却(さ)て説(と)く、那(か)の孫行者(そんぎょうじゃ)神威(しんい)を抖擻(とそう=奮(ふる)い起(おこ))し、鉄棒(てつぼう)を持(たも)ち、祥光(しょうこう)を踏(ふ)んで空(くう)に起(おこ)り、面(おもて)に迎(むか)って喝(かつ)して道(い)う、「汝(なんじ)は是(こ)れ那(いずこ)より来(きた)れるの邪魔(じゃま)ぞ、何方(いずかた)へか往(ゆ)きて猖獗(しょうけつ=暴(あば)れ狂(くる))わんとす」と。那(か)の怪物(かいぶつ)厳(おごそ)かに声(こえ)を高(たか)くして叫(よ)んで道(い)う、「吾党(わがともがら)は是(こ)れ别人(べつじん)ならず、乃(すなわ)ち麒麟山(きりんざん)獬豸洞(かいちどう)賽太歳(さいたいさい)大王(だいおう)爺爺(やや)の部下(ぶか)の先鋒(せんぽう)なり。今(いま)大王(だいおう)の令(れい)を奉(ほう)じ、此(ここ)に到(いた)りて宮女(きゅうじょ)二名(にめい)を取(と)り、金聖娘娘(きんせいにゃんにゃん)に伏侍(ふくじ)せしめんとす。汝(なんじ)は是(こ)れ何人(なんぴと)ぞ、敢(あ)えて来(きた)りて我(われ)に問(と)うや」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「吾(われ)は乃(すなわ)ち斉天大聖(せいてんたいせい)孫悟空(そんごくう)なり。東土(とうど)の唐僧(とうそう)を保(たも)ちて西天(せいてん)に仏(ほとけ)を拝(はい)するに因(よ)り、路(みち)此(こ)の国(くに)を過(す)ぎ、汝等(なんだち)が此(こ)の伙(くみ)の邪魔(じゃま)の主(あるじ)を欺(あざむ)くを知(し)り、特(こと)に雄才(ゆうさい=優(すぐ)れたる才(さい))を展(の)べ、国(くに)を治(おさ)め邪(じゃ)を祛(はら)わんとす。正(まさ)に汝(なんじ)を尋(たず)ぬる処(ところ)無(な)かりしに、却(かえ)って来(きた)りて此(ここ)に命(いのち)を送(おく)るか」と。
那(か)の怪(かい)言(げん)を聞(き)き、好歹(こうたい=善(ぜん)し悪(あ)し)を知(し)らず、長槍(ちょうそう)を展(の)べて就(すなわ)ち行者(ぎょうじゃ)を刺(さ)す。行者(ぎょうじゃ)鉄棒(てつぼう)を挙(あ)げて面(おもて)を劈(つんざ)いて相迎(むか)う。半空(はんくう)の裡(うち)に在(あ)りて此(こ)の一場(いちば)の好(よ)き殺(たたかい)なり。
棍(こん)は是(こ)れ竜宮(りゅうきゅう)の鎮海(ちんかい)の珍(ちん)、槍(やり)は乃(すなわ)ち人間(にんげん)の転煉(てんれん=鍛(きた)え直(なお))しの鉄(てつ)なり。
凡兵(ぼんぺい)怎(いか)でか敢(あ)えて仙兵(せんぺい)に比(くら)ばん、擦(ふ)るる些児(さじ=少(すこ)し)にも神気(しんき)泄(も)る。
大聖(たいせい)は元来(もと)太乙(たいいつ)の仙(せん)、妖精(ようせい)は本(もと)是(こ)れ邪魔(じゃま)の孽(ごう=悪(あく))なり。
鬼祟(きすい=鬼(おに)の祟(たた)り)焉(いずく)んぞ能(よ)く正人(せいじん)に近(ちか)づかん、一(ひと)たび正(ただ)しきの時(とき)邪(じゃ)は就(すなわ)ち滅(めっ)す。
那(か)れは風(かぜ)を弄(ろう)し土(つち)を播(ま)いて皇王(こうおう)を唬(おどろ)かし、此(こ)れは霧(きり)を踏(ふ)み雲(くも)に騰(のぼ)って日月(じつげつ)を遮(さえぎ)る。
架子(かし=構(かま)え)を放(はな)ち開(ひら)きて輸贏(ゆえい=勝負(しょうぶ))を賭(と)い、無能(むのう)なるは誰(たれ)か敢(あ)えて豪傑(ごうけつ)を夸(ほこ)らんや!
還(ま)た是(こ)れ斉天大聖(せいてんたいせい)の能(のう)にして、乒乓(ひんぽう=ぴしゃり)と一棍(いっこん)に槍(やり)先(ま)ず折(お)る。
那(か)の妖精(ようせい)は行者(ぎょうじゃ)が一鉄棒(いってつぼう)に把(と)って根(ひと)つの槍(やり)を打(う)ちて両截(りょうせつ=二(ふた)つ)と做(な)され、慌(あわ)てて性命(せいめい)を顧(かえり)み、風(かぜ)の頭(かしら)を撥(めぐ)らし転(てん)じ、径(ただ)ちに西方(せいほう)へ敗(やぶ)れて走(はし)る。
行者(ぎょうじゃ)且(しばら)く彼(かれ)を趕(お)わず、雲頭(うんとう)を按(あん)じ下(おろ)し、来(きた)りて避妖楼(ひようろう)の地穴(ちけつ)の外(そと)に至(いた)りて叫(よ)んで道(い)う、「師父(しふ)よ、請(こ)う陛下(へいか)と同(とも)に出(い)で来(きた)れ、怪物(かいぶつ)已(すで)に趕(お)い去(ゆ)きたり」と。那(か)の唐僧(とうそう)才(はじ)めて君王(くんおう)を扶(たす)け、同(とも)に穴(あな)の外(そと)に出(い)づれば、満天(まんてん)の清朗(せいろう=澄(す)みき)りて、更(さら)に妖邪(ようじゃ)の気(き)無(な)きを見(み)る。那(か)の皇帝(こうてい)即(すなわ)ち酒席(しゅせき)の前(まえ)に至(いた)り、自(みずか)ら壺(つぼ)を拿(と)り盞(さかずき)を把(と)り、金杯(きんぱい)に満(み)ち斟(つ)いで行者(ぎょうじゃ)に奉(たてまつ)って道(い)う、「神僧(しんそう)、権(かり)に謝(しゃ)す! 権(かり)に謝(しゃ)す」と。
此(こ)の行者(ぎょうじゃ)杯(さかずき)を手(て)に接(う)けて、還(ま)た未(いま)だ回言(かいげん=返答(へんとう))せざるに、只(た)だ聴(き)く、朝門(ちょうもん)の外(そと)に官(かん)の来(きた)りて報(ほう)ずる有(あ)り、「西門(せいもん)の上(うえ)に火(ひ)起(おこ)れり」と。行者(ぎょうじゃ)説(と)くを聞(き)き、金杯(きんぱい)を酒(さけ)と連(つら)ねて空(くう)に向(むか)って一(ひと)たび撇(な)げれば、当(とう)の一声(ひとこえ)響(ひび)き喨(りょう=高(たか))く、那(か)の箇(こ)の金杯(きんぱい)地(ち)に落(お)つ。君王(くんおう)忙(いそが)しきを著(つ)け、身(み)を躬(くぐ)ませて施礼(せれい)して道(い)う、「神僧(しんそう)、罪(つみ)を恕(ゆる)せ! 罪(つみ)を恕(ゆる)せ! 是(こ)れ寡人(かじん)の不是(あやまち)なり! 礼(れい)当(まさ)に殿(でん)に上(のぼ)りて拝謝(はいしゃ)を請(しょう)ずべきに、只(た)だ此(こ)の方便酒(ほうべんしゅ=手軽(てがる)な酒(さけ))の此(ここ)に在(あ)る有(あ)るに因(よ)り、故(ゆえ)に就(すなわ)ち奉(たてまつ)れるのみ。神僧(しんそう)却(かえ)って杯子(はいし=杯(さかずき))を撇(な)げ給(たま)いしは、却(かえ)って是(こ)れ怪(あやし)むの意(い)有(あ)るに非(あら)ずや」と。行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「是(こ)れ此(こ)の話(はなし)ならず、是(こ)れ此(こ)の話(はなし)ならず」と。
少頃(しばらく)の間(あいだ)に、又(また)官(かん)の来(きた)りて報(ほう)ずる有(あ)り、「好(よ)き雨(あめ)かな! 才(さい=たった今(いま))西門(せいもん)の上(うえ)に火(ひ)起(おこ)りしが、一場(いちば)の大雨(たいう)に被(こうむ)りて、火(ひ)を把(と)って滅(めっ)したり。満街(まんがい=町中(まちじゅう))の上(うえ)に水(みず)流(なが)るるは、尽(ことごと)く都(すべ)て是(こ)れ酒(さけ)の気(き)なり」と。行者(ぎょうじゃ)又(また)笑(わら)って道(い)う、「陛下(へいか)、汝(なんじ)我(われ)の杯(さかずき)を撇(な)ぐるを見(み)て、怪(あやし)むの意(い)有(あ)るを疑(うたが)うも、非(あら)ず。那(か)の妖(よう)は西方(せいほう)へ敗(やぶ)れて走(はし)り、我(われ)曾(かつ)て彼(かれ)を趕(お)わざりしに、彼(かれ)就(すなわ)ち火(ひ)を放(はな)ちて起(おこ)せり。此(こ)の一杯(いっぱい)の酒(さけ)は、却(かえ)って是(こ)れ我(われ)が妖火(ようか)を滅(めっ)し、西城(せいじょう)の裡(うち)外(そと)の人家(じんか)を救(すく)いたるにして、豈(あ)に他(ほか)の意(い)有(あ)らんや」と。国王(こくおう)更(さら)に十分(じゅうぶん)に歓喜(かんき)し敬(うやまい)を加(くわ)う。即(すなわ)ち三蔵(さんぞう)四衆(ししゅう)を請(しょう)じて、同(とも)に宝殿(ほうでん)に上(のぼ)り、就(すなわ)ち位(くらい)を推(お)し国(くに)を譲(ゆず)らの意(い)有(あ)り。
行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「陛下(へいか)、才(さい=たった今(いま))那(か)の妖精(ようせい)は、彼(かれ)称(しょう)して是(こ)れ賽太歳(さいたいさい)部下(ぶか)の先鋒(せんぽう)にして、此(ここ)に来(きた)りて宮女(きゅうじょ)を取(と)らんとせしなり。彼(かれ)如今(いま)戦(たたかい)敗(やぶ)れて而(しか)して回(かえ)り、定(かなら)ず然(しか)く報(ほう)じて那(か)の奴(やつ)に与(あた)え、那(か)の奴(やつ)定(かなら)ず要(よう)して来(きた)りて我(われ)と相争(あいあらそ)わん。我(われ)恐(おそ)るらくは彼(かれ)の時(とき)に興師(こうし=軍(いくさ)を起(おこ))し衆(しゅう)を帥(ひき)いば、未(いま)だ免(まぬか)れず又(また)百姓(ひゃくせい)を驚(おどろ)かし傷(きずつ)け、陛下(へいか)を唬(おどろ)かさんことを。去(ゆ)きて彼(かれ)を一(ひと)たび迎(むか)え迎(むか)え、就(すなわ)ち那(か)の半空(はんくう)の中(うち)に在(あ)りて彼(かれ)を擒(とりこ)にし、聖后(せいごう=后(きさき))を取(と)り回(かえ)らんと欲(ほっ)す。但(た)だ知(し)らず那(いず)れの方(かた)へか去(ゆ)くべき、此(ここ)より彼(かれ)が那(か)の山洞(さんどう)に到(いた)るに幾(いく)らの遠近(えんきん=距離(きょり))有(あ)るかを」と。国王(こくおう)道(い)う、「寡人(かじん)曾(かつ)て夜不収(やふしゅう=夜回(よまわ)り)の軍馬(ぐんば)を差(つか)わして那(そこ)へ到(いた)りて声息(せいそく=様子(ようす))を探(さぐ)り聴(き)かしむるに、往来(おうらい)行(ゆ)くに五十余日(ごじゅうより)を要(よう)す。坐落(ざらく=所在(しょざい))は南方(なんぽう)にして、約(およそ)三千余里(さんぜんより)有(あ)り」と。行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)き叫(よ)んで道(い)う、「八戒(はっかい)沙僧(しゃそう)よ、此(ここ)に在(あ)りて護持(ごじ)せよ、老孫(ろうそん)去(ゆ)き来(きた)らん」と。
