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041 第四十一回 心猿、火に遭いて敗れ 木母、魔に擒(とら)わる

善悪一時(ひととき)に念(ねん)を忘れ、栄枯(えいこ)都て心を関(かか)けず。晦明(かいめい)隠現(いんげん)として浮沈(ふちん)に任せ、分(ぶん)に随(したが)いて飢えて餐(くら)い渇して飲む。神静かにして湛然(たんぜん)として常に寂(じゃく)なれば、昏冥(こんめい)に便(すなわ)ち魔の侵(おか)す有り。五行蹭蹬(そうとう)して禅林(ぜんりん)を破り、風動けば必ず寒凛(かんりん)なり。

さて、かの孫大聖は八戒を引き連れ、沙僧に別れて枯松澗(こしょうかん)を跳び越え、直ちにかの怪石崖(かいせきがい)の前に到り着き、果たして一つの洞府(どうふ)有るを見た。真にまた景致(けいち)非凡なり。但見よ:

回銮(かいらん)の古道(こどう)は幽(ゆう)にして還(ま)た静かに、風月(ふうげつ)もまた玄鶴(げんかく)の弄(ろう)するを聴く。白雲(はくうん)透(す)き出でて満川(まんせん)の光、流水(りゅうすい)橋を過ぎて仙意(せんい)興(きょう)ず。猿嘯(えんしょう)き鳥啼(な)きて花木(かぼく)奇(き)なり、藤蘿(とうら)・石蹬(せきとう)・芝蘭(しらん)勝(すぐ)れたり。蒼(あお)く崖壑(がいがく)を揺(ゆ)るがしめて煙霞(えんか)を散じ、翠(みどり)は松篁(しょうこう)を染めて彩鳳(さいほう)を招く。遠きに列(つら)なる峰(みね)は屏風(びょうぶ)を插(さ)すに似、山は澗(たに)に朝(むか)い澗は繞(めぐ)りて真仙洞(しんせんどう)。崑崙(こんろん)の地脈(みゃく)より来龍(らいりゅう)を発(おこ)し、分(ぶん)有り縁(えん)有りて方(まさ)に受用(じゅよう)す。

門前に近づき行くに、一つの石碣(せっけつ)有るを見たれば、上に八箇の大字を鐫(え)りて、乃ち「号山枯松澗火雲洞(ごうざんこしょうかんかうんどう)」なり。かの壁廂(かたわら)に一群(ひとむれ)の小妖、そこに在りて槍を輪(めぐ)らし剣を舞わせて跳風(ちょうふう)して頑耍(たわむ)れておる。孫大聖は声を厲(はげ)しくして高く叫んで言う、「これ小者(こもの)ども、早くに往きて洞主(どうしゅ)に報じ知らせ、我が唐僧(とうそう)の師父(しふ)を送り出させよ。さもなくば汝ら這一洞(このどう)の精霊(せいれい)の性命(いのち)を免(まぬか)れん! 歯(は)に半箇(ばんこ)の不字(いやというこえ)を迸(ほとばし)らせば、我すなわち汝が山場(さんじょう)を掀(ひるがえ)し翻(かえ)し、汝が洞府を躙(ふみ)し平(たいら)ぐるぞ!」 かの小妖どもこの言(ことば)有るを聞き、慌(あわ)てて急ぎ身を転じ、各々洞裏(どうり)に帰り、両扇(りょうせん)の石門を関(と)ざし、内へと到り来たりて報じた、「大王、禍事(かじ)でございます!」

さて、かの怪は三蔵を洞中に拿(とら)え獲(え)てより、衣服を選剥(ひんぱ)ぎ、手足を縛り上げて後院(こういん)に捆(くく)り、小妖に打(み)ぎ浄(きよ)き水を打たせて刷洗(あらい)させ、籠(かご)に上(の)せて蒸(ふか)して食わんと欲しておったが、急ぎ禍事を報ずる声を聴き、かつは刷洗(あら)わず、便ち前庭(ぜんてい)に来たりて問うた、「何の禍事ぞ?」 小妖言う、「一人の毛臉(もうれん)雷公嘴(らいこうし)の和尚、一人の長嘴(ちょうし)大耳(だいじ)の和尚を帯(つ)れ、門前に在りて甚麼(なん)の唐僧の師父とかを求(もと)めておりまする。但し歯に半箇の不字を迸らせば、すなわち山場を掀し翻し、洞府を躙し平ぐると申しまする」 魔王微(ほほ)かに冷笑して言う、「これ孫行者と猪八戒じゃ、彼もまた却(かえ)って能(よ)く尋ねおるわい。彼が彼が師父を拿(とら)えたるは、半山(なかやま)より此処に到るまで百五十里有るに、怎(どう)してすなわち就(すなわ)ち門を尋ねて上(のぼ)り来たれるか?」 教えた、「小者ども、管車(かんしゃ)の者に、車を推(お)し出ださせよ!」 かの一班(ひとくみ)幾箇かの小妖、五輛(ごりょう)の小車児(しょうしゃじ)を推し出だし来たり、前門を開(ひら)いた。八戒望み見て言う、「兄者(あにじゃ)、この妖精は想うに我らを怕(お)じて、車を推し出だし、かの廂(ほう)へ搬(はこ)ぶのであろう」 行者言う、「否(いな)、且(しばら)く彼が何処に放(お)くかを見よ」 見ればかの小妖、車を金・木・水・火・土に按(したが)いて安(やす)んじ下し、五箇に看(み)させ、五箇を中(なか)へ通報(つうほう)させた。かの魔王問う、「停当(ととの)うたか?」 応(こた)う、「停当いました」 教えた、「槍を取り過(よ)こせ」 かの一夥(ひとむれ)の兵器を管(つかさど)る小妖有り、二箇に一杆(ひとえ)の丈八(じょうはち)長の火尖槍(かせんそう)を抬(か)き出ださしめ、妖王に遞(わた)した。妖王は槍を輪(めぐ)らし歩を踏み開き、また甚麼の盔甲(かいこう)も無く、只だ腰間(ようかん)に一条の錦繡(きんしゅう)の戦裙(せんくん)を束(しば)り、脚(あし)を赤(あらわ)にし、門前へと走出(ある)き出でた。行者と八戒、頭を抬(あ)げて観看(みまも)るに、但しあの怪物を見よ:

面(かお)は粉(おしろい)を傅(つ)くるが如く三分(さんぶ)白く、唇(くちびる)は朱(しゅ)を塗(ぬ)るが若(ごと)く一表(いっぴょう)の才(さい)。鬢(びん)は青雲(せいうん)を挽(わ)して靛染(てんぞめ)を欺(あざむ)き、眉(まゆ)は新月(しんげつ)を分(わ)かちて刀(かたな)に裁(た)つに似たり。戦裙は巧(たくみ)に盤龍鳳(ばんりゅうほう)を繡(ぬ)い、形は哪吒(なた)に比べて更(さら)に富胎(ふたい)なり。双の手(て)に槍を綽(と)りて威(い)凛冽(りんれつ)たり、祥光(しょうこう)体を護(まも)りて門を出(い)で来たる。哏声(こえ)は響きて春雷(しゅんらい)の吼(ほ)えるが若(ごと)く、暴眼(ぼうがん)は明(あき)らかにして掣電(せいでん)の乖(かい)なるが如し。此の魔の真の姓氏を識(し)らんと要(ほ)っせば、名は千古(せんこ)に揚(あ)がりて紅孩(こうがい)と喚(よ)ぶ。

かの紅孩児(こうがいじ)の怪、門を出(い)で得て、高く叫んで言う、「是(こ)れ甚麼人(なんびと)ぞ、我が此処(ここ)に在りて吆喝(わめ)くは!」 行者近づき前(すす)んで笑って言う、「我が賢侄(けんてつ=おい)よ、虚頭(うそ)を弄(ろう)するなかれ。汝今朝(けさ)山路の旁(かたわら)に在りて、高く松樹の梢頭(こずえ)に吊(つる)され、あの般(よう)なる一箇の瘦怯怯(やせこけて)たる黄病孩児(おうびょうのこども)でありしに、我が師父を哄(だま)したり。我却(かえ)って好意(せっかく)にて汝を駄(おぶ)うておるに、汝すなわち風(かぜ)を弄(ろう)して我が師父を摂(さら)い将(つ)れ来(きた)れり。汝如今(いま)またこの様(さま)を弄(ろう)すとも、我怎(どう)して汝を認(みと)めざらんや? 早きに趁(つ)けて我が師父を送り出だせ。面皮(めんぴ=顔)を白(むな)しくし、親情(しんじょう=親しきよしみ)を失(うしな)うなかれ。恐(おそ)らくは汝が令尊(りょうそん=父上)の知るところとなり、我が老孫の長(かしら)を以て幼(おさな)きを欺(あざむ)くを怪(とが)め、姿(すがた)に象(に)ざらんことを」

