ざ)し、長老(ちょうろう)前辺(まえ)に立(た)ち、左手(ひだりて)の旁(かたわ)らに行者(ぎょうじゃ)立(た)つ。本寺(ほんじ)の諸僧(しょそう)皆(みな)退(しりぞ)く、行者(ぎょうじゃ)才(はじ)めて正色(せいしょく=真剣な顔)して上前(まえ)に道(い)わく、
「殿下(でんか)、化風(かふう=風と化)して去(さ)りしは是(こ)れ汝(なんじ)が生身(しょうしん=産みの)の父母(ふぼ)、見(げん)に位(くらい)に坐(ざ)せるは、是(こ)れ那(か)の祈雨(きう=雨乞い)の全真(ぜんしん)也(なり)」
太子(たいし)道(い)わく、
「胡説(こせつ)!胡説!我(わ)が父(ちち)全真(ぜんしん)の去(さ)りし後(のち)、風(かぜ)調(ととの)い雨(あめ)順(したが)い、国(くに)泰(やす)く民(たみ)安(やす)し。汝(なんじ)が説(と)くに照(てら)せば、便(すなわ)ち是(こ)れ我(わ)が父王(ふおう)に非(あら)ず。還(なお)是(こ)れ我(われ)年(とし)孺(わか)くして、汝(なんじ)を容(ゆる)し得(う)るも、若(も)し我(わ)が父王(ふおう)汝(なんじ)が這(こ)の番(ひとくさ)り的話(はなし)を聞(き)かば、拿(とら)え去(さ)りて、尸(しかばね)を砕(くだ)き万段(ばんだん)と為(な)さん!」
行者(ぎょうじゃ)を咄(とつ=どっと)の一声(ひとこえ)に喝(かつ)し下(おろ)す。行者(ぎょうじゃ)唐僧(とうそう)に対(たい)して道(い)わく、
「何如(いかん)ぞや?我(われ)説(い)えるに他(かれ)信(しん)ぜずと、果(はた)して!果(はた)して!如今(いま)却(かえっ)て那(か)の宝貝(ほうばい)を拿(と)りて進(たてまつ)り他(かれ)に与(あた)え、関文(かんぶん=通行証)を倒換(とうかん=交換)し、西方(さいほう)へ往(ゆ)かんか」
三蔵(さんぞう)即(すなわ)ち紅匣子(こうこうし=赤き箱)を将(もっ)て行者(ぎょうじゃ)に逓(わた)す。行者(ぎょうじゃ)接(う)け過(す)ぎ来(きた)り、身(み)を将(もっ)て一抖(ひとゆす)りすれば、那(か)の匣児(こうじ=箱)卒(たちま)ち見(み)えず、原(もと)是(こ)れ他(かれ)が毫毛(ごうもう)の変(へん)じたるを、他(かれ)に被(よ)って身(み)の上(うえ)に収(おさ)め去(さ)られたる也(なり)。却(かえっ)て白玉珪(はくぎょくけい)を双手(もろて)に捧(ささ)げ上(あ)げ、太子(たいし)に献(けん)ず。
太子(たいし)見(み)て道(い)わく、
「好(よ)き和尚(おしょう)!好(よ)き和尚(おしょう)!汝(なんじ)五年前(ごねんぜん)本(もと)是(こ)れ個(ひとり)の全真(ぜんしん)にして、来(きた)りて我(わ)が家(いえ)の宝貝(ほうばい)を騙(だま)し取(と)り、如今(いま)又(また)和尚(おしょう)に妝(よそお)い做(な)りて来(きた)りて進献(しんけん=献上)す!」
叫(よ)ばんとす、
「拿(とら)えよ!」
一声(ひとこえ)令(れい)を伝(つた)う、長老(ちょうろう)を把(もっ)て唬(おどろ)かされ慌(あわ)てて忙(いそ)ぎ行者(ぎょうじゃ)を指(さ)して道(い)わく、
「汝(なんじ)這(こ)の弼馬温(ひつばおん)!専(もっぱ)ら空頭禍(くうとうか=でっち上げの災い)を撞(つ)き、我(われ)を帯累(たいるい=巻き添え)する哩(ぞ)!」
行者(ぎょうじゃ)近(ちか)づき前(まえ)に一斉(いっせい)に攔(さえぎ)り住(とど)めて道(い)わく、