国王(こくおう)扯(ひ)き住(とど)めて道(い)う、「神僧(しんそう)且(しばら)く一日(いちにち)を容(い)れよ、些(いささ)かの乾糧(かんりょう)・烘炒(こうそう=炒(い)った穀物(こくもつ))を安排(あんばい)し、汝(なんじ)に些(いささ)かの盤纏(ばんてん=路銀(ろぎん))の銀両(ぎんりょう)を与(あた)え、一匹(いっぴき)の快馬(かいば=駿馬(しゅんめ))を選(えら)ばしめんを待(ま)ちて、方(はじ)めて可(べ)し去(ゆ)く」と。行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「陛下(へいか)の説(と)けるは、是(こ)れ巴山転嶺(はざんてんれい=山(やま)を攀(よ)じ嶺(みね)を越(こ))えて歩行(ほこう=歩(ある))くの話(はなし)なり。我(わ)が老孫(ろうそん)汝(なんじ)に瞞(あざむ)いて説(い)わず、此(か)くの如(ごと)き三千里(さんぜんり)の路(みち)も、酒(さけ)を鍾(さかずき)に斟(つ)いで冷(ひ)えざるに、就(すなわ)ち箇(ひと)の往回(おうかい=往復(おうふく))を打(う)たん」と。国王(こくおう)道(い)う、「神僧(しんそう)、汝(なんじ)我(われ)の説(と)くを怪(あやし)むこと莫(なか)れ。汝(なんじ)が此(こ)の尊貌(そんぼう=御顔(おんかお))は、却(かえ)って箇(ひと)の猿猴(えんこう=猿(さる))の一般(ごと)きに象(かたど)れるに、怎(いか)でか生(いき)て此(か)くの如(ごと)き法力(ほうりき)の会(え)して路(みち)を走(はし)る有(あ)らんや」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、
我(われ)が身(み)は猿猴(えんこう)の数(かず)なれど、自幼(じゆう=幼(おさな)きより)生死(しょうじ)の路(みち)を打(う)ち開(ひら)く。
遍(あまね)く明師(めいし=優(すぐ)れたる師(し))を訪(たず)ねて道(みち)を把(と)って伝(つた)え、山前(さんぜん)に修煉(しゅうれん)して朝暮(ちょうぼ=朝(あさ)と暮(く)れ)無(な)し。
天(てん)を倚(よ)りて頂(いただき)と為(な)し地(ち)を炉(ろ)と為(な)し、両般(りょうはん=二(ふた)つの)の薬物(やくぶつ)烏兔(うと=日(ひ)と月(つき))を団(まる)む。
陰陽(いんよう)水火(すいか)の交(まじわ)るを採(と)り取(と)り、時間(じかん=またたく間(あいだ))に頓(とみ)に玄関(げんかん=奥義(おうぎ))を把(と)って悟(さと)る。
全(まった)く天罡(てんこう=星(ほし)の名(な))の搬運(はんうん=運(はこ))ぶ功(こう)を仗(たの)み、也(また)斗柄(とへい=北斗(ほくと)の柄(え))の遷移(せんい=移(うつ))る歩(ほ)を憑(たの)む。
炉(ろ)を退(しりぞ)け火(ひ)を進(すす)むるは最(もっと)も時(とき)に依(よ)り、鉛(なまり)を抽(ぬ)き汞(みずがね)を添(そ)うるは相交(あいまじ)わり顧(かえり)みる。
五行(ごぎょう)を集(あつ)め簇(むらが)らせて造化(ぞうか)生(しょう)じ、四象(しぞう)を合(がっ)し和(わ)して時(とき)を分(わか)ち度(はか)る。
二気(にき)は黄道(こうどう)の間(あいだ)に帰(き)し、三家(さんか)は金丹(きんたん)の路(みち)に会(かい)す。
法律(ほうりつ)を悟(さと)り通(つう)じて四肢(しし)に帰(き)し、本来(ほんらい)の筋斗(きんとう)は神助(しんじょ)の如(ごと)し。
一(ひと)たび縦(はな)てば太行山(たいこうざん)を縱(と)び過(す)ぎ、一(ひと)たび打(う)てば凌雲渡(りょううんど)を打(う)ち過(す)ぐ。
何(なん)ぞ愁(うれ)えん峻嶺(しゅんれい=険(けわ)しき嶺(みね))の幾千重(いくせんじゅう)なるを、長江(ちょうこう)の百十数(ひゃくじゅうすう)をも怕(おそ)れず。
只(た)だ変化(へんげ)に遮攔(しゃらん=遮(さえぎ))る無(な)きに因(よ)り、一(ひと)たび打(う)てば十万八千路(じゅうまんはっせんろ)なり。
那(か)の国王(こくおう)説(と)くを見(み)て、又(また)驚(おどろ)き又(また)喜(よろこ)び、笑吟吟(しょうぎんぎん=にこにこ)として一杯(いっぱい)の御酒(ぎょしゅ)を捧(ささ)げて行者(ぎょうじゃ)に逓(わた)して道(い)う、「神僧(しんそう)遠(とお)くより労(ろう)せり、此(こ)の一杯(いっぱい)を進(すす)めて意(い)を引(ひ)かん」と。此(こ)の大聖(たいせい)は一心(いっしん)に去(ゆ)きて妖(よう)を降(くだ)さんと欲(ほっ)す、那(いずく)んぞ心(こころ)の酒(さけ)を食(の)む有(あ)らんや、只(た)だ叫(よ)ぶ、「且(しばら)く放(おろ)し下(おろ)せ、我(われ)の去(ゆ)きて回(かえ)り来(きた)りて再(ま)た飲(の)まんを待(ま)て」と。好(よ)き行者(ぎょうじゃ)かな、去(ゆ)くと声(こえ)し、唿哨(こっしょう=口笛(くちぶえ))一声(ひとこえ)、寂然(せきぜん=ぱったり)として見(み)えず。那(か)の一国(いっこく)の君臣(くんしん)の皆(みな)驚訝(けいが=驚(おどろ)き怪(あやし))むことは題(かた)らず。
却(さ)て説(と)く、行者(ぎょうじゃ)身(み)を将(もっ)て一(ひと)たび縦(はな)てば、早(はや)くも一(ひと)つの座(ざ)の高山(こうざん)の霧角(むかく=霧(きり)の端(はし))を阻(さえぎ)るを見(み)る。即(すなわ)ち雲頭(うんとう)を按(あん)じ、那(か)の巔峰(てんぽう=頂(いただき))の上(うえ)に立(た)ち、仔細(しさい)に観(み)るに、好(よ)き山(やま)なり。
天(てん)を冲(つ)き地(ち)を占(し)め、日(ひ)を遮(さえぎ)りて雲(くも)を生(しょう)ず。
天(てん)を冲(つ)く処(ところ)は、尖峰(せんぽう=尖(とが)りし峰(みね))矗矗(ちくちく=聳(そび)え立(た))ち、地(ち)を占(し)むる処(ところ)は、遠脈(えんみゃく=遠(とお)き山脈(さんみゃく))迢迢(ちょうちょう=遥(はる)か)なり。
日(ひ)を遮(さえぎ)るは、乃(すなわ)ち嶺頭(れいとう=嶺(みね)の頂(いただき))の松(まつ)の郁郁(いくいく=青々(あおあお))たる、雲(くも)を生(しょう)ずるは、乃(すなわ)ち崖下(がいか=崖(がけ)の下(した))の石(いし)の磷磷(りんりん=ごろごろ)たる。
松(まつ)郁郁(いくいく)として、四時八節(しいちはっせつ=一年中(いちねんじゅう))常(つね)に青(あお)く、石(いし)磷磷(りんりん)として、万載千年(ばんさいせんねん)も改(あらた)めず。
林中(りんちゅう)に毎(つね)に夜猿(やえん=夜(よる)の猿(さる))の啼(な)くを聴(き)き、澗内(かんだい=谷(たに)の裡(うち))に常(つね)に妖蟒(ようもう=妖(あや)しき大蛇(おろち))の過(す)ぐるを聞(き)く。
山禽(さんきん=山(やま)の鳥(とり))声(こえ)咽咽(えつえつ=しめやか)に、山獣(さんじゅう=山(やま)の獣(けもの))吼(ほ)えて呼呼(ここ)たり。
山獐(さんしょう=山(やま)の鹿(しか)の類(たぐい))山鹿(さんろく=山(やま)の鹿(しか))、双(ふた)りを成(な)し対(つい)を做(な)して紛紛(ふんぷん)として走(はし)り、山鴉(さんあ=山(やま)の烏(からす))山鵲(さんじゃく=山(やま)の鵲(かささぎ))、陣(じん)を打(う)ち群(むれ)を集(あつ)めて密密(みつみつ)として飛(と)ぶ。
山草(さんそう=山(やま)の草(くさ))山花(さんか=山(やま)の花(はな))看(み)れど尽(つ)きず、山桃(さんとう=山(やま)の桃(もも))山果(さんか=山(やま)の果(くだもの))時(とき)に映(えい)じて新(あたら)し。
険(けわ)しきに倚(よ)りて行(ゆ)くに堪(た)えざるも雖(いえど)も、却(かえ)って是(こ)れ妖仙(ようせん=妖(よう)と仙(せん))の隠逸(いんいつ=隠(かく)れ住(す))む処(ところ)なり。
此(こ)の大聖(たいせい)看(み)て看(み)て厭(あ)かず、正(まさ)に洞(どう)の口(くち)を尋(たず)ね找(さが)さんと欲(ほっ)するに、只(た)だ見(み)る、那(か)の山凹(さんおう=谷(たに))の裡(うち)より烘烘(こうこう=ぱっと)として火光(かこう)の飛(と)び出(い)づるを。霎時間(しょうじかん=またたく間(あいだ))に、天(てん)を撲(う)ちて紅焰(こうえん=赤(あか)き焔(ほのお))、紅焰(こうえん)の中(うち)より一(ひと)つの股(すじ)の悪烟(あくえん=毒(どく)の煙(けむり))の冒(お)き出(い)づるは、火(ひ)よりも更(さら)に毒(どく)なり。好(よ)き烟(けむり)かな! 但(た)だ見(み)る、那(か)の、
火光(かこう)迸(ほとばし)る万点(まんてん)の金灯(きんとう)、火焰(かえん)飛(と)ぶ千条(せんじょう)の紅虹(こうこう)。
那(か)の烟(けむり)は是(こ)れ竈筒(そうとう=竈(かまど)の煙突(えんとつ))の烟(けむり)ならず、是(こ)れ草木(そうもく)の烟(けむり)ならず、烟(けむり)却(かえ)って五色(ごしき)有(あ)り、青紅白黒黄(せいこうはくこくおう)なり。
南天門(なんてんもん)の外(そと)の柱(はしら)を熏(くす)べ、霊霄殿(れいしょうでん)の上(うえ)の梁(はり)を燎(や)く。
焼(や)き得(え)て那(か)の窩中(かちゅう=巣(す)の裡(うち))の走獣(そうじゅう)は皮(かわ)まで連(つら)ねて爛(ただ)れ、林内(りんだい=林(はやし)の裡(うち))の飛禽(ひきん)は羽(はね)尽(ことごと)く光(つや)を失(うしな)う。
但(た)だ此(こ)の烟(けむり)の此(か)くの如(ごと)く悪(あ)しきを看(み)よ、怎(いか)でか深山(しんざん)に入(い)りて怪王(かいおう)を伏(ふく)せんや!