かの怪この言(ことば)を聞き、心中大いに怒り、咄(とつ)の一声(ひとこえ)喝(かつ)して言う、「かの潑猴頭(はっこうとう=暴け者)め! 我と汝と何(なん)の親情(しんじょう)有るか? 汝此処に在りて満口(くちいっぱい)に胡柴(うそ)を吐き、甚麼(なん)の声経児(こえぶり)を綽(と)るか! 誰(た)れが汝が賢侄(おい)ぞ?」 行者言う、「哥哥(あにき)、汝もまた不暁(し)らざるか。当年(むかし)我と汝が令尊(父上)と弟兄(きょうだい)の契りを結びし時、汝はまた未(いま)だ何処(いずこ)に在るかを知らざりしぞ」 かの怪言う、「この猴子(さる)め、一発(ますます)胡説(でたらめ)を申す! 汝は何処の人、我は何処の人、怎(どう)して我が父と兄弟と做(な)り得んか?」 行者言う、「汝は知らざるなり。我は乃(すなわ)ち五百年前(むかし)天宮(てんぐう)を大闹(おおさわ)がせし斉天大聖(せいてんたいせい)孫悟空是(これ)なり。我当初(そのかみ)未だ天宮を闹(さわ)がざりし時、遍(あまね)く海角天涯(かいかくてんがい)を遊(めぐ)り、四大部洲(しだいぶしゅう)の方として到(いた)らざるは無かりき。その時節、専(もっぱ)ら豪傑(ごうけつ)を慕(した)い、汝が令尊を牛魔王と做(なづ)け、平天大聖(へいてんたいせい)と称(とな)え、我が老孫と結びて七弟兄(しちていけい)と為(な)り、彼をして大哥(だいか=長兄)と做(な)らしめたり;また一箇の蛟魔王(こうまおう)有り、複海大聖(ふくかいたいせい)と称し、二哥(じか)と做り;また一箇の大鵬魔王(たいほうまおう)有り、混天大聖(こんてんたいせい)と称し、三哥と做り;また一箇の獅狔王(しにょうおう)有り、移山大聖(いさんたいせい)と称し、四哥と做り;また一箇の獼猴王(みこうおう)有り、通風大聖(つうふうたいせい)と称し、五哥と做り;また一箇の獝狨王(いつじゅうおう)有り、駆神大聖(くしんたいせい)と称し、六哥と做り;惟(ただ)老孫のみ身小(みちいさ)く、斉天大聖と称し、排行(れいこう)第七なり。我が老弟兄(きょうだい)たちのその時節耍子(あそ)びし時、汝は還(ま)だ未(いま)だ生(うま)れざりしぞ!」

かの怪物この言(ことば)を聞き、那里(どう)してか肯(あえ)て信ぜん、火尖槍を挙(あ)げて就(すなわ)ち刺(つ)く。行者は正(まさ)にかの会家(つわもの)は忙(あわ)てず、また一箇の身法(しんぽう)を使(つか)い、槍頭(ほこさき)を閃(かわ)し過ぎ、鉄棒(てつぼう)を輪(めぐ)らし起(あ)げ、罵(ののし)って言う、「この小畜生(こちくしょう)め、高低(てかげん)を識(し)らざるか! 棍(こん)を見よ!」 かの妖精もまた身法を使い、鉄棒を譲(ゆず)り過ぎて言う、「潑猢猻(はっこそん=暴け猿)め、時務(じむ=とき)に達(さと)らざるか! 槍を見よ!」 彼の二人(ふたり)もまた親情(しんじょう)を論(あげつら)わず、一斉(いっせい)に変臉(けんそん)し、各(おのおの)神通(じんずう)を使い、雲端(うんたん)の裡(うち)へと跳(と)び上(あが)った。好(よ)き殺(あらそ)いかな:

行者の名声(めいせい)大(おお)いに、魔王の手段(てだて)強(つよ)し。一箇は横(よこた)えて金箍棒(きんこぼう)を挙げ、一箇は直(ただ)ちに火尖槍を挺(つ)く。霧(きり)を吐(は)きて三界(さんがい)を遮(おお)い、雲(くも)を噴(ふ)きて四方(しほう)を照(て)らす。一天(いってん)の殺気(さっき)、凶声(きょうせい)吼(ほ)え、日月星辰(じつげつせいしん)も光(ひかり)を見ず。語言(ことば)に遜譲(そんじょう=へりくだり)無く、情意(じょうい)両(ふた)つながら乖張(かいちょう=すねくれ)たり。かの一箇は心(こころ)を欺(あざむ)きて礼儀(れいぎ)を失(うしな)い、この一箇は臉(かお)を変(か)えて綱常(こうじょう=みち)無し。棒(ぼう)は架(か)けて威風(いふう)長(たけ)たかく、槍(やり)は来たりて野性(やせい)狂(くる)えり。一箇は是れ混元真大聖(こんげんしんたいせい)、一箇は是れ正果善財郎(しょうがぜんざいろう)。二人(ふたり)努(ゆめ)めて強勝(きょうしょう)を争(あらそ)うは、只だ唐僧の法王(ほうおう)を拝(はい)せんが為(ため)なり。

かの妖魔と孫大聖、戦うこと二十合(にじゅうがっしょう)を経(へ)て、勝敗(しょうはい)を分(わ)かたず。

猪八戒は旁(かたわら)に在りて、看(み)て明白(あきらか)なり:妖精は未(いま)だ敗降(はいこう)せざれども、却(かえ)って只だ遮攔(しゃらん)隔架(かくか)して、全(まった)く攻殺(こうさつ)の能(ちから)無し;行者は縦(たと)い彼に贏(か)たずとも、棒法(ぼうほう)精(くわ)しく強(つよ)く、来往(ゆきき)は只だかの妖精の頭上(ずじょう)に在り、左右(さゆう)を離(はな)れざるのみ。八戒密(ひそ)かに想(おも)う、「不好(いかん)じゃ、行者は溜撒(すばしこ)い。一時間(ひととき)に破綻(すき)を見(み)せて、かの妖魔を潜(もぐ)り込(こ)ませ、一鉄棒(ひとぼう)に打ち倒(たお)せば、すなわち我が功労(くろう)が無(な)くなってしまう」 汝(なんじ)看よ、彼は精神(せいしん)を抖擻(ふる)い起(おこ)し、九歯鈀(きゅうしは)を挙(あ)げ、空裡(そらのうち)に在りて、妖精を望(めが)けて劈頭(てっぽう)より就(すなわ)ち築(つ)く。かの怪これを見て心驚(おどろ)き、急ぎ槍を拖(ひ)きて陣(じん)を敗(やぶ)れて下(お)り来(きた)る。行者は八戒に喝(かつ)して教えた、「趕上(おいつ)け! 趕上け!」

二人(ふたり)は彼が洞門の前に趕(お)い到(つ)いたるに、只だ妖精の一只の手(て)に火尖槍を挙(あ)げ、あの中間(まんなか)の一辆(りょう)の小車児(くるま)の上に站(た)ち、一只の手に拳(こぶし)を捏(ひね)り、おのが鼻(はな)の上へと向(むか)いて二拳(ふたこぶし)捶(う)ちたるを見た。八戒笑って言う、「この厮(やつ)は放頼(だだ)をこねて羞(はじ)知らず! 汝好(よ)くも道(い)う、鼻を捶(う)ち破(やぶ)りて、些(いささ)かの血(ち)を淌(したた)らせ、臉(かお)を搽(ぬ)り紅(あか)くして、何処(いずこ)へと我らを告(うった)えに往(ゆ)くか」 かの妖魔二拳捶(う)ち、一箇の呪語(じゅご)を念(とな)うるや、口の裡(うち)より火(ひ)を噴(ふ)き出(いだ)し、鼻の裡(うち)より濃煙(のうえん)迸(ほとばし)り出(い)で、闸闸眼(またたくま)に火焰(かえん)斉(ひと)しく生(しょう)ず。かの五輛の車子(くるま)の上に、火光(かこう)涌(わ)き出(い)ず。連(つづ)けて幾口(いくくち)か噴(ふ)くに、只だ見る、あの紅焰焰(こうえんえん)たる大火(たいか)空(そら)を焼(や)き、一つの火雲洞(かうんどう)をして、かの煙火(えんか)に迷漫(まんえん)せしめ、真に是れ熯天熾地(かんてんしち=天をあぶり地をこがす)なり。八戒慌(あわ)てて言う、「兄者(あにじゃ)、不停当(いかん)じゃ! この一(ひとた)び火の裡(うち)へ潜(もぐ)り込(こ)めば、活(い)くるを得んと想う莫(な)かれ、老猪(ろうちょ)を弄(つく)りて一箇の焼熟(やきあがり)と做(な)し、香料(こうりょう)を加(くわ)えて、尽(ことごと)く彼に受用(じゅよう=食われ)されてしまうわ! 快(はよ)う走(に)げ! 快う走げ!」 走(に)ぐと声(こえ)するや、彼もまた行者を顧(かえり)みず、澗(たに)を過(わた)りて跑(に)げ去(い)ってしまった。この行者は神通広大(じんずうこうだい)なり、避火訣(ひけのじゅつ)を捏(ひね)り、火の中へ撞(つ)き入(い)り、かの妖怪を尋(たず)ねた。かの妖怪、行者の来(きた)るを見て、また幾口(いくくち)か吐(は)き上(くわ)うるに、かの火(ひ)は前(まえ)よりも更(さら)に勝(まさ)れり。好(よ)き火(ひ)かな:

炎炎烈烈(えんえんれつれつ)として空に盈(み)ちて燎(も)え、赫赫威威(かくかくいしい)として地に遍(あまね)く紅(あか)し。却(かえ)って火輪(かりん)の上下(じょうげ)に飛(と)ぶに似、猶(な)お炭屑(たんせつ)の西東(ざいとう)に舞(ま)うが如(ごと)し。この火は是れ燧人(すいじん)の木に鑽(きり)もし、また是れ老子(ろうし)の丹(たん)を炮(や)くにも非(あら)ず、天火(てんか)に非ず、野火(やか)に非ず、乃(すなわ)ち是れ妖魔の修錬(しゅうれん)して真(しん)と成(な)りし三昧火(さんまいか)なり。五輛の車児(くるま)は五行(ごぎょう)に合(がっ)し、五行生化(せいか)して火の煎(い)り成(な)る。肝木(かんもく)は能(よ)く心火(しんか)を生(しょう)じて旺(さか)んに、心火は脾土(ひど)をして平(たいら)ならしむ。脾土は金(きん)を生じ、金は化(か)して水(みず)と為(な)り、水は能(よ)く木(き)を生じて徹(とお)りて霊(れい)に通(つう)ず。生生化化(せいせいかか)皆(みな)火(ひ)に因(よ)り、火は長空(ちょうくう)に遍(あまね)くして万物(ばんぶつ)栄(さか)ゆ。妖邪(ようじゃ)久しく悟(さと)りて三昧(さんまい)を呼(よ)び、永(とこしな)えに西方(さいほう)第一(だいいち)に鎮(しず)むる名(な)なり。

行者は彼が煙火(えんか)の飛騰(ひとう)するに、怪を尋(たず)ぬる能(あた)わず、彼が洞門の前の路径(みちすじ)を見ること能(あた)わず、身を抽(ひ)いて火の中より跳(と)び出(い)でた。かの妖精は門首(もんしゅ)に在りて、看得明白(ありありとみてとり)、彼は行者の走(に)げ去(い)りたるを見て、却(かえ)って才(はじ)めて火具(かぐ)を収(おさ)め、群妖(ぐんよう)を帥(ひき)いて、洞内(どうない)に転(うつ)り、石門(せきもん)を閉(と)ざし、以(もっ)て勝(か)ち得たりと為(な)し、小(こもの)どもに宴(うたげ)を排(なら)べさせ楽(がく)を奏(そう)させ、歓笑(かんしょう)することはさておく。

さて、行者は枯松澗(こしょうかん)を跳び越え、雲頭(うんず)を按(おさ)え下(くだ)るに、只だ八戒と沙僧の朗朗(ほがらか)と松間(まつあいだ)に在りて講話(はな)しおるを聴(き)いた。行者上前(すす)み出(い)でて八戒を喝(しか)って言う、「この呆子(ばか)め、全(まった)く人气(ひとけ)無し! 汝すなわち妖火(ようか)を懼(おそ)れて、敗走(はいそう)して生(いのち)を逃(のが)れ、却(かえ)って老孫を捨(す)て置(お)き去(ざ)りにしたな。早(はや)くも是れ我に些(いささ)かの南北(なんぼく=分別)有ればこそじゃ!」

八戒笑って言う、「兄者(あにじゃ)よ、汝はあの妖精に说着(いいあて)られておるわ。果(はた)して時務(じむ)に達(さと)らず。古人(いにしえびと)云(いわ)く、時務を識(し)る者を、呼(なづ)けて俊傑(しゅんけつ)と為(な)すと。あの妖精は汝と親(した)しからざるに、汝は強(し)いて親(しんぞく)を認(みと)めんとし;既(すで)に汝と赌闘(けんか)し、あの般(よう)なる無情(むじょう)の火(ひ)を放出(ほうしゅつ)するに、また走(に)げず、還(ま)た彼と恋戦(れんせん=みれんのいくさ)しようとするか!」 行者言う、「あの怪物の手段(てだて)は我に比(くら)べて何如(いかん)?」 八戒言う、「不済(だめ)じゃ」 「槍法は我に比べて何如?」 八戒言う、「また不済じゃ。老猪(ろうちょ)は彼が撑持(ふんば)りきれずにおるを見て、却(かえ)って来たりて汝を一鈀(ひとは)助(たす)けんとしたるに、期(おも)わずや彼は耍(たわむれ)を識(し)らず、すなわち陣を敗れて下(お)り来(きた)り、天理(てんり)も無く、すなわち火(ひ)を放(はな)ったわ」 行者言う、「是(まさ)に汝の来(きた)るべきに非(あら)ざりしなり。我また彼と幾合(いくがっ)か闘(たたか)い、我は巧(こう)を取りて彼を一棒(ひとぼう)撈(から)め獲(と)らんとせしに、却(かえ)って是れ好(よ)からずや?」

彼の二人(ふたり)は只管(ひたすら)あの妖精の手段(てだて)を論(あげつら)い、あの妖精の火毒(かどく)を講(はな)すに、沙和尚(さおしょう)は松の根(ね)に倚(よ)りて笑うこと呆(ばか)れるが如(ごと)し。行者看(み)て言う、「兄弟よ、汝は笑うこと怎(どう)した? 汝好(よ)くも道(い)う、甚(なん)の手段有りてか、かの妖魔を擒(とら)え、かの火陣(かじん)を破(やぶ)り得るか? この樁(こと)は、また大家(みんな)に益(えき)有るの事(こと)ぞ。常言(ことわざ)に道(い)う、衆毛(しゅうもう)毬(まり)を集(あつ)む、と。汝若(も)し妖魔を拿(とら)え、師父を救(すく)わば、また是れ汝が一件(ひとくだり)の大功績(だいこうせき)ぞ」 沙僧言う、「我もまた甚(なん)の手段も無く、また妖を降(くだ)す能(あた)わず。我は汝ら二人(ふたり)の都(みな)忙(あわて)に着(おちい)っておるを笑うのじゃ」 行者言う、「我怎(どう)して忙(あわて)に着ったか?」 沙僧言う、「あの妖精の手段は汝に如(し)かず、槍法も汝に如かず、只だ些(いささ)かの火勢(かせい)を多(おお)くせるのみ、故(ゆえ)に勝(か)つを得(え)ざるなり。若(も)し小弟(われ)が説(い)うに依(よ)らば、相生相克(そうせいそうこく)を以(もっ)て彼を拿(とら)えんに、何(なん)の難(かた)き処(ところ)有らんや?」 行者この言(ことば)を聞き、呵呵(からから)と笑って言う、「兄弟の説(いう)ところ、理(ことわり)有り。果(はた)して我らは忙(あわて)に着ってこの事を忘れておった。若し相生相克(そうしょうそうこく)の理を以てこれを論(あげつら)わば、須(すべから)く是れ水を以て火を克(かつ)べし。却(かえ)って何処(いずこ)へ往(ゆ)きて些(いささ)かの水を尋(たず)ね来たり、この妖火(ようか)を潑(そそ)ぎ滅(ほろぼ)さば、師父を救うに可(よ)からずや?」 沙僧言う、「是(まさ)にこの般(よう)なり、遅疑(ちぎ=ためらい)するに及(およ)ばず」 行者言う、「汝ら二人(ふたり)は只だ此間(ここ)に在りて、彼と索戦(いくさをもと)むるなかれ。老孫の東洋大海(とうようたいかい)へ往(ゆ)きて龍兵(りゅうへい)を求(もと)め借(か)り、些(いささ)かの水を将(も)ち来たり、妖火(ようか)を潑(そそ)ぎ息(け)し、この潑怪(はっかい)を捉(とら)えんを待(ま)て」 八戒言う、「兄者(あにじゃ)、心安(やすん)じて前(まえ)へ往(ゆ)かれよ。我ら理会得(わきまえ)ておる」

好(よ)き大聖かな、雲を縦(はな)ちて此の地(ところ)を離(はな)れ、頃刻(しばらく)にして東洋(とうよう)に到(いた)ったが、却(かえ)ってまた心(こころ)に海景(かいけい)を看玩(みあそ)ぶ無く、一箇の逼水法(ひっすいほう)を使(つか)い、波浪(はろう)を分(わ)かち開(ひら)いた。正(まさ)に行(ゆ)く時、一箇の巡海夜叉(じゅんかいやしゃ)の相撞(であ)うに遭(あ)い、孫大聖なるを見るや、急ぎ水晶宮(すいしょうきゅう)の裡(うち)に回(かえ)り、かの老龍王(ろうりゅうおう)に報じ知らせた。敖広(ごうこう)すなわち龍子(りゅうし)・龍孫(りゅうそん)・蝦兵(かへい)・蟹卒(かいそつ)を率(ひき)いて一斉に門を出(い)でて迎接(むか)え、請(しょう)じて裡(うち)に坐(ざ)せしめた。坐定(ざ)し、礼(れい)畢(おわ)りて茶(ちゃ)を告(すす)むるに、行者言う:

「茶には労(ろう)せず、一事(ひとこと)有りて相煩(わずら)わす。我、師父唐僧の西天(さいてん)に往(ゆ)きて仏(ほとけ)を拝(はい)し経(きょう)を取(と)らんが為、号山枯松澗火雲洞(ごうざんこしょうかんかうんどう)を過(よぎ)るに、一箇の紅孩児(こうがいじ)の妖精有り、聖嬰大王(せいえいだいおう)と号(ごう)し、我が師父を拿(とら)え去(さ)ったり。是(ここ)に老孫、洞辺(どうへん)に尋(たず)ね到(いた)り、彼と交戦(こうせん)せしに、彼は却(かえ)って火(ひ)を放(はな)ち出(いだ)せり。我らは彼を禁(こら)え得(え)ず、水(みず)の能(よ)く火を克(か)つを想(おも)い、特(ことさ)らに来たりて汝に問うて些(いささ)かの水を求(もと)め、往(ゆ)きて我が為に一場(ひとしきり)の大雨(たいう)を下(くだ)し、妖火(ようか)を潑(そそ)ぎ滅(ほろぼ)し、唐僧の一難(いちなん)を救(すく)わんとす」 かの龍王言う、「大聖、差(あやま)てり。若し雨水(うすい)を求(もと)め取(と)らんと欲せば、我に来たりて問うべきに非(あら)ず」 行者言う、「汝は是れ四海龍王(しかいりゅうおう)、雨沢(うたく)を主司(しゅし)す。汝に来たり問わずして、却(かえ)って誰(たれ)に去(ゆ)きて問わんや?」 龍王言う、「我は雨を司(つかさど)ると雖(いえど)も、敢(あえ)て擅(ほしいまま)に専(せん)にせず。須(すべから)く玉帝(ぎょくてい)の旨意(しい)を得て、何(いず)れの地方(ところ)に吩咐(いいつ)け、幾尺幾寸(なんしゃくなんすん)、甚麼の時辰(とき)に起(お)こり住(や)むかを定め、還(ま)た三官(さんかん)の筆を挙(あ)げ、太乙(たいいつ)の文(ふみ)を移(うつ)し、雷公電母(らいこうでんぼ)・風伯雲童(ふうはくうんどう)を会令(えいれい)することを要(よう)す。俗語(ぞくご)に云う、龍は雲無くして行(ゆ)かず、と」

行者言う、「我はまた風雲雷電(ふううんらいでん)を用(もち)いず、只だ些(いささ)かの雨水の火を滅(け)さんを要(よう)すのみ」 龍王言う:

「大聖は風雲雷電を用いられずとも、但(ただ)我一人(ひとり)のみにてはまた助力(じょりき)する能(あた)わず。舎弟(しゃてい=おとうと)どもをして大聖と同(とも)に一功(いっこう)を助(たす)けしめんことは何如(いかん)?」 行者言う、「令弟(りょうてい=おとうと)は何処(いずこ)に在るか?」 龍王言う、「南海龍王敖欽(ごうきん)、北海龍王敖閏(ごうじゅん)、西海龍王敖順(ごうじゅん)にございます」 行者笑って言う、「我若(も)しまた三海(さんかい)を遊(めぐ)り過(よぎ)らば、上界(じょうかい)へ往(ゆ)きて玉帝の旨意(しい)を求(もと)めんに如(し)かず」 龍王言う、「大聖の去(ゆ)かるるを消(よう)せず、只だ我が此処(ここ)に在りて鉄鼓金鐘(てっこきんしょう)を撞(つ)き動(うご)かせば、彼ら自(おのずか)ら頃刻(しばらく)にして至(いた)らん」 行者その言(ことば)を聞いて言う、「老龍王よ、快(はよ)う鐘鼓(しょうこ)を撞(つ)け」

須臾(しばらく)の間(あいだ)に、三海龍王(さんかいりゅうおう)擁(おしよ)せ至(いた)り、問うた、「大哥(あにき)、何の事(こと)有りてか弟等(ていら)に命(めい)ぜらるるか?」 敖広言う、「孫大聖が此処に在りて雨を借(か)りて妖を降(くだ)さんことを助力(たす)けられんことを求(もと)めておられる」 三弟(さんてい)すなわち引き進(すす)みて見(まみ)えること畢(おわ)り、行者は水を借(か)るの事(こと)を備(つぶさ)に言(い)うに、衆神(しゅうしん)箇箇(おのおの)歓(よろこ)んで従(したが)い、すなわち点(てん)じ起(おこ)した:

鯊魚(さめ)は驍勇(ぎょうゆう)として前部(ぜんぶ)と為(な)り、鱯痴(ぎぎ)は口(くち)大(おお)きくして先鋒(せんぽう)と作(な)る。鯉元帥(りげんすい)は波(なみ)を翻(ひるがえ)し浪(なみ)を跳(おど)り、鯾提督(べんていとく)は霧(きり)を吐(は)き風(かぜ)を噴(ふ)く。鯖太尉(さばたいい)は東方(とうほう)に打哨(みは)り、鮊都司(はくとし)は西路(せいろ)に催征(せいちょう=せきたて)す。紅眼馬郎(こうがんばろう)は南面(なんめん)に舞(ま)い、黒甲将軍(こっこうしょうぐん)は北下(ほくか)に衝(つ)く。鱑把総(こうはそう)は中軍(ちゅうぐん)に号(ほら)を掌(つかさど)り、五方(ごほう)の兵(へい)は処々(ところどころ)に英雄(えいゆう)なり。縦横(じゅうおう)機巧(きこう)なるは鼈枢密(べっすうみつ)、妙算(みょうさん)玄微(げんび)なるは亀相分(きしょうぶん)。謀(はかりごと)有り智(ち)有るは鼉丞相(だじょうしょう)、多変(たへん)多能(たのう)なるは鼈総戎(べっそうじゅう)。横行(おうこう)する蟹士(かいし)は長剣(ちょうけん)を輪(めぐ)らし、直跳(ちょくちょう)する蝦婆(かば)は硬弓(こうきゅう)を扯(ひ)く。鮎外郎(ねんがいろう)は文簿(ぶんぼ)を査明(あきら)かにし、龍兵(りゅうへい)を点(てん)じて波中(はちゅう)を出(い)で離(はな)る。

詩に曰(いわ)く:四海龍王(しかいりゅうおう)、功(こう)を助(たす)くるを喜(よろこ)び、斉天大聖(せいてんたいせい)、相従(あいしたが)わんことを請(こ)う。只だ三蔵の途中の難(なん)に因(よ)りて、水を借(か)りて前(まえ)に来(きた)りて火紅(かこう)を滅(け)す。

かの行者、龍兵(りゅうへい)を領(ひき)いて、多(おお)からず時(とき)ならずして早(はや)くも号山枯松澗(ごうざんこしょうかん)の上に到(いた)った。行者言う、「敖氏昆玉(ごうしこんぎょく=敖兄弟)、遠(とお)くを渉(わた)らるるを煩(わずら)わす。此間(ここ)は乃ち妖魔の処(ところ)なれば、汝ら且(しばら)く空中に停(とど)まり、頭(こうべ)を出(いだ)し面(おもて)を露(あらわ)すなかれ。老孫をして彼と赌闘(けんか)せしめよ。若し彼に贏(か)たば、列位(みなさま)の捉拿(とらえ)を須(もち)いず;若し彼に輸(ま)けたるも、また列位の助陣(じじん)を用(もち)いず。只だ彼が但(たん)に火を放(はな)つ時、我が呼喚(よびかけ)を聴(き)きて、一斉(いっせい)に雨(あめ)を噴(ふ)かれよ」 龍王は倶(みな)号令(ごうれい)の如(ごと)し。

行者は却(かえ)って雲頭(うんず)を按(おさ)え、松林(しょうりん)の裡(うち)に入(い)りて八戒・沙僧に見(まみ)え、声を叫(あ)げて「兄弟」と言う。

八戒言う、「兄者(あにじゃ)、来(く)ること快(はや)いなあ! 曾(かつ)て龍王を請(しょう)じ得(え)て来(きた)られしか?」 行者言う、「倶(みな)来(きた)れり。

汝ら二人(ふたり)は切(かなら)ず須(すべから)く仔細(つまびらか)にせよ。只(た)だ雨大(おお)きくして、行李(こうり)を湿(ぬら)さんことを怕(おそ)る。老孫の彼と打(う)ちに往(ゆ)くを待(ま)て」