「嚷(わめ)くを休(や)めよ!風(ふう=消息)を走(に)がす莫(なか)れ!我(われ)立帝貨(りつていか)と叫(よ)ばれず、還(なお)真名(しんめい=本名)有(あ)る哩(ぞ)」
太子(たいし)怒(いか)って道(い)わく、
「汝(なんじ)上(のぼ)り来(こ)よ!我(われ)汝(なんじ)に個(ひとつ)の真(まこと)の名字(みょうじ=名)を問(と)い、好(よ)く法司(ほうし=役所)に送(おく)りて罪(つみ)を定(さだ)めん!」
行者(ぎょうじゃ)道(い)わく、
「我(われ)は是(こ)れ那(か)の長老(ちょうろう)の大徒弟(だいとてい)、名(な)を悟空孫行者(ごくうそんぎょうじゃ)と喚(よ)び、我(わ)が師父(しふ)と与(とも)に西天(さいてん)に上(のぼ)りて経(きょう)を取(と)るに因(よ)り、昨宵(さくしょう=昨夜)此(ここ)に到(いた)りて宿(やど)を覓(もと)めり。我(わ)が師父(しふ)夜(よる)経巻(きょうかん)を読(よ)み、三更(さんこう)の時分(じぶん)に至(いた)りて一夢(ひとゆめ)を得(え)、汝(なんじ)が父王(ふおう)の道(い)えるを夢(ゆめ)みたり、他(かれ)那(か)の全真(ぜんしん)に被(よ)って欺(あざむ)き害(そこな)われ、御花園(ごかえん)の八角琉璃井(はっかくるりい)の内(うち)に推(お)し在(お)かれ、全真(ぜんしん)他(かれ)の模様(すがた)に変(へん)じ作(な)れりと。満朝(まんちょう)の官(かん)知(し)る能(あた)わず、汝(なんじ)年幼(ねんよう)にして亦(また)分暁(ぶんぎょう=見分け)無(な)く、汝(なんじ)を禁(きん)じて宮(きゅう)に入(い)らしめず、花園(かえん)を関(とざ)し、大端(たいたん=大方)消息(しょうそく=秘密)の漏(も)れんことを怕(おそ)るる也(なり)。汝(なんじ)が父王(ふおう)今夜(こんや)特(ことさ)らに来(きた)りて我(われ)に魔(ま)を降(くだ)さんことを請(こう)う、我(われ)恐(おそ)らくは是(こ)れ妖邪(ようじゃ)に非(あら)ざらんと、自(みずか)ら空中(くうちゅう)に在(あ)りて看(み)るに、果(はた)して是(こ)れ個(ひとり)の妖精(ようせい)也(なり)。正(まさ)に手(て)を動(うご)かして他(かれ)を拿(とら)えんと要(よう)するに、不期(おもわず)汝(なんじ)城(しろ)を出(い)でて猟(かり)を打(う)てり。汝(なんじ)が箭(や)の中(あた)てし玉兔(ぎょくと)は、便(すなわ)ち是(こ)れ老孫(ろうそん)也(なり)。老孫(ろうそん)汝(なんじ)を把(もっ)て寺(てら)の裏(うち)に引(ひ)き到(いた)り、師父(しふ)に見(まみ)え、此(こ)の衷腸(ちゅうちょう=胸の内)を訴(うった)う、句句(くく=一句一句)是(こ)れ実(まこと)也(なり)。汝(なんじ)既(すで)に然(しか)く白玉珪(はくぎょくけい)を認(みと)め得(う)るに、怎麼(どう)して鞠養(きくよう=育て)の恩情(おんじょう)を念(ねん)ぜず、親(おや)に替(かわ)りて仇(あだ)を報(ほう)ぜざるや?」
那(か)の太子(たいし)言(げん)を聞(き)き、心中(しんちゅう)惨慽(さんせき=痛ましく)、暗(あん)に自(みずか)ら傷愁(しょうしゅう=傷み憂い)て道(い)わく、
「若(も)し此(こ)の言語(げんご)を信(しん)ぜざれば、他(かれ)却(かえっ)て三分(さんぶ=三割)の真実(しんじつ)有(あ)り。若(も)し信(しん)ぜば、怎(いか)で奈何(せんかた)なく、殿上(でんじょう)に見(み)ゆるは是(こ)れ我(わ)が父王(ふおう)なるを?」