大聖(たいせい)正(まさ)に自(みずか)ら恐懼(きょうく=恐(おそ)れ)するに、又(また)見(み)る、那(か)の山(やま)の中(うち)より一(ひと)つの道(すじ)の沙(すな)の迸(ほとばし)り出(い)づるを。好(よ)き沙(すな)かな、真(まこと)に箇(こ)是(こ)れ天(てん)を遮(さえぎ)り日(ひ)を蔽(おお)う! 汝(なんじ)看(み)よ、
紛紛絯絯(ふんぷんがいがい=乱(みだ)れ飛(と)び)として天涯(てんがい=天(てん)の果(は)て)に遍(あまね)く、鄧鄧渾渾(とうとうこんこん=もうもう)として大地(だいち)を遮(さえぎ)る。
細塵(さいじん=細(こま)かき塵(ちり))到(いた)る処(ところ)人(ひと)の目(め)を迷(まよ)わし、粗灰(そはい=粗(あら)き灰(はい))谷(たに)に満(み)ちて芝麻(しば=胡麻(ごま))を滚(ころが)す。
薬(くすり)を采(と)る仙僮(せんどう)は伴(とも)を失(うしな)い迷(まよ)い、柴(たきぎ)を打(う)つ樵子(しょうし=木樵(きこり))は家(いえ)を尋(たず)ぬる無(な)し。
手(て)の中(うち)に就(すなわ)ち明珠(めいしゅ=光(ひか)る玉(たま))の現(あらわ)るる有(あ)るも、時間(じかん)に刮(か)き得(え)て眼(め)に花(はな)を生(しょう)ず。
此(こ)の行者(ぎょうじゃ)只(た)だ顧(かえり)みて看(み)て玩(もてあそ)ぶに、覚(おぼ)えず沙灰(さはい=砂(すな)と灰(はい))の鼻(はな)の内(うち)に飛(と)び入(い)り、痒(かゆ)き斯斯(しし=むずむず)として、二(ふた)つの噴嚏(ふんてい=くしゃみ)を打(う)つ。即(すなわ)ち頭(あたま)を回(めぐ)らして手(て)を伸(の)べ、岩(いわ)の下(した)に在(あ)りて二箇(ふたつ)の鵞卵石(がらんせき=鵞鳥(がちょう)の卵(たまご)の石(いし))を摸(さぐ)り、鼻(はな)を塞(ふさ)ぎ、身(み)を揺(ゆ)って一(ひと)たび変(へん)じ、変(へん)じて一(ひと)つの火(ひ)を集(あつ)めるの鷂子(ようじ=ハイタカ)と做(な)り、烟火(えんか)の間(あいだ)の裡(うち)に飛(と)び入(い)り、驀(かす)むること幾(いく)たびか驀(かす)めば、却(かえ)って就(すなわ)ち沙灰(さはい)没了(な)くなり、烟火(えんか)也(また)息(や)めり。急(いそ)ぎ本象(ほんぞう)を現(あらわ)して下(お)り来(きた)る。又(また)看(み)るに、只(た)だ聴(き)く、丁丁東東(ていていとうとう=ちんちんかんかん)と箇(ひと)の銅鑼(どうら=銅(どう)の鑼(どら))の声(こえ)の響(ひび)くを。却(かえ)って道(い)う、「我(われ)路(みち)を走(はし)り錯(あやま)りたり! 此(ここ)は是(こ)れ妖精(ようせい)の住処(じゅうじょ=住(す)み処(か))ならず。鑼(どら)の声(こえ)は鋪兵(ほへい=駅(えき)の兵(へい))の鑼(どら)に似(に)たり、想(おも)うに是(こ)れ国(くに)に通(つう)ずるの大路(たいろ)にして、鋪兵(ほへい)の去(ゆ)きて文書(ぶんしょ)を下(くだ)す有(あ)るならん。且(しばら)く老孫(ろうそん)の去(ゆ)きて彼(かれ)に一(ひと)たび問(と)うを待(ま)て」と。
正(まさ)に走(はし)る処(ところ)、忽(たちま)ち見(み)る、是(こ)れ箇(ひと)りの小妖児(しょうようじ=小(ちい)さき妖怪(ようかい))の、黄旗(こうき=黄(き)い旗(はた))を担(にな)い、文書(ぶんしょ)を背負(せお)い、鑼児(らじ=鑼(どら))を敲(たた)き、急(いそ)ぎ走(はし)ること飛(と)ぶが如(ごと)くにして来(きた)るを。行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「元来(もと)是(こ)れ此(こ)の奴(やつ)めの鑼(どら)を打(う)つなり。彼(かれ)知(し)らず送(おく)るは是(こ)れ甚(なん)の書信(しょしん=手紙(てがみ))なるかを、我(われ)の彼(かれ)に一(ひと)たび聴(き)くを待(ま)て」と。
好(よ)き大聖(たいせい)かな、身(み)を揺(ゆ)って一(ひと)たび変(へん)じ、変(へん)じて箇(ひと)の猛虫児(もうちゅうじ=小(ちい)さき虫(むし))と做(な)り、軽(かる)く軽(かる)く彼(かれ)が書包(しょほう=文書(ぶんしょ)の包(つつ)み)の上(うえ)に飛(と)ぶ。只(た)だ聴(き)く、那(か)の妖精(ようせい)の鑼(どら)を敲(たた)き、緒緒聒聒(しょしょかつかつ=ぶつぶつ)として自(みずか)ら念(ねん)じ自(みずか)ら誦(しょう)じて道(い)う、「我(わ)が家(いえ)の大王(だいおう)忒(はなは)だ也(また)心(こころ)毒(どく)なり。三年前(さんねんまえ)朱紫国(ししこく)に到(いた)りて強(し)いて金聖皇后(きんせいこうごう)を奪(うば)いしが、一向(ひたすら)縁(えにし)無(な)く、未(いま)だ身(み)を沾(ふ)るるを得(え)ず、只(た)だ来(きた)るの宮女(きゅうじょ)の頂缸(ちょうこう=身代(みがわ)り)となるを苦(くる)しめたるのみ。二箇(ふたり)来(きた)りて弄(もてあそ)び殺(ころ)し、四箇(よたり)来(きた)りて也(また)弄(もてあそ)び殺(ころ)せり。前年(ぜんねん)要(もと)め、去年(きょねん)又(また)要(もと)め、今年(ことし)又(また)要(もと)めて、今年(ことし)還(ま)た要(もと)めんとせしに、却(かえ)って箇(ひと)の対頭(たいとう=敵(てき))に撞(ぶつ)かり来(きた)れり。那(か)の宮女(きゅうじょ)を要(もと)めし先鋒(せんぽう)は箇(ひと)の甚(なん)の孫行者(そんぎょうじゃ)に打(う)ち敗(やぶ)られ、宮女(きゅうじょ)を発(おく)らず。我(わ)が大王(だいおう)此(こ)の因(よ)りて怒(いか)りを発(はっ)し、彼(かれ)が国(くに)と争持(そうじ=争(あらそ))わんとし、我(われ)をして去(ゆ)きて甚(なん)の戦書(せんしょ=挑戦状(ちょうせんじょう))を下(くだ)さしむ。此(こ)の一(ひと)たび去(ゆ)きて、那(か)の国王(こくおう)戦(たたか)わざれば則(すなわ)ち可(よ)し、戦(たたか)わば必(かなら)ず利(り)あらず。我(わ)が大王(だいおう)の烟火(えんか)飛沙(ひさ=飛(と)ぶ砂(すな))を使(つか)わば、那(か)の国王(こくおう)君臣(くんしん)百姓(ひゃくせい)等(とう)は、一箇(ひとり)も活(い)くるを得(う)るを想(おも)うこと莫(なか)れ。其(そ)の時(とき)我等(われら)彼(かれ)が城池(じょうち)を占(し)め、大王(だいおう)帝(みかど)と称(しょう)し、我等(われら)臣(しん)と称(しょう)せんが、然(しか)れども也(また)箇(ひと)の大小(だいしょう)の官爵(かんしゃく)有(あ)るも、只(た)だ是(こ)れ天理(てんり)の容(い)れ難(がた)きなり」と。
行者(ぎょうじゃ)聴(き)き了(おわ)り、暗(あん)かに喜(よろこ)んで道(い)う、「妖精(ようせい)也(また)存心(ぞんしん=心(こころ))の好(よ)き有(あ)るなり。彼(かれ)が後辺(うしろ)の此(こ)の二句(にく=二(ふた)つの句(く))の天理(てんり)容(い)れ難(がた)しと説(と)けるに似(に)たるは、却(かえ)って是(こ)れ箇(ひと)の好(よ)きならずや。但(た)だ只(た)だ金聖皇后(きんせいこうごう)の一向(ひたすら)縁(えにし)無(な)く、未(いま)だ身(み)を沾(ふ)るるを得(え)ずと説(と)くのみ、此(こ)の話(はなし)却(かえ)って其(そ)の意(い)を解(げ)せず。我(われ)の彼(かれ)に一(ひと)たび問(と)うを待(ま)て」と。嚶(えい=ぶん)の一声(ひとこえ)、一(ひと)たび翅(つばさ)を飛(と)ばして妖精(ようせい)を離(はな)れ、前路(ぜんろ)へ転(てん)じ向(むか)うこと十数里(じゅうすうり)の地(ち)にして、身(み)を揺(ゆ)って一(ひと)たび変(へん)じ、又(また)変(へん)じて一(ひと)りの道童(どうどう=道士(どうし)の童(わらべ))と做(な)る。
頭(あたま)に双(そう=二(ふた)つ)の抓髻(そうけい=髷(まげ))を挽(わ)し、身(み)に百衲衣(ひゃくのうい=継(つ)ぎ接(は)ぎの衣(ころも))を穿(つらぬ)く。
手(て)に魚鼓簡(ぎょこかん=魚鼓(ぎょこ)と簡板(かんばん))を敲(たた)き、口(くち)に道情詞(どうじょうし=道教(どうきょう)の歌(うた))を唱(うた)う。
山坡(さんぱ)を転(まわ)り、小妖(しょうよう)に迎(むか)い、箇(ひと)の起手(きしゅ=挨拶(あいさつ))を打(う)って道(い)う、「長官(ちょうかん=旦那(だんな))よ、那(いずこ)へか去(ゆ)く、送(おく)るは是(こ)れ甚(なん)の公文(こうぶん)ぞ」と。那(か)の妖物(ようぶつ)就(すなわ)ち彼(かれ)を認(みと)むるの一般(ごと)し、鑼槌(らつい=鑼(どら)の撥(ばち))を住(とど)め、笑嘻嘻(しょうきき=にこにこ)として還礼(かんれい)して道(い)う、「我(わ)が大王(だいおう)我(われ)を朱紫国(ししこく)に差(つか)わして戦書(せんしょ)を下(くだ)さしむるなり」と。行者(ぎょうじゃ)口(くち)を接(う)けて問(と)うて道(い)う、「朱紫国(ししこく)の那(か)の話児(わじ=例(れい)の件(けん))、曾(かつ)て大王(だいおう)と配合(はいごう=契(ちぎ)り)し給(たま)えるや」と。
小妖(しょうよう)道(い)う、「前年(ぜんねん)摂(さら)い得(え)て来(きた)りしより、当時(そのとき)就(すなわ)ち一箇(ひとり)の神仙(しんせん)有(あ)りて、一(ひと)つの件(くだり)の五彩仙衣(ごさいせんい)を送(おく)りて金聖宮(きんせいきゅう)と妝新(そうしん=嫁(よめ)入(い)れの支度(したく))せしめたり。彼(かれ)自(みずか)ら那(か)の衣(ころも)を穿(つらぬ)きてより、就(すなわ)ち渾身(こんしん=身(み)じゅう)上下(じょうげ)都(すべ)て針刺(しんし=針(はり)の刺(とげ))を生(しょう)じ、我(わ)が大王(だいおう)摸(さわ)るも敢(あ)えて彼(かれ)を一(ひと)たび摸(さわ)らず。但(た)だ些児(さじ=少(すこ)し)を挽(ひ)くも、手(て)の心(こころ)就(すなわ)ち痛(いた)み、是(こ)れ甚(なん)の縁故(えんこ=理由(りゆう))なるかを知(し)らず、始(はじめ)より今(いま)に至(いた)るまで、未(いま)だ身(み)を沾(ふ)るるを得(え)ず。早間(そうかん=朝方(あさがた))先鋒(せんぽう)を差(つか)わして去(ゆ)きて宮女(きゅうじょ)を要(もと)めて伏侍(ふくじ)せしめんとせしに、一箇(ひとり)の甚(なん)の孫行者(そんぎょうじゃ)に戦(たたか)い敗(やぶ)られたり。大王(だいおう)奮怒(ふんぬ=激(いか)り)す、故(ゆえ)に以(もっ)て我(われ)をして去(ゆ)きて戦書(せんしょ)を下(くだ)さしめ、明日(みょうにち)彼(かれ)と交戦(こうせん)せんとす」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「怎(いか)でか大王(だいおう)却(かえ)って悩(なやみ)を著(つ)くるや」と。小妖(しょうよう)道(い)う、「正(まさ)に那(そこ)に在(あ)りて悩(なや)めるなり。汝(なんじ)去(ゆ)きて彼(かれ)と箇(ひと)の道情詞児(どうじょうじ)を唱(うた)いて悶(もん)を解(と)きて与(あた)うるも好(よ)からん」と。