沙僧言う、「師兄(あにじゃ)、心安(やすん)じて前(まえ)へ往(ゆ)かれよ。我らは倶(みな)理会得(わきまえ)ておる」 行者は澗(たに)を跳(と)び過(よぎ)り、門首(もんしゅ)に到(いた)り、声を叫(あ)げて「開門(もんをあけよ)!」と言う。かの小妖どもまた去(ゆ)きて報じた、「孫行者が又(ま)た来(まい)りました」 紅孩(こうがい)は面(かお)を仰(あお)げて笑って言う、「あの猴子(さる)め、想うに火の中にて曾(かつ)て彼を焼(や)かざりしかば、此(ここ)を以て又(ま)た来(きた)れるか。この一(ひとた)び来(きた)るに、切(かなら)ず彼を饒(ゆる)すなかれ。断然(きっと)皮(かわ)を焦(こ)がし肉(にく)を爛(ただ)らしてこそ罷(や)まん!」 急ぎ身を縦(はな)ち、長槍(ちょうそう)を挺(つ)け、教えた、「小者(こもの)ども、火車子(ひぐるま)を推(お)し出だせ!」 彼、門前へと出(い)でて行者に向(むか)いて言う、「汝又(ま)た来(きた)るは怎(なん)とした?」 行者言う、「我が師父を還(かえ)せ」 かの怪言う、「この猴頭(こうとう)め、忒(い)たく不通変(へんがきかぬ)なり。あの唐僧は汝と為(な)りて師父と做(な)り得(う)るも、また我と為りて按酒(さかな)と做(な)り得るに、汝は還(ま)た彼を思量(おもいや)りて要(もと)めんとするか。莫想(おもうな)、莫想!」

行者、この言(ことば)を聞き、十分(じゅうぶん)に悩怒(いかり)し、金箍棒(きんこぼう)を掣(ひっさ)げて劈頭(てっぽう)より就(すなわ)ち打(う)つ。かの妖精、火尖槍(かせんそう)を使(つか)い、急ぎ架(かま)えて相迎(むか)う。この一場(ひとしきり)の赌闘(けんか)は、前(まえ)に比(くら)べて同じからず。好(よ)き殺(あらそ)いかな:怒(いかり)は潑妖魔(はつようま)に発(おこ)り、悩(いかり)は猴王(こうおう)の将(つわもの)に急(きわ)まる。この一箇(かた)は専(もっぱ)ら取経僧(しゅきょうそう)を救(すく)わんとし、かの一箇は唐三藏(とうさんぞう)を食(くら)わんと要(ほっ)す。心(こころ)変(かわ)りて親情(しんじょう)無く、情(なさけ)疏(うと)くして義譲(ぎじょう)無し。この者(もの)は恨(うら)んで捉(とら)え住(とど)めて活(い)きながら皮(かわ)を剥(は)がんと欲し、かの者は拿(とら)え来(きた)りて生(なま)のまま醤(ひしお)に蘸(つ)けんと欲す。真に忒(い)たく英雄(えいゆう)、果(はた)して多(おお)く猛壮(もうそう)なり。棒(ぼう)来(きた)りて槍(やり)架(か)けて輸贏(ゆうえい)を赌(か)け、槍(やり)去(さ)りて棒(ぼう)迎(むか)えて下上(かみしも)を争(あらそ)う。手(て)を挙(あ)げて相(あい)輪(めぐ)らすこと二十回(にじゅっかい)、両家(りょうけ)の本事(ほんざい)は一般(おなじ)き様(よう)なり。

かの妖王、行者と戦うこと二十回合(にじゅうがっごう)を経(へ)て、勝(か)つを得(え)ざるを見(み)て取り、虚(うつ)ろに一槍(ひとほこ)を幌(ひるがえ)し、怎(どう)してか身を抽(ひ)き、拳(こぶし)を捏(ひね)り、又(ま)た鼻(はな)を将(も)って両下(ふたたび)捶(う)つや、却(かえ)ってすなわち火(ひ)を噴(ふ)き出(いだ)した。かの門前(もんぜん)の車子(くるま)の上に、煙火(えんか)迸(ほとばし)り起(おこ)り;口眼(こうがん)の中に、赤焰(せきえん)飛(と)び騰(のぼ)る。孫大聖は頭(こうべ)を回(めぐ)らして叫んだ、「龍王何処(いずこ)に在(おわ)すか?」 かの龍王兄弟(きょうだい)、衆(すべ)ての水族(すいぞく)を帥(ひき)いて、妖精の火光(かこう)の裡(うち)を望(めが)けて雨(あめ)を噴(ふ)き下(くだ)した。好(よ)き雨(あめ)かな! 真に是れ:

瀟瀟洒灑(しょうしょうしゃしゃ)として、密密沈沈(みつみつちんちん)たり。瀟瀟洒灑たるは、天辺(てんぺん)より星辰(せいしん)の墜落(ついらく)するが如(ごと)く;密密沈沈たるは、海口(かいこう)の浪(なみ)を倒(さかさま)に懸(か)けて滚(まろ)ぶに似(に)たり。初(はじ)めの時(とき)は拳(こぶし)の大小(おおきさ)なるが如(ごと)く、次(つい)で後(のち)には瓮(ほとぎ)を潑(そそ)ぎ盆(ぼん)を傾(かたむ)く。満地(まんち)に澆(そそ)ぎ流(なが)れて鴨頂緑(おうていりょく=鴨の頭の緑)をなし、高山(こうざん)は洗(あら)い出(いだ)して仏頭青(ぶっとうせい=仏の頭の青)を成(な)す。溝壑(こうがく)には水(みず)飛(と)んで千丈(せんじょう)の玉(ぎょく)をなし、澗泉(かんせん)の波(なみ)は漲(みなぎ)りて万条(ばんじょう)の銀(ぎん)をなす。三叉路(さんさろ)の口(くち)は見る見る満(み)ち、九曲溪(きゅうきょくけい)の中(うち)は漸(ようや)く平(たいら)かなり。これを是れ、唐僧に難(なん)有りて神龍(しんりゅう)助(たす)け、天河(てんが)を扳(たぐ)り倒(たお)して下(した)へ傾(かたむ)く、という。

かの雨(あめ)は淙淙(そうそう)として大小(おおいちいさ)あれども、かの妖精の火勢(かせい)を止息(とど)むる能(あた)わず。原来(もと)より龍王の私雨(しう=私の雨)は、只だ凡火(ぼんか=ただの火)を潑(そそ)ぎ得(う)るのみ、妖精の三昧真火(さんまいしんか)を、怎(どう)して潑(そそ)ぎ得(え)んや? 好(よ)き一(ひと)つの、火(ひ)の上(うえ)に油(あぶら)を澆(そそ)ぐが如(ごと)く、潑(そそ)ぐほどに越(いよいよ)灼(や)く。大聖言う、「我が訣(じゅつ)を捻(ひね)りて、火の中へ潜(もぐ)り入(い)らんことを待(ま)て!」 鉄棒(てつぼう)を輪(めぐ)らし、妖を尋(たず)ねて打(う)たんとす。かの妖、彼の来(きた)るを見て、一口(ひとくち)の煙(けむり)を将(も)って、臉(かお)を劈(つんざ)いて噴(ふ)き来(きた)らせた。行者は急ぎ頭(こうべ)を回(めぐ)らすに、煼(いぶ)されて眼花雀乱(めがくらみ)し、忍(しの)び得(あた)ず泪(なみだ)の雨(あめ)の如(ごと)く落(お)つるを。原来(もと)この大聖は火(ひ)を怕(おそ)れず、只だ煙(けむり)を怕(おそ)る。当年(むかし)天宮(てんぐう)を大闹(おおさわ)がせし時(とき)に因(よ)りて、老君(ろうくん)に八卦炉(はっけろ)の中に放(お)かれ、鍛(きた)えられしこと一番(ひとたび)あり、彼は幸(さいわ)いにかの巽位(そんい)に身(み)を安(やす)んじ、曾(かつ)て焼(や)き壊(こわ)されざりしが、只だ風(かぜ)の煙(けむり)を攪(かき)まぜて来(きた)らしめ、彼を煼(いぶ)して火眼金睛(かがんきんせい)と做(な)したれば、故(ゆえ)に今(いま)に至(いた)るまで只だ煙(けむり)を怕(おそ)るるなり。かの妖また一口(ひとくち)噴(ふ)くに、行者は当(た)え得(え)ず、雲頭(うんず)を縦(はな)ちて走(に)げ去(い)った。かの妖王は却(かえ)って又(ま)た火具(かぐ)を収(おさ)め、洞府(どうふ)に回帰(かえ)った。