這(こ)れ才(はじ)めて是(こ)れ進退(しんたい)両難(りょうなん)にして心(こころ)口(くち)に問(と)い、三思(さんし=三度考え)忍耐(にんたい)して口(くち)心(こころ)に問(と)う也(なり)。行者(ぎょうじゃ)他(かれ)の疑惑(ぎわく)して定(さだ)まらざるを見(み)、又(また)上前(まえ)に道(い)わく、
「殿下(でんか)心(こころ)を疑(うたが)う必(かなら)ずしも要(い)らず、請(こう)う殿下(でんか)駕(が)を本国(ほんごく)に回(めぐ)し、汝(なんじ)が国母娘娘(こくぼにゃんにゃん=母后)に一声(ひとこえ)問(と)い、他(かれ)が夫妻(ふさい)の恩愛(おんあい)の情(じょう)の、三年前(さんねんぜん)に比(くら)べて如何(いかん)を看看(みみ=見て)よ。只(た)だ此(こ)の一問(ひととい)、便(すなわ)ち真偽(しんぎ)を知(し)る矣(なり)」
那(か)の太子(たいし)心(こころ)を回(めぐ)らして道(い)わく、
「正(まさ)に是(こ)れ!且(しばら)く待(ま)て、我(われ)に我(わ)が母(はは)に問(と)いに去(ゆ)き来(きた)らん」
他(かれ)身(み)を跳(と)び起(た)ち、玉珪(ぎょくけい)を籠(かごい=懐に)えて便(すなわ)ち走(はし)る。行者(ぎょうじゃ)扯(ひ)き住(とど)めて道(い)わく、
「汝(なんじ)が這(こ)の人馬(じんば)都(みな)回(かえ)らば、却(かえっ)て消息(しょうそく=秘密)を走(に)がさずや、我(われ)功(こう)を成(な)し難(がた)からんや?但(た)だ汝(なんじ)に単人独馬(たんじんどくば=単騎)にて城(しろ)に入(い)ることを要(よう)し、名(な)を揚(あ)げ売弄(ばいろう=ひけらかす)す可(べ)からず、正陽門(せいようもん)に入(い)る莫(なか)れ、須(かなら)ず後宰門(こうさいもん=裏門)より入(い)り去(さ)れ。宮中(きゅうちゅう)に到(いた)りて汝(なんじ)が母(はは)に見(まみ)ゆるに、切(きっ)して高声(こうせい=大声)大気(たいき=荒々しき息)を休(や)め、須(かなら)ず是(こ)れ悄語(しょうご=ささやき)低言(ていげん=小声)なれ。恐(おそ)らくは那(か)の怪(かい)神通(じんつう)広大(こうだい)にして、一時(ひととき)消息(しょうそく)を走(に)がさば、汝(なんじ)が娘児(にゃんじ=母と子)たちの性命(せいめい)俱(みな)保(たも)ち難(がた)き也(なり)」
太子(たいし)謹(つつし)んで教命(きょうめい=教え)を遵(したが)い、山門(さんもん)を出(い)でて将官(しょうかん)に吩咐(ふんふ)して、
「穏(おだやか)に此(ここ)に在(あ)りて軍(ぐん)を屯(たくわ)え、移動(いどう)するを得(え)ざれ。我(われ)に一事(いちじ)有(あ)り、我(われ)が去(ゆ)き了(しま)りて来(きた)るを待(ま)ち、一同(いちどう)に城(しろ)に入(い)らん」
他(かれ)を看(み)よ:
指揮(しき=指図し)号令(ごうれい)して軍士(ぐんし)を屯(たくわ)え、
馬(うま)に上(のぼ)ること飛(と)ぶが如(ごと)く即(すなわ)ち城(しろ)に転(かえ)る。
這(こ)の一去(いっきょ)、知(し)らず娘娘(にゃんにゃん)に見(まみ)えて、何(なん)の話(はなし)説(と)く有(あ)るかは、且(しばら)く下回(かかい=次の回)の分解(ぶんかい=説き明かし)を聴(き)け。