行者(ぎょうじゃ)手(て)を拱(きょう=組(く))んで身(み)を抽(ひ)いて就(すなわ)ち走(はし)る。那(か)の妖(よう)依旧(もとの如(ごと)く)鑼(どら)を敲(たた)いて前(まえ)へ行(ゆ)く。行者(ぎょうじゃ)就(すなわ)ち凶(きょう=荒(あら)い手(て))を行(おこ)な起(おこ)し、棒(ぼう)を掣(ひっさ)げ出(いだ)し、復(ま)た身(み)を転(めぐ)らし、小妖(しょうよう)の脳後(のうご=後頭部(こうとうぶ))に向(むか)って一下(いっか)を与(あた)う。憐(あわれ)むべし、就(すなわ)ち打(う)ち得(え)て頭(あたま)爛(ただ)れ血(ち)流(なが)れ漿(しょう=汁(しる))迸(ほとばし)り出(い)で、皮(かわ)開(ひら)き頸(くび)折(お)れて命(いのち)傾(かたむ)く。
棍子(こんし)を収(おさ)めて、却(かえ)って又(また)自(みずか)ら悔(く)いて道(い)う、「急(いそ)ぎたり些児(さじ=少(すこ)し)! 曾(かつ)て彼(かれ)に問(と)わず名(な)を甚(なん)と呼(よ)ぶかを、罷(よ)し」と。却(かえ)って去(ゆ)きて彼(かれ)が戦書(せんしょ)を取(と)り下(おろ)して袖(そで)の内(うち)に蔵(かく)し、彼(かれ)が黄旗(こうき)・銅鑼(どうら)を将(もっ)て、路傍(ろぼう)の草(くさ)の裡(うち)に蔵(かく)さんと捽(ひねぐ)る時(とき)、只(た)だ聴(き)く、当(とう)の一声(ひとこえ)、腰間(ようかん=腰(こし)の間(あいだ))より一箇(ひとつ)の金(きん)を镶(ちりば)めたる牙牌(がはい=札(ふだ))の露(あらわ)れ出(い)づ。牌(はい)の上(うえ)に字(じ)有(あ)りて、写(うつ)して道(い)う、「心腹(しんぷく=腹心(ふくしん))の小校(しょうこう=小(ちい)さき武官(ぶかん))一名(いちめい)、有来有去(うらいうきょ)。五短(ごたん=寸詰(すんづま))りの身材(しんさい=体躯(たいく))、扢撻顔(こつたつれん=ごつごつし顔(かお))、須(ひげ)無(な)し。長川(ちょうせん=常(つね))に掛(か)け懸(か)く、牌(はい)無(な)ければ即(すなわ)ち仮(にせ)なり」と。
行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「此(こ)の奴(やつ)の名(な)を叫(よ)んで有来有去(うらいうきょ)と做(な)すに、此(こ)の棍子(こんし)一(ひと)つ、打(う)ち得(え)て有去無来(うきょむらい=去(さ)る有(あ)りて来(きた)る無(な)し)なり」と。牙牌(がはい)を将(もっ)て解(と)き下(おろ)し、腰(こし)の間(あいだ)に帯(たい)し、将(まさ)に尸骸(しがい=屍(しかばね))を捽(ひねぐ)り下(おろ)さんと欲(ほっ)すれど、又(また)却(かえ)って思量(しりょう=考(かんが))し起(おこ)すに烟火(えんか)の毒(どく)有(あ)れば、且(しばら)く敢(あ)えて彼(かれ)が洞府(どうふ)を尋(たず)ねず、即(すなわ)ち棍子(こんし)を将(もっ)て挙(あ)げ、小妖(しょうよう)が胸前(むねさき)に著(あ)てて一(ひと)たび搗(つ)き、空(くう)の中(うち)に挑(か)き上(あ)げ、径(ただ)ちに本国(ほんごく)に回(かえ)り、且(しばら)く当(あ)てて一箇(ひとつ)の頭功(とうこう=一番(いちばん)の手柄(てがら))を報(ほう)ず。汝(なんじ)看(み)よ彼(かれ)の自(みずか)ら思(おも)い自(みずか)ら念(ねん)じ、唿哨(こっしょう=口笛(くちぶえ))一声(ひとこえ)、国界(こっかい=国(くに)の境(さかい))に到(いた)る。
那(か)の八戒(はっかい)は金鑾殿(きんらんでん)の前(まえ)に在(あ)りて、正(まさ)に王師(おうし=王(おう)と師(し))を護持(ごじ)せるに、忽(たちま)ち頭(あたま)を回(めぐ)らして行者(ぎょうじゃ)の半空(はんくう)の中(うち)に在(あ)りて箇(ひと)の妖精(ようせい)を将(もっ)て挑(か)ぎ来(きた)るを見(み)、彼(かれ)却(かえ)って怨(うら)んで道(い)う、「噯(あい)! 打緊(たいしたこと)ならざるの売買(ばいばい=商売(しょうばい))なり! 早(はや)く知(し)らば老猪(ろうちょ)去(ゆ)きて拿(とら)え来(きた)りて、却(かえ)って我(われ)が一(ひと)つの功(こう)と算(かぞ)えざりしを」と。説(い)い未(いま)だ畢(おわ)らざるに、行者(ぎょうじゃ)雲頭(うんとう)を按(あん)じ落(おと)し、妖精(ようせい)を将(もっ)て階(きざはし)の下(もと)に捽(たた)き付(つ)く。八戒(はっかい)跑(はし)り上(あ)がって就(すなわ)ち一(ひと)つの鈀(は)を築(つ)いて道(い)う、「此(こ)れは是(こ)れ老猪(ろうちょ)の功(こう)なり」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「是(こ)れ汝(なんじ)の甚(なん)の功(こう)ぞ」と。八戒(はっかい)道(い)う、「我(われ)を頼(たの)まず、我(われ)に証見(しょうけん=証拠(しょうこ))有(あ)り! 汝(なんじ)看(み)ずや一(ひと)つの鈀(は)に九箇(ここの)つの眼子(がんし=穴(あな))を築(つ)きしを」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「汝(なんじ)看(み)よ頭(あたま)有(あ)るか頭(あたま)無(な)きかを」と。八戒(はっかい)笑(わら)って道(い)う、「元来(もと)是(こ)れ頭(あたま)の無(な)きなり! 我(われ)道(おも)えらく如何(いか)にして彼(かれ)を築(つ)くも也(また)彼(かれ)を動(うご)かさざるかと」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「師父(しふ)は那(いずこ)に在(まします)か」と。八戒(はっかい)道(い)う、「殿(でん)の裡(うち)に在(ましま)して王(おう)と話(はなし)を叙(の)べ給(たま)う」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「汝(なんじ)且(しばら)く去(ゆ)きて彼(かれ)を請(しょう)じて出(い)で来(きた)らしめよ」と。八戒(はっかい)急(いそ)ぎ殿(でん)に上(のぼ)りて頭(あたま)を点(うなず)かせば、三蔵(さんぞう)即(すなわ)ち便(すなわ)ち身(み)を起(おこ)して殿(でん)を下(お)り、行者(ぎょうじゃ)を迎(むか)う。行者(ぎょうじゃ)一封(いっぷう)の戦書(せんしょ)を将(もっ)て三蔵(さんぞう)が袖(そで)の裡(うち)に揣(いだ)きて道(い)う、「師父(しふ)収(おさ)め下(おろ)せ、且(しばら)く国王(こくおう)に見(み)えしむること莫(なか)れ」と。
説(い)い了(おわ)らざるに、那(か)の国王(こくおう)也(また)殿(でん)を下(お)り、行者(ぎょうじゃ)を迎(むか)えて道(い)う、「神僧孫長老(しんそうそんちょうろう)の来(きた)り給(たま)えるか! 妖(よう)を拿(とら)うるの事(こと)如何(いかん)」と。行者(ぎょうじゃ)手(て)の指(ゆび)を用(もち)いて指(さ)して道(い)う、「那(か)の階(きざはし)の下(もと)は是(こ)れ妖精(ようせい)ならずや、老孫(ろうそん)に打(う)ち殺(ころ)されたるなり」と。国王(こくおう)見(み)て道(い)う、「是(こ)れ便(すなわ)ち是(こ)れ箇(ひと)の妖(よう)の尸(しかばね)なれど、却(かえ)って是(こ)れ賽太歳(さいたいさい)ならず。賽太歳(さいたいさい)は寡人(かじん)親(みずか)ら彼(かれ)に二(ふた)たび見(まみ)えたり。
身長(しんちょう)丈八(じょうはち)、膊闊(はくかつ=肩幅(かたはば))五停(ごてい=五(いつ)つ分(ぶん))、面(おもて)金光(きんこう)に似(に)て、声(こえ)霹靂(へきれき=雷(かみなり))の如(ごと)し、那(いずく)んぞ是(こ)れ此(か)くの般(ごと)く鄙矮(ひわい=卑(いや)しく低(ひく))からんや。
行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「陛下(へいか)の認(みと)むるは、果(はた)して然(しか)らず。是(こ)れ一箇(ひとり)の事(こと)を報(ほう)ずるの小妖(しょうよう)の老孫(ろうそん)に撞(ぶつ)かり見(み)えしを、却(かえ)って先(ま)ず打(う)ち殺(ころ)し、挑(か)ぎ回(かえ)りて功(こう)を報(ほう)ぜるなり」と。国王(こくおう)大(おおい)に喜(よろこ)んで道(い)う、「好(よ)し! 好(よ)し! 好(よ)し! 該(まさ)に頭功(とうこう)と算(かぞ)うべし! 寡人(かじん)が此(ここ)に常(つね)に人(ひと)を差(つか)わして去(ゆ)きて打探(だたん=探(さぐ))らしむるも、更(さら)に曾(かつ)て箇(ひと)の的実(てきじつ=確(たし)かな情報(じょうほう))を得(え)ず。神僧(しんそう)の一出(いっしゅつ)に似(に)て、就(すなわ)ち一箇(ひとり)を捉(とら)えて回(かえ)り来(きた)るは、真(まこと)に神通(じんつう)なり」と。叫(よ)んで道(い)う、「暖酒(だんしゅ=燗(かん)した酒(さけ))を看(み=出(だ))せ! 長老(ちょうろう)と功(こう)を賀(が)せん」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「酒(さけ)を食(の)むは還(ま)た是(こ)れ小事(しょうじ)なり。我(われ)陛下(へいか)に問(と)わん、金聖宮(きんせいきゅう)の別(わか)るる時(とき)、曾(かつ)て箇(ひと)の甚(なん)の表記(ひょうき=形見(かたみ))をか留(とど)めしや。汝(なんじ)我(われ)に些児(さじ=少(すこ)し)と与(あた)えよ」と。
那(か)の国王(こくおう)表記(ひょうき)の二字(にじ)を説(と)くを聞(き)き、却(かえ)って刀剣(とうけん)の心(こころ)を剜(えぐ)るが似(ごと)し、忍(しの)ぶあたわず声(こえ)を失(うしの)って涙(なみだ)を下(くだ)り、説(と)いて道(い)う、
当年(とうねん)佳節(かせつ)朱明(しゅめい=夏(なつ))を慶(よろこ)びしに、太歳(たいさい)の凶妖(きょうよう)喊声(かんせい=叫(さけ)び声(ごえ))を発(はっ)す。
御妻(ぎょさい=后(きさき))を強奪(ごうだつ)して圧寨(あっさい=山賊(さんぞく)の女房(にょうぼう))と為(な)し、寡人(かじん)献(けん)じ出(いだ)して蒼生(そうせい=民(たみ))の為(ため)なり。
更(さら)に会(かい)うの話(はなし)并(なら)びに離(わか)るるの話(はなし)無(な)く、那(いずく)んぞ長亭(ちょうてい)共(とも)に短亭(たんてい)有(あ)らんや!