この大聖、一身(みひとつ)に煙火(えんか)を帯(お)び、炮燥(ほうそう=かわきあつみ)禁(きん)じ難(がた)く、径(ただ)ちに澗水(かんすい)の内(うち)に投(とう)じて火(ひ)を救(すく)わんとす。怎(どう)して知(し)らん、冷水(れいすい)に一逼(せま)られ、弄(なさ)れて火気(かき)心(こころ)を攻(せ)め、三魂(さんこん)舎(やどり)を出(い)で、怜(あわ)れむべし、気(き)は胸膛(きょうどう)に塞(ふさが)り喉舌(こうぜつ)冷(つめた)く、魂(たましい)飛(と)び魄(たま)散(ち)じて残生(ざんせい)を喪(うしな)う! 慌(あわ)てたるかな、かの四海龍王(しかいりゅうおう)は半空(はんくう)の裡(うち)に在りて、雨沢(うたく)を収(おさ)め、高声(たかだか)と大叫(さけ)んだ、「天蓬元帥(てんぽうげんすい)! 巻帘将軍(けんれんしょうぐん)! 林中(りんちゅう)に蔵(かく)れ隠(かく)るるを休(や)め、且(しばら)く汝が師兄(あにでし)を尋(たず)ね出(いだ)せ!」

八戒と沙僧、彼が聖号(せいごう)を呼(よ)ぶを聴(き)き、急ぎ馬(うま)を解(と)き、担(に)を挑(にな)うて林(はやし)を奔(はし)り出(い)で、また泥濘(ぬかるみ)を顧(かえり)みず、澗辺(かんぺん)に順(したが)いて尋(たず)ね求(もと)むるに、只だ見る、かの上溜頭(かみのながれ)に、波(なみ)を翻(ひるがえ)し浪(なみ)を滚(まろ)ばしめ、急流(きゅうりゅう)の中(うち)より一人(ひとり)の者(もの)を淌(なが)し下(くだ)して来(きた)る。沙僧これを見て、衣(ころも)を着(つ)けたるまま水の中(うち)へ跳(と)び下(お)り、抱(かか)え上(あ)げて岸(きし)に来(きた)るに、却(かえ)って是れ孫大聖の身躯(しんく)なり。噫(ああ)! 汝(なんじ)看よ、彼は四肢(しし)を踡跼(かがま)せて伸(の)ぶるを得(え)ず、渾身上下(みのうえみのした)冷(つめた)きこと氷(こおり)の如(ごと)し。沙和尚は満眼(まなこいっぱい)に泪(なみだ)を垂(た)れて言う、「師兄(あにじゃ)! 惜(お)しむらくは汝、億万年(おくまんねん)不老長生(ふろうちょうせい)の客(まろうど)なるに、如今(いま)は化(け)して箇(ひとつ)の中途(ちゅうと)の短命人(たんめいじん)と作(な)れるか!」 八戒笑って言う、「兄弟よ、泣(な)くな。この猴子(さる)めは佯(いつわ)りて死(し)を推(すす)め、我らを嚇(おど)しておるのじゃ。汝、彼を摸(さわ)ってみよ。胸前(むなさき)に還(ま)た一点(ひとつ)の熱気(ねっき)有(あ)るか無(な)きかを」 沙僧言う、「渾身(みうち)都(みな)冷(ひ)えておる。仮令(たと)い一点の熱気有るとも、怎(どう)してすなわち是れ回生(かいせい=よみがえり)ならんや?」 八戒言う、「彼には七十二般(ななじゅうにへん)の変化(へんげ)有れば、すなわち七十二(ななじゅうに)の性命(いのち)有るのじゃ。汝は脚(あし)を扯(ひ)いておれ、我が彼を擺布(とりあつか)うを待(ま)て」 真にかの沙僧は脚(あし)を扯(ひ)き、八戒は頭(こうべ)を扶(たす)け、彼を引(ひ)いて箇の直(すなお)と為(な)し、脚(あし)を推(お)し上(あ)げ来(きた)り、盤膝(ざしき)して坐(ざ)し定(さだ)めた。八戒は両の手(て)を搓(も)み熱(あつ)くし、彼が七竅(しちきょう=目耳鼻口)を捂(おお)い住(と)め、一箇の按摩禅法(あんませんぽう)を使(つか)うた。原来(もと)かの行者是れ冷水(れいすい)に逼(せま)られて、気(き)は丹田(たんでん)に阻(さえぎ)られ、声(こえ)を出(いだ)す能(あた)わざりしが、却(かえ)って幸(さいわ)いに八戒の按摸揉擦(あんまじゅうさつ)を得(え)て、須臾(しばらく)の間(あいだ)に、気(き)は三関(さんかん)を透(とお)り、明堂(めいどう)を転(てん)じ、孔竅(こうきょう)を衝(つ)き開(ひら)き、一声(ひとこえ)を叫(さけ)んだ、「師父(しふ)よ!」 沙僧言う、「兄者(あにじゃ)よ、汝は生(い)くるも師父の為、死(し)するも還(ま)た口の裡(うち)に在(あ)るか。且(しばら)く蘇生(よみがえ)れ、我ら此処(ここ)に在(あ)るぞ」 行者は眼(め)を開(ひら)いて言う、「兄弟たちが此処に在(お)るか? 老孫は虧(そこない)を食(く)うたわ!」 八戒笑って言う、「汝は才(さっき)まで発昏(きぜつ)しておった。若し老猪(ろうちょ)が汝を救(すく)わざりせば、已(すで)に此(ここ)に帳(けり)がついておるわ。還(ま)た我に謝(あやま)らぬか!」 行者は却(かえ)って才(はじ)めて身(み)を起(おこ)し、面(かお)を仰(あお)げて言う、「敖氏弟兄(ごうしていけい)何処(いずこ)に在(おわ)すか?」 かの四海龍王は半空(はんくう)の中(うち)に在りて応(こた)えて言う、「小龍(しょうりゅう)此処(ここ)に伺候(しかい)しておる」 行者言う、「遠(とお)く労(ろう)させたり。曾(かつ)て功果(こうか)を成(な)し得(え)ず、且(しばら)く請(こ)う、回(かえ)られよ。改(あらた)めて日(ひ)を期(き)して再(ふたた)び謝(しゃ)せん」 龍王は水族(すいぞく)を帥(ひき)いて、泱泱(おうおう)として回(かえ)る。さておく。

沙僧は行者を攙(たす)け、一同に松林(しょうりん)の下(した)に到(いた)りて坐(ざ)し定(さだ)めた。少時(しばらく)あって、却(かえ)って神(しん)を定(さだ)め気(き)を順(したが)わしむるに、止(とど)め得(あた)ず泪(なみだ)の腮辺(ほおべ)に滴(したた)るを、また叫(さけ)んだ、「師父(しふ)よ! 憶(おも)う、昔(むかし)当年(そのかみ)大唐(だいとう)を出(い)でしを、岩前(いわまえ)に我を救(すく)うて災殃(さいよう)を脱(のが)れしめたり。三山六水(さんざんりくすい)に魔障(ましょう)に遭(あ)い、万苦千辛(ばんくせんしん)に寸腸(すんちょう)を割(さ)く。鉢(はつ)を托(たく)して朝餐(ちょうさん)は厚薄(こうはく)に随(したが)い、禅(ぜん)に参(さん)じて暮宿(ぼしゅく)は或(あるい)は林(はやし)或(あるい)は荘(しょう)なり。一心(いっしん)に成功果(せいこうか)を指望(きぼう)せしに、今日(こんにち)安(いず)くんぞ痛(いた)く傷(きず)つけられんとは知(し)らんや!」 沙僧言う、「兄者(あにじゃ)、且(しばら)く煩悩(なやみ)を休(や)めよ。我ら早(はよ)う計策(けいさく)を安(やす)んじ、何処(いずこ)へ往(ゆ)きて兵(へい)を請(こ)うて助力(じょりき)を得、師父を搭救(たす)け出(いだ)さんか?」 行者言う、「何処(いずこ)に請(こ)うて救(すく)いを求(もと)めんか?」 沙僧言う、「当初(かのかみ)菩薩(ぼさつ)の吩咐(いいつけ)に、我らをして唐僧を保護(まも)らしめ、彼は曾(かつ)て我らに許(ゆる)して、天(てん)を呼(よ)べば天応(こた)え、地(ち)を呼べば地応(こた)える、と仰(おお)せられた。何処へ請(こ)うて救(すく)いを求めに往(ゆ)かんか?」 行者言う、「想(おも)うに老孫の天宮(てんぐう)を大闹(おおさわ)がせし時(とき)、あの神兵(しんぺい)どもは、都(みな)我を禁(こら)え得(え)ざりしなり。この妖精の神通(じんずう)小(ちいさ)からず、須(すべから)く是れ老孫が手段(てだて)よりも些(いささ)か大(おお)いなる者(もの)にして、才(はじ)めて彼を降(くだ)し得(う)るであろう。天神(てんしん)は不済(だめ)、地煞(ちさつ)も能(あた)わず。若(も)しこの妖魔を拿(とら)えんと要(ほっ)せば、須(すべから)く是れ観音菩薩(かんのんぼさつ)を請(しょう)じに往(ゆ)くこそ好(よ)けれ。奈何(いかん)せん、我は皮肉(ひにく)酸麻(さんま=しびれ)し、腰膝(ようしつ)疼痛(とうつう)して、筋斗雲(きんとうん)を駕(が)することが起(お)きず、怎(どう)して請(しょう)じ得(え)んか?」 八戒言う、「甚(なん)の話(ことば)をか吩咐(いいつけ)ある。我をして往(ゆ)かしめよ」 行者笑って言う、「也(また)罷(よ)からん。汝は是(まさ)に去(ゆ)き得(う)るなり。若(も)し菩薩に見(まみ)えなば、切(かなら)ず仰視(あおぎみ)るを休(や)め、只だ頭(こうべ)を低(た)れて礼拝(らいはい)せよ。彼が問(と)う時(とき)を待(ま)ちて、汝すなわち地名(ちめい)・妖名(ようめい)を彼に説(つ)げ、また師父の事(こと)を請(うかが)い教(おし)えよ。彼若(も)し肯(あえ)て来(きた)らば、定(きっ)と怪物を擒(とら)え取(と)られん」 八戒この言(ことば)を聞き、すなわち便(すなわ)ち雲霧(うんむ)を駕(が)し、南(みなみ)へ向(むか)いて去(い)った。

さて、かの妖王は洞(どう)の裡(うち)に在りて歓喜(かんき)して言う、「小者(こもの)ども、孫行者は虧(そこない)を食(く)うて去(い)ったり。この一陣(ひといくさ)は彼を死(し)に致(いた)さずといえども、好(よ)くも道(い)うに大昏(おおきにきぜつ)は発(おこ)したであろう。咦(おや)、只(た)だ怕(おそ)るるは彼が又(ま)た救兵(きゅうへい)を請(こ)いに来(きた)らんことを。快(はよ)う門(もん)を開(ひら)け、我をして往(ゆ)きて彼が誰(たれ)を請(こ)うかを見(み)しめよ」 衆妖(しゅうよう)門を開(ひら)くや、妖精はすなわち空裡(そらのうち)へ跳(と)び上(あが)りて観看(みわた)すに、只だ八戒の南(みなみ)へ往(ゆ)くを見(み)た。妖精は想(おも)う、南辺(なんぺん)にまた他(た)の処(ところ)無し、断然(きっと)是れ観音菩薩を請(こ)うに違(ちがい)ない、と。急ぎ雲(くも)を按(おさ)え下(おろ)し、叫(さけ)んだ、「小者ども、我がかの皮袋(かわぶくろ)を尋(たず)ね出(いだ)せ。多時(ひさし)く用(もち)いざれば、只(た)だ恐(おそ)るるは口縄(くちなわ)の牢(かた)からざることを。我が為に一条(ひとすじ)を換(か)え上(あ)げよ。二門(にこう)の下(した)に放(お)け。我が往(ゆ)きて八戒を賺(だま)し将(つ)れ回(かえ)り、袋(ふくろ)の内(うち)に装(い)れ、蒸(ふか)して稀爛(くたくた)にし、汝らに犒労(ねぎら)いせしめん」 原来(もと)かの妖精には一箇の如意(にょい)の皮袋(かわぶくろ)有り。衆(すべ)ての小妖、拿(と)り出(いだ)して、口縄(くちなわ)を換(か)え、洞門(どうもん)の内(うち)に安(やす)んずることはさておく。

さて、かの妖王は久(ひさ)しく此処(ここ)に居(お)り、倶(みな)是れ熟游(なれみち)の地(ところ)なれば、彼は暁(さと)れり、何(いず)れの路(みち)の南海(なんかい)へ往(ゆ)くが近(ちか)く、何れの路が遠(とお)きかを。彼はかの近路(ちかみち)より、一(ひと)たび雲頭(うんず)を駕(が)すれば、八戒を趕(お)い過(よぎ)り、端然(たたず)と壁岩(へきがん)の上に坐(ざ)し、一箇の「仮(にせ)の観世音(かんぜおん)」の姿(すがた)に変化(へんげ)し、八戒を等候(まちう)けた。かの呆子(ばか)め、正(まさ)に雲を縦(はな)ちて行(ゆ)く処(ところ)、忽然(たちまち)に菩薩を望(みか)け見(み)る。彼が那里(どう)してか真偽(しんぎ)を識(し)り得(え)ん? これを是れ「象(かたち)を見て仏(ほとけ)と作(な)す」という。呆子は雲を停(と)めて下拝(はい)して言う、「菩薩、弟子(でし)猪悟能(ちょごのう)、叩頭(ぬかず)きまする」 妖精言う、「汝は唐僧を保(まも)りて経(きょう)を取りに往(ゆ)かずして、却(かえ)って我に見(まみ)えて何事(なんごと)の干(かかわり)有るか?」 八戒言う、「弟子(でし)は師父と与(とも)に中途(なかみち)に至(いた)り、号山枯松澗火雲洞(ごうざんこしょうかんかうんどう)に遇(あ)い、一箇の紅孩児(こうがいじ)の妖精有り、彼が我が師父を摂(さら)い去(さ)りました。是(ここ)において弟子と師兄(あにでし)等(たち)、彼が門(もん)の上(ほとり)へ尋(たず)ね上(のぼ)り、彼と交戦(こうせん)いたしました。彼は原来(もと)火(ひ)を放(はな)つことを会(え)し、頭(はじめ)の一陣(ひといくさ)には、曾(かつ)て贏(か)つを得(え)ず;第二陣(だいにじん)には、龍王を請(こ)うて雨(あめ)を助(たす)けしめたるも、また火を滅(け)すこと能(あた)わず。

師兄は彼に焼(や)き壊(こわ)され、行動(うごく)すること能(あた)わず、弟子をして来(きた)りて菩薩を請(しょう)ぜしめ、万望(ねがわく)は垂慈(すいじ=めぐみをたれさせたま)い、我が師父の一難(いちなん)を救(すく)われんことを!」 妖精言う、「かの火雲洞(かうんどう)の洞主(どうしゅ)は、是れ箇(ひとり)の生(いのち)を傷(そこな)う者(もの)に非(あら)ず。定(きっ)と是れ汝らが彼を冲撞(ぶつか)りしなるべし」 八戒言う、「我は曾(かつ)て彼を冲撞(ぶつか)らず。是れ師兄悟空(ごくう)が彼を冲撞ったのじゃ。彼は一箇の小孩子(こども)に変作(へんし)し、樹(き)の上に吊(つる)され、我が師父を試(こころ)みたり。師父は甚(はなは)だ善心(ぜんしん)有り、我をして解(と)き下(おろ)さしめ、師兄をして彼を一程(ひとほど)駄(おぶ)わしめたり。是(ここ)に師兄が彼を一掼(ひとたびなげう)ちせしに、彼はすなわち風(かぜ)を弄(ろう)して、師父を摂(さら)い去(さ)ったのじゃ」 妖精言う、「汝、起(た)て。我に従(したが)いてかの洞(どう)の裡(うち)に入(い)りて洞主(どうしゅ)に見(まみ)え、汝が為に人情(なさけ)を説(と)き、汝が一箇の礼(あやまり)を陪(ともな)い、汝が師父を討(もと)め出(いだ)して罷(や)めよ」 八戒言う、「菩薩よ、若(も)し肯(あえ)て我が師父を還(かえ)されなば、すなわち彼に一箇の頭(こうべ)を磕(ぬか)ずくもまた罷(よ)からん」 妖王言う、「汝、跟(つ)いて来(こ)よ」

かの呆子は好歹(よしあし)を知(し)らず、すなわち彼に跟(したが)いて、径(ただ)ちに旧路(もとのみち)を回(かえ)るに、却(かえ)って南洋海(なんようかい)へは往(ゆ)かず、火雲門(かうんもん)に随(したが)い赴(おもむ)き、頃刻(しばらく)の間(あいだ)に、門首(もんしゅ)に到(いた)り着(つ)いた。妖精は中(なか)へ入(い)りて言う、「汝、疑忌(うたがい)を休(や)めよ。彼は是れ我が故人(こじん=旧知)なり。汝、入(はい)りて来(こ)よ」 呆子は只(ただ)得(え)ず、挙歩(あゆみ)を挙(あ)げて門(もん)を入(い)る。衆妖(しゅうよう)は一斉(いっせい)に吶喊(とっさく)し、八戒を捉(とら)え倒(たお)し、袋(ふくろ)の内(うち)に装(い)れ、口縄(くちなわ)を束(しば)り緊(かた)くし、高(たか)く駄梁(だりょう)の上(うえ)に吊(つる)し上(あ)げた。妖精は本象(ほんしょう=もとのすがた)を現(あらわ)し、中(なか)に坐(ざ)して言う、「猪八戒よ、汝に何(なん)の手段(てだて)有りてか、敢(あえ)て唐僧を保(まも)りて経(きょう)を取(と)り、敢えて菩薩を請(こ)うて我を降(くだ)さんとするか? 汝、大(おお)いに両(ふた)つの眼(め)を睜(みひら)けども、還(ま)た我を是れ聖嬰大王(せいえいだいおう)なりと認(みと)めざるか! 如今(いま)汝を拿(とら)え、三五日(みいつか)吊(つる)し得て、蒸(ふか)し熟(じゅく)して小妖(こよう)に賞賜(ほうび)し、権(かり)に案酒(さかな)と為(な)さん!」 八戒はこれを聴(き)き、裡(うち)に在りて罵(ののし)って言う、「潑怪物(はつかいぶつ=暴け化け物)め! 十分(じゅうぶん)に無礼(ぶれい)なり! 若(も)し汝が百計千方(ひゃっけいせんぽう=あの手この手)にて我を騙(だま)して食(くら)わば、管(きっ)と教(きょう)せん、汝ら一箇一箇(めいめい)腫頭天瘟(しゅとうてんうん=疫病)に遭(あ)わんことを!」 呆子は罵(ののし)りてはまた罵り、嚷(わめ)きてはまた嚷(わめ)く。さておく。