表記(ひょうき)香嚢(こうのう=香(かお)り袋(ぶくろ))全(まった)く影(かげ)無(な)く、今(いま)に至(いた)るまで我(われ)を撇(す)てて苦(くるし)く伶仃(れいてい=独(ひと)りぼっち)なり。
行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「陛下(へいか)は邇(ちか)くに在(ましま)すに、何(なん)を以(もっ)てか悩(なや)みと為(な)さんや。那(か)の娘娘(にゃんにゃん)既(すで)に表記(ひょうき)無(な)くんば、彼(かれ)の宮中(きゅうちゅう)に在(ましま)して、甚(なん)の心愛(しんあい=最愛(さいあい))の物(もの)有(あ)るや、我(われ)に一(ひと)つの件(くだり)を与(あた)うるも罷(よ)からん」と。国王(こくおう)道(い)う、「汝(なんじ)要(もと)めて怎(いか)にするや」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「那(か)の妖王(ようおう)は実(じつ)に神通(じんつう)有(あ)り、我(われ)彼(かれ)の烟(けむり)を放(はな)ち、火(ひ)を放(はな)ち、沙(すな)を放(はな)つを見(み)るに、果(はた)して是(こ)れ収(おさ)め難(がた)し。縦(たと)い収(おさ)むるも、又(また)恐(おそ)らくは娘娘(にゃんにゃん)の我(われ)が面(おもて)の生(な)れなるを見(み)て、肯(あえ)て我(われ)に跟(したが)いて国(くに)に回(かえ)らざらんことを。須(すべから)く是(こ)れ彼(かれ)が平日(へいじつ)の心愛(しんあい)の物(もの)一(ひと)つの件(くだり)を得(う)れば、彼(かれ)方(はじ)めて我(われ)を信(しん)じ、我(われ)好(よ)く彼(かれ)を帯(たい)して回(かえ)り来(きた)る。此(こ)の為(ため)に故(ゆえ)に帯(たい)し去(ゆ)かんことを要(よう)す」と。国王(こくおう)道(い)う、「昭陽宮(しょうようきゅう)の裡(うち)の梳妝閣(そそうかく=化粧(けしょう)の間(ま))の上(うえ)に、一(ひと)つの双(そう=二(ふた)つ)の黄金宝串(おうごんほうかん=黄金(おうごん)の腕輪(うでわ))有(あ)り。元(もと)是(こ)れ金聖宮(きんせいきゅう)が手(て)の上(うえ)に帯(たい)せし者(もの)なれど、只(た)だ那(か)の日(ひ)の端午(たんご)に五彩(ごさい)の線(いと)を縛(しば)らんと要(よう)するに因(よ)り、此(こ)の故(ゆえ)に褪(ぬ)ぎ下(おろ)して、曾(かつ)て帯(たい)し上(あ)げず。此(こ)れ乃(すなわ)ち是(こ)れ彼(かれ)が心愛(しんあい)の物(もの)にして、如今(いま)現(げん)に簡妝盒(かんそうごう=化粧箱(けしょうばこ))の裡(うち)に収(おさ)め在(あ)り。寡人(かじん)彼(かれ)が此(こ)の離別(りべつ)に遭(あ)うを見(み)、更(さら)に忍(しの)びて見(み)ること能(あた)わず、一(ひと)たび見(み)れば即(すなわ)ち彼(かれ)が玉容(ぎょくよう=美(うつく)しき顔(かお))を見(み)るが如(ごと)くにして、病(やまい)又(また)幾分(いくぶん)か重(おも)くなるなり」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「且(しばら)く此(こ)の話(はなし)を題(だい)すること休(や)めよ、且(しばら)く金串(きんかん=黄金(おうごん)の腕輪(うでわ))を将(もっ)て取(と)り来(きた)れ。若(も)し舎(す)つるを得(う)れば、都(すべ)て我(われ)に与(あた)えて拿(と)り去(ゆ)かしめよ。若(も)し舎(す)てずんば、只(た)だ一(ひと)つの隻(せき=片方(かたほう))を拿(と)り去(ゆ)かん」と。
国王(こくおう)遂(つい)に玉聖宮(ぎょくせいきゅう)を命(めい)じて取(と)り出(いだ)さしめ、取(と)り出(いだ)して即(すなわ)ち国王(こくおう)に逓(わた)す。国王(こくおう)見(み)て、幾声(いくこえ)かの痛(いた)みを知(し)り熱(あつ)きを著(つ)くるの娘娘(にゃんにゃん)を叫(よ)び、遂(つい)に行者(ぎょうじゃ)に逓(わた)す。行者(ぎょうじゃ)接(う)けて、肐膊(かくはく=腕(うで))の上(うえ)に套(かぶ)せたり。
好(よ)き大聖(たいせい)かな、功酒(こうしゅ=手柄(てがら)の酒(さけ))を食(くら)わず、且(しばら)く筋斗雲(きんとううん)に駕(が)し、唿哨(こっしょう)一声(ひとこえ)、又(また)麒麟山(きりんざん)の上(うえ)に至(いた)り、心(こころ)に景(けい=景色(けしき))を玩(もてあそ)ぶ無(な)く、径(ただ)ちに洞府(どうふ)を尋(たず)ねて去(ゆ)く。正(まさ)に行(ゆ)く時(とき)、只(た)だ聴(き)く、人語(じんご=人(ひと)の声(こえ))の喧嚷(けんじょう=騒(さわ)がし)きを。即(すなわ)ち佇立(ちょりつ=立(た)ち止(ど))まって睛(ひとみ)を凝(こ)らして観(み)るに、元来(もと)那(か)の獬豸洞(かいちどう)の口(くち)の門(もん)を把(まも)るの大小(だいしょう)の頭目(とうもく)は、約摸(やくはか=おおよそ)五百名(ごひゃくめい)有(あ)りて、那(そこ)に在(あ)りて、
森森(しんしん)として羅列(られつ)し、密密(みつみつ)として挨排(あいはい=押(お)し合(あ)い並(なら))ぶ。
森森(しんしん)として羅列(られつ)し干戈(かんか=盾(たて)と矛(ほこ))を執(と)り、日(ひ)に映(えい)じて光明(こうみょう)たり。
密密(みつみつ)として挨排(あいはい)し旌旗(せいき=旗(はた))を展(の)べ、風(かぜ)を迎(むか)えて飄閃(ひょうせん=ひらひら)たり。
虎将(こしょう=虎(とら)の将(しょう))熊師(ゆうし=熊(くま)の師(し))能(よ)く変化(へんげ)し、豹頭(ひょうとう=豹(ひょう)の頭(かしら))彪帥(ひょうすい=彪(ひょう)の帥(すい))精神(せいしん)を弄(ろう)す。
蒼狼(そうろう=蒼(あお)き狼(おおかみ))猛烈(もうれつ)多(おお)く、獺象(たいぞう=獺(かわうそ)と象(ぞう))更(さら)に驍雄(ぎょうゆう=勇猛(ゆうもう))なり。
狡兔(こうと=狡(ずる)き兔(うさぎ))乖獐(かいしょう=賢(かしこ)き鹿(しか))剣戟(けんげき)を輪(めぐ)らし、長蛇(ちょうだ)大蟒(だいもう)刀弓(とうきゅう)を挎(か)ける。
猩猩(しょうじょう)能(よ)く人(ひと)の言語(げんご)を解(げ)し、陣(じん)を引(ひ)き営(えい)を安(やす)んじて汛風(じんぷう=風向(かざむ)き)を識(し)る。
行者(ぎょうじゃ)見(み)て、敢(あ)えて前進(ぜんしん)せず、身(み)を抽(ひ)いて径(ただ)ちに旧路(きゅうろ=元(もと)の道(みち))に転(てん)ず。汝(なんじ)道(い)わんか彼(かれ)の身(み)を抽(ひ)きしは怎(いか)にと。是(こ)れ彼(かれ)を怕(おそ)るるならず、彼(かれ)却(かえ)って那(か)の小妖(しょうよう)を打(う)ち殺(ころ)せし処(ところ)に至(いた)り、黄旗(こうき)銅鑼(どうら)を尋(たず)ね出(いだ)し、風(かぜ)に迎(むか)って訣(けつ=印(いん))を捏(ねん)じ、想象(そうぞう=心(こころ)に描(えが))し騰那(とうな=身(み)を翻(ひるがえ))し、即(すなわ)ち身(み)を揺(ゆ)って一(ひと)たび変(へん)じ、変(へん)じて那(か)の有来有去(うらいうきょ)の形姿(けいし=姿(すがた))と做(な)り、乒乓(ひんぽう=ちんちん)と鑼(どら)を敲(たた)き、大(おお)いなる步(あゆみ)を踏(ふ)み、一(ひと)すじに前(まえ)へ来(きた)り、径(ただ)ちに獬豸洞(かいちどう)に撞(つ)き至(いた)る。正(まさ)に将(まさ)に洞(どう)の景(けい)を看(み)んと欲(ほっ)するに、只(た)だ聞(き)く、猩猩(しょうじょう)の語(ことば)を出(いだ)して道(い)う、「有来有去(うらいうきょ)、汝(なんじ)回(かえ)り来(きた)れるか」と。行者(ぎょうじゃ)只(た)だ得(え)ず答(こた)えて道(い)う、「来(きた)れり」と。猩猩(しょうじょう)道(い)う、「快(すみや)か走(はし)れ! 大王爺爺(だいおうやや)正(まさ)に剥皮亭(はくひてい=皮(かわ)を剥(は)ぐ亭(てい))の上(うえ)に在(ましま)して汝(なんじ)が回話(かいわ=復命(ふくめい))するを等(ま)ち給(たま)うなり」と。
行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)き、步(あゆみ)を引(ひ)き開(ひら)き、鑼(どら)を敲(たた)き、径(ただ)ちに前門(ぜんもん)の裡(うち)に入(い)りて看(み)る処(ところ)、元来(もと)是(こ)れ懸崖(けんがい=険(けわ)しき崖(がけ))削壁(さくへき=削(けず)り立(た)つ壁(かべ))の石屋(せきおく=石(いし)の家(いえ))虚堂(きょどう=広(ひろ)き間(ま))にして、左右(さゆう)に琪花(きか=美(うつく)しき花(はな))瑶草(ようそう)有(あ)り、前後(ぜんご)に古柏(こはく=古(ふる)き柏(かしわ))喬松(きょうしょう=高(たか)き松(まつ))多(おお)し。覚(おぼ)えず又(また)二門(にもん)の内(うち)に至(いた)り、忽(たちま)ち頭(あたま)を挙(あ)げて一(ひと)つの座(ざ)の八窓(はっそう=八(やっ)つの窓(まど))の明亮(めいりょう=明(あか)る)き亭子(ていじ=亭(てい))を見(み)る。亭子(ていじ)の中間(ちゅうかん)に一張(いっちょう)の金(きん)を戧(そう=象眼(ぞうがん))せし交椅(こうい=椅子(いす))有(あ)り、椅子(いす)の上(うえ)に端(ただし)く坐(ざ)せる一箇(ひとり)の魔王(まおう)有(あ)り、真(まこと)に箇(こ)悪(あ)しき象(すがた)を生(しょう)じたり。但(た)だ見(み)よ彼(かれ)を、
幌幌(こうこう=きらきら)として霞光(かこう=霞(かすみ)の光(ひかり))頂上(ちょうじょう)に生(しょう)じ、威威(いい=いかめし)として殺気(さっき)胸前(むねさき)に迸(ほとばし)る。
口外(こうがい=口(くち)の外(そと))の獠牙(りょうが=牙(きば))利刃(りじん=鋭(するど)き刃(やいば))を排(なら)べ、鬢辺(びんぺん=鬢(びん)の辺(ほとり))の焦髪(しょうはつ=焦(こ)げし髪(かみ))紅烟(こうえん)を発(はっ)す。
嘴上(しじょう=口(くち)の上(うえ))の髭須(ししゅ=髭(ひげ))箭(や)を插(さ)すが如(ごと)く、遍体(へんたい=身(み)じゅう)の昂毛(こうもう=逆立(さかだ)ちし毛(け))氈(せん=毛氈(もうせん))を迭(かさ)ぬるに似(に)たり。
眼(まなこ)突(つ)き出(い)でて銅鈴(どうれい=銅(どう)の鈴(すず))の太歳(たいさい)を欺(あざむ)き、手(て)に鉄杵(てっしょ=鉄(てつ)の杵(きね))を執(と)ること摩天(まてん=天(てん)を摩(ま))するが若(ごと)し。