さて、孫大聖と沙僧は正(まさ)に坐(ざ)しておるに、只だ一陣(ひとむれ)の腥風(なまぐさかぜ)の、面(おもて)を刮(かす)めて過(よぎ)るを見(み)た。彼はすなわち一箇の噴嚏(くしゃみ)を打(う)ちて言う、「不好(いかん)! 不好! この一陣の風(かぜ)は、凶(きょう)多(おお)く吉(きっ)少(すくな)し。想(おも)うに猪八戒が路(みち)を走(あやま)れるなるべし」 沙僧言う、「彼が路を錯(あやま)らば、人に問(と)わざること有らんや?」 行者言う、「必(かなら)ずや妖精に撞遇(であ)うたるならん」 沙僧言う、「妖精に撞遇(であ)うとも、彼は跑(に)げ回(かえ)らざること有らんや?」 行者言う、「不停当(いかん)じゃ。汝は此処(ここ)に坐(ざ)して看守(みまも)れ。我が澗(たに)を跑(はし)り過(よぎ)りて探(さぐ)りを入(い)れるを待(ま)て」 沙僧言う、「師兄(あにじゃ)は腰(こし)を痛(いた)めておる。只(た)だ恐(おそ)るるは又(ま)た彼が手(て)に着(おちい)らんことを。小弟(われ)をして往(ゆ)かしめよ」 行者言う、「汝は不済事(だめ)じゃ。還(ま)た我をして往(ゆ)かしめよ」 好(よ)き行者かな、歯(は)を咬(か)み、疼(いた)みを忍(しの)び、鉄棒(てつぼう)を捻(ひね)り、澗(たに)を過(わた)り往(ゆ)き、かの火雲洞(かうんどう)の前(まえ)に到(いた)り、声を叫(あ)げて「潑怪(はっかい=暴け化け物)!」と言う。かの門(もん)を把(まも)る小妖、また急ぎ裡(うち)へ入(い)りて報じた、「孫行者が又(ま)た門首(もんしゅ)に在りて叫(わめ)いておりまする!」 かの妖王は伝令(でんれい)して拿(とら)えよと叫(さけ)ぶ。かの一夥(ひとむれ)の小妖、槍刀(そうとう)簇擁(ぞくよう)し、斉(ひと)しく声(こえ)を挙(あ)げて吶喊(とっさく)し、すなわち門を開(ひら)き、都(みな)言(い)う、「拿住(とらえた)! 拿住!」 行者は果(はた)して疲倦(つか)れておるに、敢(あえ)て相迎(むか)えず、身を将(も)って路傍(みちばた)に潜(もぐ)り込(い)れ、一箇の呪語(じゅご)を念(とな)えて「変!」と叫(さけ)ぶや、すなわち変じて一箇の銷金包袱(しょうきんほうふく=金襴のつつみ)と做(な)った。小妖これを見て、報じて言う、「大王、孫行者は怕(おじ)けました。只だ拿(とら)えよとの一声(ひとこえ)を説(い)うを聞くや、慌(あわ)てて包袱(つつみ)を投(な)げ下(おろ)して、走(に)げ去(い)りました」 妖王笑って言う、「あの包袱(つつみ)もまた甚(なん)の値(ね)有るの物(もの)ならず。左右(とにかく)是れ和尚(おしょう)の破褊衫(やぶれごろも)、旧帽子(ふるぼうし)なり。背(お)い入(い)れて拆洗(あらいばら)し、補襯(つぎあて)に做(な)せ」 一箇の小妖、果(はた)して包袱を背(お)うて進(い)りしが、是れ行者の変(へん)じたるを知(し)らず。行者言う、「好了(しめた)! この銷金包袱(つつみ)、背(お)われてしまった!」 かの妖精は以(もっ)て事(こと)と為(な)さず、門(もん)の内(うち)に投(ほう)り置(お)いた。

好(よ)き行者かな、仮(いつわり)の中(うち)に又(ま)た仮(いつわり)を重(かさ)ね、虚(きょ)の裡(うち)に還(ま)た虚(きょ)を還(かえ)す:すなわち一根(ひとすじ)の毫毛(ごうもう)を拔(ぬ)き、一口の仙気(せんき)を吹(ふ)きかけ、変じて箇の包袱(つつみ)と一樣(おなじ)く作(な)し;彼が真身(しんじん)は、却(かえ)って又(ま)た変じて一箇の蒼蠅児(はえ)と做(な)り、門枢(とぼそ)の上(うえ)に釘(とま)り付(つ)いた。只だ聴(き)く、八戒がそこに在りて哼哩哼(うんうん)と、声音(こえ)清(きよ)からず、却(かえ)って一箇の瘟猪(びょうぶた)に似(に)たり。行者は「嬰(おう)」と飛(と)び去(さ)りて尋(たず)ぬる時(とき)、原来(もと)彼は皮袋(かわぶくろ)の裡(うち)に吊(つる)されておったのじゃ。行者は皮袋に釘(とま)り付(つ)き、また彼が悪言悪語(あくげんあくご)に妖怪長(ようかいのながし)、妖怪短(ようかいのみじかし)と、「汝、怎(どう)して仮(いつわ)りて箇の観音菩薩に変作(へんし)し、我を哄(だま)して回(かえ)らせ、此処(ここ)に吊(つる)し、還(ま)た我を食(くら)わんと説(い)うか! 一日(あるひ)有りて、我が師兄が斉天無量法(せいてんむりょうほう)を大展(おおいにの)べなば、満山(まんざん)の潑怪(はっかい)ども登時(たちどころ)に擒(とら)えん! 皮袋(かわぶくろ)を解(と)き開(ひら)いて我を出(いだ)さば、汝を千鈀(せんは)に築(つ)きてこそ方(まさ)に心(こころ)に趁(かな)わん!」と罵(ののし)りおるを聴(き)いた。

行者、この言(ことば)を聞き、暗(ひそ)かに笑って想(おも)う、「この呆子(ばか)めは、ここに在りて悶気(うっぷん)を受(う)けておれども、却(かえ)って還(ま)た旗鎗(はたほこ)を倒(たお)さざるなり。老孫は一定(きっ)とこの怪を拿(とら)えん。若(も)し此(こう)あらざれば、怎(どう)して恨(うらみ)を雪(すす)がんや!」 正(まさ)に設法(ほうべん)して八戒を拯救(たす)け出(いだ)さんと欲(ほっ)する処(ところ)、只だ聴(き)く、かの妖王の、「六健将(ろくけんしょう)何処(いずこ)に在(あ)るか?」と叫(さけ)ぶを。時(とき)に六箇の小妖有り、是れ彼が知己(ともだち)の精霊(せいれい)にして、健将(けんしょう)に封(ほう)ぜられ、都(みな)名字(な)有り:一箇を云裏霧(うんりむ)と做(なづ)け、一箇を霧裏雲(むりうん)と做(なづ)け、一箇を急如火(きゅうじょか)と做(なづ)け、一箇を快如風(かいじょふう)と做(なづ)け、一箇を興烘掀(こうこうきん)と做(なづ)け、一箇を掀烘興(きんこうこう)と做(なづ)く。六健将、上前(すす)み出(い)でて跪(ひざまず)くに、妖王言う、「汝らは老大王(ろうだいおう)の家(いえ)を認(みと)むるか?」 六健将言う、「認(みと)めております」 妖王言う、「汝らは我が為に星夜(よるひる)に往(ゆ)きて老大王を請(こ)い来(きた)れ。我が此処(ここ)に唐僧を捉(とら)えて蒸(ふか)して彼に与(あた)え食(くら)わしめ、寿(じゅ)を千紀(せんき)に延(の)べんと説(い)え」 六怪(ろっかい)命(めい)を領(う)け、一箇一箇(めいめい)厮拖厮扯(ひっぱりあい)して、径(ただ)ちに門を出(い)でて去(い)った。行者は「嬰(おう)」の一声(ひとこえ)、袋(ふくろ)より飛(と)び下(お)り来(きた)り、かの六怪に跟(つ)き定(さだ)め、洞中(どうちゅう)を逃(のが)れ離(はな)れた。

畢竟(つい)に怎(いか)に請(こ)い来(きた)るかは、且(しばら)く下回(かかい)の分解(かいせつ)を聴(き)け。