行者(ぎょうじゃ)見(み)て、公然(こうぜん=平気(へいき))として那(か)の妖精(ようせい)を傲慢(ごうまん=見下(みくだ))し、更(さら)に些児(さじ=少(すこ)し)の礼法(れいほう)にも循(したが)わず、臉(かお)を調(めぐ)らし転(てん)じて外(そと)に朝(むか)い、只(た)だ管(かま)わず鑼(どら)を敲(たた)く。妖王(ようおう)問(と)うて道(い)う、「汝(なんじ)来(きた)れるか」と。行者(ぎょうじゃ)答(こた)えず、又(また)問(と)う、「有来有去(うらいうきょ)、汝(なんじ)来(きた)れるか」と。也(また)答(こた)えず。妖王(ようおう)上前(じょうぜん)に扯(ひ)き住(とど)めて道(い)う、「汝(なんじ)怎(いか)でか家(いえ)に到(いた)りて還(ま)た鑼(どら)を篩(ふる)うや、之(これ)を問(と)うに又(また)答(こた)えず、何(なん)ぞや」と。行者(ぎょうじゃ)鑼(どら)を把(と)って地(ち)の下(した)へ一(ひと)たび掼(たたきつ)けて道(い)う、「甚(なん)の何也(かなん)ぞ、何也(かなん)ぞ! 我(われ)我(われ)の去(ゆ)かずと説(い)いしに、汝(なんじ)却(かえ)って我(われ)をして去(ゆ)かしめたり。行(ゆ)きて那(か)の廂(かた)に到(いた)り、只(た)だ見(み)る、無数(むすう)の人馬(じんば)の陣勢(じんせい)を列(つら)ね成(な)せるが、我(われ)を見(み)て、就(すなわ)ち都(すべ)て叫(よ)ぶ、妖精(ようせい)を拿(とら)えよ! 妖精(ようせい)を拿(とら)えよと。我(われ)を把(と)って揪揪扯扯(しゅうしゅうしゃしゃ=引(ひ)っ掴(つか)み引(ひ)っ張(ぱ))り、引(ひ)き引(ひ)き扛(か)ぎ扛(か)ぎ、拿(とら)えて城(しろ)の裡(うち)に入(い)り去(ゆ)き、那(か)の国王(こくおう)に見(まみ)えしに、国王(こくおう)便(すなわ)ち斬(き)らしめんとせしが、幸(さいわ)いに那(か)の両班(りょうはん)の謀士(ぼうし=参謀(さんぼう))の両家(りょうけ)の相争(あいあらそ)うに来使(らいし=使者(ししゃ))を斬(き)らずと道(い)うに虧(よ)りて、我(われ)を把(と)って饒(ゆる)され、戦書(せんしょ)を収(おさ)め、又(また)押(お)し出(いだ)して城(しろ)の外(そと)に至(いた)らしめ、軍前(ぐんぜん=陣(じん)の前(まえ))に対(たい)して三十(さんじゅう)の順腿(じゅんたい=腿(もも)を打(う)つ刑(けい))を打(う)たれ、放(はな)たれて我(われ)を回話(かいわ)に来(きた)らしめたり。彼(かれ)が那(そこ)に久(ひさ)しからずして就(すなわ)ち此(ここ)に来(きた)りて汝(なんじ)と交戦(こうせん)せんとす」と。
妖王(ようおう)道(い)う、「此(か)くの如(ごと)く説(と)かば、是(こ)れ汝(なんじ)が虧(そこない)を食(くら)いたるなり、怪(あやし)むらくは汝(なんじ)を問(と)うに更(さら)に言語(げんご)せざるは」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「却(かえ)って怎(いか)でか是(こ)れ、只(た)だ疼(いたみ)を護(まも)るが為(ため)に、故(ゆえ)に以(もっ)て答(こた)えざるなり」と。妖王(ようおう)道(い)う、「那(そこ)に幾(いく)らの人馬(じんば)有(あ)るや」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「我(われ)也(また)唬(おどろ)き昏(くら)み、又(また)彼(かれ)が打(う)つに怕(おそ)るるを食(くら)い、那(いずく)んぞ曾(かつ)て彼(かれ)が人馬(じんば)の数(かず)の目(もく)を査(しら)べんや! 只(た)だ見(み)る、那(そこ)に森森(しんしん)として兵器(へいき)の擺(なら)び列(つら)なれるは、
弓箭(きゅうせん)刀槍(とうそう)甲(よろい)与(と)衣(い)、干戈(かんか)剣戟(けんげき)并(なら)びに縄旗(じょうき=飾(かざ)り旗(はた))。
剽槍(ひょうそう)月鏟(げっさん)兜鍪(とうぼう=兜(かぶと))鎧(よろい)、大斧(だいふ)団牌(だんぱい=丸(まる)い盾(たて))鉄蒺藜(てつしつり=鉄(てつ)の茨(いばら))。
長(なが)き悶棍(もんこん=棍棒(こんぼう))、短(みじか)き窩槌(かすい=槌(つち))、鋼叉(こうさ=鋼(はがね)の叉(また))銃(じゅう)鉋(ほう)及(およ)び頭盔(とうかい=兜(かぶと))。
打扮(だはん=身支度(みじたく))し得(え)て靴(くつ)鞋(わらじ)護頂(ごちょう=兜(かぶと))并(なら)びに胖襖(ぼうおう=綿入(わたい)れ)、簡鞭(かんべん=鞭(むち))袖弾(しゅうだん=袖(そで)の弾(たま))与(と)銅錘(どうすい=銅(どう)の槌(つち))。
那(か)の王(おう)聴(き)きて笑(わら)って道(い)う、「打緊(たいしたこと)ならず! 打緊(たいしたこと)ならず! 此(か)くの般(ごと)きの兵器(へいき)に似(に)たるは、一火(いっか=一(ひと)たびの火(ひ))に皆(みな)空(むな)し。汝(なんじ)且(しばら)く去(ゆ)きて金聖娘娘(きんせいにゃんにゃん)に報(ほう)じて知(し)らしめ、彼(かれ)をして悩(なや)むこと莫(なか)らしめよ。今朝(けさ)彼(かれ)我(われ)が狠(こん=荒(あら))く発(はっ)して、去(ゆ)きて戦闘(せんとう)せんとすと聞(き)き、彼(かれ)就(すなわ)ち眼泪(がんるい)汪汪(おうおう)として干(ほ)さざりしなり。汝(なんじ)如今(いま)去(ゆ)きて那(か)の人馬(じんば)の驍勇(ぎょうゆう=勇(いさ)まし)く、必(かなら)ず我(われ)に勝(まさ)ると説(と)かば、且(しばら)く彼(かれ)が一時(いちじ)の心(こころ)を寛(ひろ)くせん」と。
行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)き十分(じゅうぶん)に歓喜(かんき)して道(い)う、「正(まさ)に老孫(ろうそん)が意(い)に中(あた)れり」と。汝(なんじ)看(み)よ彼(かれ)は偏(ひとえ)に是(こ)れ路(みち)に熟(な)れ、角門(かくもん=隅(すみ)の門(もん))を転(まわ)り過(す)ぎ、庁堂(ちょうどう=広間(ひろま))を穿(つらぬ)き過(す)ぐ。那(か)の裡辺(うち)は尽(ことごと)く都(すべ)て是(こ)れ高堂(こうどう)大厦(だいか=大(おお)きき家(いえ))にして、更(さら)に前辺(まえ)の形姿(けいし=姿(すがた))に似(に)ず、直(ただ)ちに後面(うしろ)の宮(きゅう)の裡(うち)に到(いた)れば、遠(とお)く彩門(さいもん=彩(いろど)りの門(もん))の壮麗(そうれい)なるを見(み)る、乃(すなわ)ち是(こ)れ金聖娘娘(きんせいにゃんにゃん)の住処(じゅうじょ)なり。
直(ただ)ちに裡(うち)の面(めん)に入(い)りて看(み)る時(とき)、両班(りょうはん)の妖狐(ようこ=妖(あや)しき狐(きつね))妖鹿(ようろく=妖(あや)しき鹿(しか))有(あ)りて、一(ひと)り一(ひと)り都(すべ)て美女(びじょ)の形(かたち)に妝(よそお)い成(な)り、左右(さゆう)に侍立(じりつ=付(つ)き従(したが))い、正(まさ)ん中(なか)に坐(ざ)せる那(か)の箇(こ)の娘娘(にゃんにゃん)有(あ)り、手(て)に香腮(こうさい=香(かんば)しき頬(ほお))を托(たく)し、双眸(そうぼう=両(ふた)つの瞳(ひとみ))涙(なみだ)を滴(したた)らす。果(はた)して是(こ)れ、
玉容(ぎょくよう=玉(たま)の如(ごと)き顔(かお))嬌嫩(きょうどん=若々(わかわか)しく)にして、美貌(びぼう)妖嬈(ようじょう=艶(なまめ)か)し。
梳妝(そそう=化粧(けしょう))に懶(ものう)く、散(みだ)れし鬢(びん)に鴉(あ=烏(からす)の羽(はね)の色(いろ))を堆(うずたか)くし、打扮(だはん=身支度(みじたく))を怕(おそ)れて、釵環(さかん=簪(かんざし)と環(わ))を戴(いただ)かず。
面(おもて)に粉(おしろい)無(な)く、胭脂(えんじ=頬紅(ほおべに))を冷淡(れいたん=薄(うす))くし、髪(かみ)に油(あぶら)無(な)く、雲鬢(うんびん=雲(くも)の如(ごと)き鬢(びん))を蓬松(ほうしょう=ぼうぼう)とさす。
桜唇(おうしん=桜(さくら)の如(ごと)き唇(くちびる))を努(つきだ)し、銀牙(ぎんが=白(しろ)き歯(は))を緊(きつ)と咬(か)み、蛾眉(がび=蛾(が)の眉(まゆ))を皺(しか)めて、星眼(せいがん=星(ほし)の如(ごと)き眼(まなこ))に涙(なみだ)淹(おお)う。
一片(いっぺん)の心(こころ)、只(た)だ朱紫(しし)の君王(くんおう)を憶(おも)い、一時間(いちじかん=一刻(いっこく))も、天羅地網(てんらちもう=天(てん)と地(ち)の網(あみ))を離(はな)るる을恨(うら)む。
誠(まこと)に是(こ)れ、古(いにしえ)より紅顔(こうがん=美(うつく)しき顔(かお))は薄命(はくめい)多(おお)く、懨懨(えんえん=物憂(ものう))げとして語(ことば)無(な)く東風(とうふう)に対(たい)す。
行者(ぎょうじゃ)上前(じょうぜん)に箇(ひと)の問訊(もんじん=合掌(がっしょう)の挨拶(あいさつ))を打(う)って道(い)う、「接喏(せつじゃく=お辞儀(おじぎ))」と。那(か)の娘娘(にゃんにゃん)道(い)う、「此(こ)の潑村怪(はつそんかい=無礼(ぶれい)な田舎者(いなかもの)の怪(かい))め、十分(じゅうぶん)に無状(ぶじょう=無礼(ぶれい))なり! 想(おも)うに我(われ)が那(か)の朱紫国(ししこく)の中(うち)に在(ましま)して、王(おう)と同(とも)に栄華(えいが)を享(う)けし時(とき)は、那(か)の太師(たいし)宰相(さいしょう)も我(われ)を見(み)れば、就(すなわ)ち塵埃(じんあい=地(ち)の土(つち))に俯伏(ふふく=平伏(へいふく))し、敢(あ)えて仰(あお)ぎ視(み)ざりしに、此(こ)の野怪(やかい=野暮(やぼ)な怪(かい))怎(いか)でか一声(ひとこえ)の接喏(せつじゃく)を叫(よ)ぶや。是(こ)れ那(いずこ)より来(きた)れるの此(か)くの般(ごと)く村潑(そんはつ=粗野(そや)で無礼(ぶれい))なる者(もの)ぞ」と。
衆侍婢(しゅうしひ=侍女(じじょ)たち)上前(じょうぜん)に道(い)う、「太太(たいたい=奥方(おくがた))怒(いかり)を息(い)こわせたまえ、彼(かれ)は是(こ)れ大王爺爺(だいおうやや)の心腹(しんぷく)の小校(しょうこう)にして、名(な)を有来有去(うらいうきょ)と喚(よ)ぶ。今朝(けさ)戦書(せんしょ)を下(くだ)すに差(つか)わされしは彼(かれ)なり」と。娘娘(にゃんにゃん)説(と)くを聞(き)き、怒(いかり)を忍(しの)んで問(と)うて曰(いわ)く、「汝(なんじ)戦書(せんしょ)を下(くだ)すに、曾(かつ)て朱紫国(ししこく)の界(さかい)に到(いた)りしか」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「我(われ)書(ふみ)を持(たも)ちて直(ただ)ちに城(しろ)の裡(うち)に至(いた)り、金鑾殿(きんらんでん)に到(いた)り、君王(くんおう)に面見(めんけん=直接(ちょくせつ)お目(め)にかか)り、已(すで)に回音(かいおん=返答(へんとう))を討(もと)め来(きた)れるなり」と。娘娘(にゃんにゃん)道(い)う、「汝(なんじ)君(きみ)に面(めん)せしに、君(きみ)に何(なん)の言(げん)有(あ)りしか」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「那(か)の君王(くんおう)が敵(てき)と戦(たたか)わんの言(げん)并(なら)びに兵(へい)を排(なら)べ陣(じん)を布(し)くの事(こと)は、才(さい=たった今(いま))大王(だいおう)に説(と)き了(おお)せたり。只(た)だ是(こ)れ那(か)の君王(くんおう)に娘娘(にゃんにゃん)を思想(しそう=慕(した))うの意(い)有(あ)り、一(ひと)つの句(く)の心(こころ)に合(がっ)するの話児(わじ=話(はなし))有(あ)りて、特(こと)に来(きた)りて上稟(じょうひん=申(もう)し上(あ))げんとすれど、奈何(いかん)せん左右(さゆう)に人(ひと)の衆(おお)きは、是(こ)れ説(と)くの処(ところ)ならず」と。娘娘(にゃんにゃん)言(げん)を聞(き)き、両班(りょうはん)の狐鹿(ころく=狐(きつね)と鹿(しか))を喝(かつ)し退(しりぞ)く。
行者(ぎょうじゃ)宮門(きゅうもん)を掩(おお)い上(あ)げ、臉(かお)を把(と)って一(ひと)たび抹(な)づり、本象(ほんぞう)を現(あらわ)し、娘娘(にゃんにゃん)に対(たい)して道(い)う、「汝(なんじ)我(われ)を懼(おそ)るること休(や)めよ、我(われ)は是(こ)れ東土(とうど)大唐(だいとう)より大西天(だいせいてん)天竺国(てんじくこく)雷音寺(らいおんじ)へ差(つか)わされ、仏(ほとけ)に見(まみ)えて経(きょう)を求(もと)めんとするの和尚(おしょう)なり。我(わ)が師父(しふ)は是(こ)れ唐王(とうおう)の御弟(ぎょてい)唐三蔵(とうさんぞう)、我(われ)は是(こ)れ彼(かれ)が大徒弟(だいとてい)孫悟空(そんごくう)なり。汝(なんじ)が国(くに)を過(す)ぎて関文(かんぶん)を倒換(とうかん)するに因(よ)り、汝(なんじ)が君臣(くんしん)の榜(ぼう)を出(いだ)して医(い)を招(まね)くを見(み)、是(こ)れ我(われ)が大(おおい)に三折(さんせつ)の肱(こう)を施(ほどこ)して、彼(かれ)が相思(そうし=恋(こい)い慕(した))いの病(やまい)を治(ぢ)し好(よ)くせしめたり。宴(うたげ)を排(なら)べて我(われ)に謝(しゃ)し、酒(さけ)を飲(の)むの間(あいだ)に、汝(なんじ)の妖(よう)に摂(さら)われ来(きた)れるを説(と)き出(いだ)し、我(われ)の会(え)して竜(りゅう)を降(くだ)し虎(とら)を伏(ふく)するを知(し)れば、特(こと)に我(われ)を請(しょう)じて来(きた)らしめ、怪(かい)を捉(とら)え、汝(なんじ)を救(すく)いて国(くに)に回(かえ)らしめんとす。那(か)の先鋒(せんぽう)を戦(たたか)い敗(やぶ)りしは是(こ)れ我(われ)なり、小妖(しょうよう)を打(う)ち殺(ころ)ししも也(また)是(こ)れ我(われ)なり。我(われ)彼(かれ)が門外(もんがい)の凶狂(きょうきょう=凶暴(きょうぼう))なるを見(み)、是(こ)れ我(われ)が変(へん)じて有来有去(うらいうきょ)の形姿(けいし=姿(すがた))と作(な)り、身(み)を舎(す)てて此(ここ)に到(いた)り、汝(なんじ)と信(しん)を通(つう)ずるなり」と。
那(か)の娘娘(にゃんにゃん)説(と)くを聞(き)き、沈吟(ちんぎん=思(おも)い沉(しず))んで語(かた)らず。行者(ぎょうじゃ)宝串(ほうかん=腕輪(うでわ))を取(と)り出(いだ)し、双手(そうしゅ)に奉(たてまつ)って道(い)う、「汝(なんじ)若(も)し信(しん)ぜずんば、此(こ)の物(もの)の何(いずこ)より来(きた)れるかを看(み)よ」と。娘娘(にゃんにゃん)一(ひと)たび見(み)て涙(なみだ)を垂(た)れ、座(ざ)を下(お)りて拝謝(はいしゃ)して道(い)う、「長老(ちょうろう)よ、汝(なんじ)果(はた)して是(こ)れ我(われ)を救(すく)いて朝(ちょう)に回(かえ)るを得(う)れば、歯(は)の没(な)きまでも大恩(だいおん)を忘(わす)れず」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「我(われ)且(しばら)く汝(なんじ)に問(と)わん、彼(かれ)が那(か)の火(ひ)を放(はな)ち、烟(けむり)を放(はな)ち、沙(すな)を放(はな)つは、是(こ)れ件(くだり)の甚(なん)の宝貝(ほうばい)なるや」と。娘娘(にゃんにゃん)道(い)う、「那(いずく)んぞ是(こ)れ甚(なん)の宝貝(ほうばい)ならんや! 乃(すなわ)ち是(こ)れ三箇(みっつ)の金鈴(きんれい=金(きん)の鈴(すず))なり。彼(かれ)頭(はじめ)の一箇(ひとつ)を将(もっ)て一(ひと)たび幌(ひるがえ)せば、三百丈(さんびゃくじょう)の火光(かこう)の人(ひと)を焼(や)く有(あ)り、第二(だいに)の一箇(ひとつ)を一(ひと)たび幌(ひるがえ)せば、三百丈(さんびゃくじょう)の烟光(えんこう=煙(けむり)の光(ひかり))の人(ひと)を熏(くす)ぶる有(あ)り、第三(だいさん)の一箇(ひとつ)を一(ひと)たび幌(ひるがえ)せば、三百丈(さんびゃくじょう)の黄沙(こうさ=黄(き)い砂(すな))の人(ひと)を迷(まよ)わす有(あ)り。烟火(えんか)は還(ま)た打緊(たいしたこと)ならず、只(た)だ是(こ)れ黄沙(こうさ)の最(もっと)も毒(どく)なるにして、若(も)し人(ひと)の鼻(はな)の孔(あな)に潜(もぐ)り入(い)らば、就(すなわ)ち性命(せいめい)を傷(そこな)わん」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「利害(りがい=手強(てごわ))し! 利害(りがい)し! 我(われ)曾(かつ)て之(これ)に著(あ)いて、二箇(ふたつ)の嚏噴(ていふん=くしゃみ)を打(う)てり。却(かえ)って彼(かれ)が鈴児(れいじ=鈴(すず))の何処(いずこ)に放(お)き在(あ)るかを知(し)らず」と。娘娘(にゃんにゃん)道(い)う、「彼(かれ)那(なん)ぞ肯(あえ)て放(お)ろし下(おろ)さんや、只(た)だ是(こ)れ腰間(ようかん)に帯(たい)し、行(ゆ)くも住(とどま)るも坐(ざ)するも臥(ふ)するも、再(ま)た身(み)を離(はな)れず」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「汝(なんじ)若(も)し朱紫国(ししこく)に意(い)有(あ)りて、還(ま)た国王(こくおう)と相会(あいまみ)えんことを要(よう)せば、那(か)の煩悩(ぼんのう)憂愁(ゆうしゅう)を把(と)って、都(すべ)て且(しばら)く権(かり)に解(と)き、箇(ひと)の風流(ふうりゅう=艶(なまめ)かし)き喜悦(きえつ)の容(かたち)を出(いだ)し、彼(かれ)と箇(ひと)の夫妻(ふさい)の情(じょう)を叙(の)べ、彼(かれ)をして鈴児(れいじ)を把(と)って汝(なんじ)に収貯(しゅうちょ=預(あず))けしめよ。我(われ)の便(つごう)に乗(じょう)じて偷(ぬす)み、此(こ)の妖怪(ようかい)を降(くだ)すを待(ま)て、其(そ)の時節(じせつ)、好(よ)く汝(なんじ)を帯(たい)して回(かえ)り去(ゆ)き、重(かさ)ねて鸞鳳(らんぽう=夫婦(ふうふ))を諧(かな)え、共(とも)に安寧(あんねい)を享(う)けん」と。那(か)の娘娘(にゃんにゃん)言(げん)に依(よ)る。
此(こ)の行者(ぎょうじゃ)還(ま)た心腹(しんぷく)の小校(しょうこう)に変(へん)じて、宮門(きゅうもん)を開(ひら)き、左右(さゆう)の侍婢(しひ)を喚(よ)び入(い)る。娘娘(にゃんにゃん)叫(よ)んで道(い)う、「有来有去(うらいうきょ)よ、快(すみや)か前亭(ぜんてい=前(まえ)の亭(てい))へ往(ゆ)き、汝(なんじ)が大王(だいおう)を請(しょう)じて来(きた)らしめ、彼(かれ)と話(はなし)を説(と)かん」と。好(よ)き行者(ぎょうじゃ)かな、一声(ひとこえ)に応(こた)え、即(すなわ)ち剥皮亭(はくひてい)に至(いた)りて妖精(ようせい)に対(たい)して道(い)う、「大王(だいおう)、聖宮娘娘(せいきゅうにゃんにゃん)の請(しょう)じ給(たま)う有(あ)り」と。妖王(ようおう)歓喜(かんき)して道(い)う、「娘娘(にゃんにゃん)は常時(つね)只(た)だ罵(ののし)るのみなるに、怎(いか)でか今日(こんにち)請(しょう)ずる有(あ)るや」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「那(か)の娘娘(にゃんにゃん)朱紫国王(ししこくこくおう)の事(こと)を問(と)いしに、是(こ)れ我(われ)が彼(かれ)は汝(なんじ)を要(よう)せず、彼(かれ)が国(くに)の中(うち)に別(べつ)に皇后(こうごう)を扶(たす)けたりと説(と)きしに、娘娘(にゃんにゃん)説(と)くを聞(き)き、此(こ)の故(ゆえ)に以(もっ)て想(おも)う頭(かしら=気持(きも)ち)没了(な)くして、方(はじ)めて才(はじ)めて我(われ)をして来(きた)りて奉請(ほうせい)せしめたるなり」と。妖王(ようおう)大(おおい)に喜(よろこ)んで道(い)う、「汝(なんじ)却(かえ)って中(あた)りて用(もち)いらる。我(われ)の彼(かれ)が国(くに)を剿除(そうじょ=討(う)ち平(たいら))げんを待(ま)ちて、汝(なんじ)を封(ほう)じて箇(ひと)の朝(ちょう)に随(したが)うの太宰(たいさい=宰相(さいしょう))と為(な)さん」と。行者(ぎょうじゃ)口(くち)に順(したが)って恩(おん)を謝(しゃ)し、疾(と)く妖王(ようおう)と後宮(こうきゅう)の門(もん)の首(ほとり)に来(きた)り至(いた)る。那(か)の娘娘(にゃんにゃん)歓容(かんよう=喜(よろこ)びの顔(かお))して迎(むか)え、就(すなわ)ち去(ゆ)きて手(て)を用(もち)いて相(あい)攙(たす)けんとせしに、那(か)の妖王(ようおう)喏喏(じゃくじゃく=へいへい)として而(しか)して退(しりぞ)きて道(い)う、「不敢不敢(ふかんふかん=とんでもない)! 多(おお)く娘娘(にゃんにゃん)の下愛(かあい=ご厚意(こうい))を承(うけたまわ)るも、我(われ)手(て)の痛(いた)むを怕(おそ)るれば、敢(あ)えて相(あい)傍(そばだ)たず」と。
娘娘(にゃんにゃん)道(い)う、「大王(だいおう)請(こ)う坐(ざ)せよ、我(われ)汝(なんじ)と説(と)かん」と。妖王(ようおう)道(い)う、「話(はなし)有(あ)らば但(た)だ説(と)くに妨(さまた)げ無(な)し」と。娘娘(にゃんにゃん)道(い)う、「我(われ)大王(だいおう)の辱愛(じょくあい=身(み)に余(あま)る寵愛(ちょうあい))を蒙(こうむ)り、今(いま)已(すで)に三年(さんねん)なるも、未(いま)だ枕(まくら)を共(とも)にし衾(ふすま)を同(おな)じくするを得(え)ざるは、也(また)是(こ)れ前世(ぜんせ)の縁(えにし)にして、此(こ)の場(ば)の夫妻(ふさい)と做(な)りしなり。誰(たれ)か知(し)らん、大王(だいおう)の我(われ)を外(ほか=疎(うと)ん)ずるの意(い)有(あ)りて、夫妻(ふさい)を以(もっ)て相待(あいま)たざるを。我(われ)想(おも)うに当時(そのかみ)朱紫国(ししこく)に在(ましま)して后(きさき)為(た)りし時(とき)、外邦(がいほう=外国(がいこく))の凡(およ)そ進貢(しんこう=貢(みつ)ぎ)の宝(たから)有(あ)れば、君(きみ)看(み)畢(おわ)りて、一定(きっと)后(きさき)に与(あた)えて之(これ)を収(おさ)めしめたり。汝(なんじ)が此(ここ)には更(さら)に甚(なん)の宝貝(ほうばい)無(な)く、左右(さゆう)穿(つらぬ)くは是(こ)れ貂裘(ちょうきゅう=貂(てん)の皮衣(かわごろも))、食(くら)うは是(こ)れ血食(けっしょく=生肉(なまにく))、那(いずく)んぞ曾(かつ)て綾錦(りょうきん=絹織物(きぬおりもの))金珠(きんしゅ=金(きん)と真珠(しんじゅ))を見(み)しや! 只(た)だ一(ひと)つの味(あじわい)に皮(かわ)を鋪(し)き毯(もうせん)を蓋(おお)うのみ。或(あるい)は就(すなわ)ち些(いささ)かの宝貝(ほうばい)有(あ)るも、汝(なんじ)我(われ)を外(うと)んずるに因(よ)りて、也(また)我(われ)に看(み)しめず、也(また)我(われ)と収(おさ)めしめず。且(しばら)く聞(き)くが如(ごと)く汝(なんじ)に三箇(みっつ)の鈴鐺(れいとう=鈴(すず))有(あ)るは、想(おも)うに就(すなわ)ち是(こ)れ件(くだり)の宝貝(ほうばい)ならんに、汝(なんじ)怎(いか)でか走(はし)るにも也(また)帯(たい)し、坐(ざ)するにも也(また)帯(たい)するや。汝(なんじ)就(すなわ)ち拿(と)りて我(われ)と収(おさ)めしめよ、汝(なんじ)が用(もち)うる時(とき)の取(と)り出(いだ)すを待(ま)たば、未(いま)だ不可(ふか)ならず。此(こ)れ也(また)是(こ)れ夫妻(ふさい)の場(ば)を做(な)して、也(また)箇(ひと)の心腹(しんぷく)の相托(あいたく)するの意(い)有(あ)るなり。此(か)くの如(ごと)く相托付(あいたくふ)せざるは、我(われ)を外(うと)んずるに非(あら)ずして何(なん)ぞや」と。
妖王(ようおう)大(おおい)に笑(わら)って陪礼(ばいれい=詫(わ)び)して道(い)う、「娘娘(にゃんにゃん)の怪(とが)むるは是(ただ)し! 怪(とが)むるは是(ただ)し! 宝貝(ほうばい)此(ここ)に在(あ)り、今日(こんにち)就(すなわ)ち当(まさ)に汝(なんじ)に付(ふ)して之(これ)を収(おさ)めしめん」と。便(すなわ)ち即(すなわ)ち衣(ころも)を掲(かか)げて宝(たから)を取(と)る。行者(ぎょうじゃ)旁(かたわら)に在(あ)りて、眼(まなこ)を転(てん)じ睛(ひとみ)を注(そそ)がずして那(か)の怪(かい)の両(ふた)つ三(みっ)つの層(かさ)ねの衣服(いふく)を掲(かか)げ起(おこ)し、身(み)に貼(は)り付(つ)けて三箇(みっつ)の鈴児(れいじ)を帯(たい)するを看(み)る。彼(かれ)解(と)き下(おろ)して、些(いささ)かの綿花(めんか=綿(わた))を将(もっ)て口児(こうじ=口(くち))を塞(ふさ)ぎ、一(ひと)つの塊(かたまり)の豹皮(ひょうひ)を把(と)って一(ひと)つの包袱児(ほうふくじ=包(つつ)み)と作(な)して包(つつ)み、娘娘(にゃんにゃん)に逓(わた)して道(い)う、「物(もの)は微賤(びせん=取(と)るに足(た)ら)ぬと雖(いえど)も、却(かえ)って心(こころ)を用(もち)いて収蔵(しゅうぞう)することを要(よう)し、切(きっ)して之(これ)を揺(ゆ)り幌(ひるがえ)す可(べ)からず」と。娘娘(にゃんにゃん)手(て)を過(す)ごし接(う)けて道(い)う、「我(われ)暁(さと)れり。此(こ)の妝台(そうだい=化粧台(けしょうだい))の上(うえ)に安(やす)んじて、人(ひと)の揺(ゆ)り動(うご)かす無(な)からん」と。叫(よ)んで道(い)う、「小(ちい)さきのたち、酒(さけ)を安排(あんばい)せよ、我(われ)大王(だいおう)と交歓(こうかん=睦(むつ)み合(あ))い会喜(かいき=喜(よろこ)び合(あ))いて、幾杯(いくぱい)か飲(の)まん」と。衆侍婢(しゅうしひ)言(げん)を聞(き)き、即(すなわ)ち果菜(かさい=果物(くだもの)と菜(さい))を鋪排(ほはい=並(なら)べ)べ、些(いささ)かの獐(しょう=鹿(しか)の類(たぐい))鹿(ろく)兔(と=兔(うさぎ))の肉(にく)を擺(なら)べ上(あ)げ、椰子酒(やししゅ=椰子(やし)の酒(さけ))を将(もっ)て斟(つ)ぎ来(きた)りて奉(たてまつ)る。那(か)の娘娘(にゃんにゃん)妖嬈(ようじょう=艶(なまめ)か)しきの態(たい)を做出(つくりいだ)し、精霊(せいれい=妖怪(ようかい))を哄(だま)す。
孫行者(そんぎょうじゃ)旁(かたわら)に在(あ)りて事(こと)を取(と)り、但(た)だ挨挨摸摸(あいあいもも=こそこそ)と、行(ゆ)きて妝台(そうだい)に近(ちか)づき、三箇(みっつ)の金鈴(きんれい)を把(と)って軽(かる)く軽(かる)く拿(と)り過(す)ごし、慢(ゆる)るとして步(あゆみ)を移(うつ)し、宮門(きゅうもん)を溜(ぬけ)い出(で)、径(ただ)ちに洞府(どうふ)を離(はな)る。剥皮亭(はくひてい)の前(まえ)の無人(ぶじん=人(ひと)の無(な)き)の処(ところ)に到(いた)り、豹皮(ひょうひ)の幅子(ふくし=包(つつ)み)を展(ひら)き開(ひら)いて看(み)るに、中(なか)の一箇(ひとつ)は、茶鍾(さしょう=茶碗(ぢゃわん))の大(おお)いさ有(あ)り、両頭(りょうとう=両端(りょうたん))の二箇(ふたつ)は、拳頭(けんとう=拳(こぶし))の大(おお)いさ有(あ)り。彼(かれ)利害(りがい=危険(きけん))を知(し)らず、就(すなわ)ち綿花(めんか)を把(と)って扯(ひ)きたれば、只(た)だ聞(き)く、当(とう)の一声(ひとこえ)響(ひび)き喨(りょう=高(たか))く、骨都都(こつとつ=どっと)として烟火(えんか)黄沙(こうさ)を迸(ほとばし)り出(いだ)し、急(いそ)ぎ収(おさ)むるに住(とど)まらず、満亭(まんてい=亭(てい)じゅう)の中(うち)に烘烘(こうこう)として火(ひ)起(おこ)る。
唬(おどろ)かされて那(か)の門(もん)を把(まも)るの精怪(せいかい)は一(いっせい)に擁(お)して後宮(こうきゅう)に撞(つ)き入(い)り、妖王(ようおう)を驚(おどろ)かし動(うご)かし、慌(あわ)てて教(おし)う、「去(ゆ)きて火(ひ)を救(すく)え! 火(ひ)を救(すく)え」と。出(い)で来(きた)りて看(み)るに、元来(もと)是(こ)れ有来有去(うらいうきょ)の金鈴児(きんれいじ)を拿(と)りたるなり。妖王(ようおう)上前(じょうぜん)に喝(かつ)して道(い)う、「好(よ)き賤奴(せんど=下賎(げせん)の奴隷(どれい))め! 怎(いか)でか我(わ)が金鈴(きんれい)の宝貝(ほうばい)を偷(ぬす)み、此(ここ)に在(あ)りて胡弄(ころう=勝手(かって)に弄(もてあそ))ぶや」と。叫(よ)んで道(い)う、「拿(とら)え来(きた)れ! 拿(とら)え来(きた)れ」と。那(か)の門前(もんぜん)の虎将(こしょう)・熊師(ゆうし)・豹頭(ひょうとう)・彪帥(ひょうすい)・獺象(たいぞう)・蒼狼(そうろう)・乖獐(かいしょう)・狡兔(こうと)・長蛇(ちょうだ)・大蟒(だいもう)・猩猩(しょうじょう)、衆妖(しゅよう)を帥(ひき)いて一斉(いっせい)に集(あつ)まり簇(むらが)る。
那(か)の行者(ぎょうじゃ)慌(あわ)てて手脚(しゅきゃく=手(て)と足(あし))を失(うしな)い、金鈴(きんれい)を放(おろ)し、本象(ほんぞう)を現(あらわ)し、金箍如意棒(きんこにょいぼう)を掣(ひっさ)げ出(いだ)し、解数(げすう=技(わざ))を撒(さっ)し開(ひら)き、前(まえ)へ向(むか)って乱(みだ)りに打(う)つ。那(か)の妖王(ようおう)宝貝(ほうばい)を収(おさ)め、号令(ごうれい)を伝(つた)えて、教(おし)う、「前門(ぜんもん)を関(とざ)せ」と。衆妖(しゅよう)聴(き)きて、関門(かんもん)するは門(もん)を関(とざ)し、打仗(だじょう=戦(たたか))うるは仗(たたか)い打(う)つ。那(か)の行者(ぎょうじゃ)身(み)を脱(だっ)するに難(かた)く、棒(ぼう)を収(おさ)め、身(み)を揺(ゆ)って一(ひと)たび変(へん)じ、変(へん)じて箇(ひと)の痴蝿(ちよう=間(ま)の抜(ぬ)けた蠅(はえ))の児(じ)と作(な)り、那(か)の火(ひ)の無(な)き処(ところ)の石壁(せきへき)の上(うえ)に钉(とま)る。衆妖(しゅよう)尋(たず)ね見(み)出(いだ)さず、報(ほう)じて道(い)う、「大王(だいおう)、賊(ぞく)の走(はし)り去(さ)りたり! 賊(ぞく)の走(はし)り去(さ)りたり」と。妖王(ようおう)問(と)う、「曾(かつ)て門(もん)の裡(うち)より走(はし)り出(い)で去(ゆ)きしか」と。衆妖(しゅよう)都(すべ)て説(い)う、「前門(ぜんもん)は緊(きつ)く鎖(さ)し牢(かた)く拴(つな)がれて此(ここ)に在(あ)り、曾(かつ)て走(はし)り出(い)でず」と。妖王(ようおう)只(た)だ説(と)く、「仔細(しさい)に捜尋(そうじん)せよ」と。水(みず)を取(と)りて火(ひ)を潑(そそ)ぐ有(あ)り、仔細(しさい)に捜尋(そうじん)する有(あ)り、更(さら)に踪迹(そうせき=痕跡(こんせき))無(なし)。妖王(ようおう)怒(いか)って道(い)う、「是(こ)れ箇(ひと)の甚(なん)の賊子(ぞくし)ぞ、好(よ)き大胆(だいたん)なり。変(へん)じて有来有去(うらいうきょ)の形姿(けいし=姿(すがた))と作(な)り、進(すす)み来(きた)りて我(われ)に見(まみ)えて回話(かいわ)し、又(また)身(み)の辺(ほとり)に跟(したが)いて、機(き)に乗(じょう)じて我(わ)が宝貝(ほうばい)を盗(ぬす)めり! 早(はや)く是(こ)れ曾(かつ)て拿(と)り将(も)ち出(いだ)さざりしなり! 若(も)し山頭(さんとう=山(やま)の頂(いただき))に拿(と)り出(いだ)して、天風(てんぷう=天(てん)の風(かぜ))に見(まみ)えなば、怎(いか)でか生(いき)て是(こ)れ好(よ)からんや」と。
虎将(こしょう)上前(じょうぜん)して道(い)う、「大王(だいおう)の洪福(こうふく=大(おお)いなる幸(さち))は天(てん)に斉(ひと)しく、我等(われら)が気数(きすう=運命(うんめい))の尽(つ)きざる、此(こ)の故(ゆえ)に以(もっ)て知覚(ちかく=気付(きづ))きたるなり」と。熊師(ゆうし)上前(じょうぜん)して道(い)う、「大王(だいおう)、此(こ)の賊(ぞく)は是(こ)れ别人(べつじん)ならず、定(かなら)ず是(こ)れ那(か)の先鋒(せんぽう)を戦(たたか)い敗(やぶ)りしの那(か)の箇(こ)の孫悟空(そんごくう)ならん。想(おも)うに路(みち)の上(うえ)に在(あ)りて有来有去(うらいうきょ)に遇(あ)い、性命(せいめい)を傷(そこな)い、黄旗(こうき)・銅鑼(どうら)・牙牌(がはい)を奪(うば)い、彼(かれ)の形姿(けいし=姿(すがた))に変(へん)じ、此(ここ)に到(いた)りて大王(だいおう)を瞞(あざむ)き欺(あざむ)けるなり」と。妖王(ようおう)道(い)う、「正(まさ)に是(こ)れ!
正(まさ)に是(こ)れ! 見(み)ること理(り)有(あ)るを得(え)たり」と。叫(よ)んで道(い)う、「小(ちい)さきのたち、仔細(しさい)に捜求(そうきゅう=捜(さが)し求(もと))め防避(ぼうひ=警戒(けいかい))せよ、切(きっ)して門(もん)を開(ひら)きて放(はな)ち出(いだ)し走(に)がすこと莫(なか)れ」と。
此(ここ)に才(はじ)めて是(こ)れ箇(ひと)の分教(ぶんきょう=伏線(ふくせん))有(あ)るなり。
巧(たくみ)を弄(ろう)して翻(ひるがえ)って拙(せつ=拙(まず)さ)と成(な)り、耍(しゃ=戯(たわむ)れ)を作(な)して却(かえ)って真(しん)と為(な)る。
畢竟(ひっきょう)知(し)らず孫行者(そんぎょうじゃ)の怎(いか)でか妖門(ようもん=妖(よう)の門(もん))を脱(だっ)し得(う)るかを、且(しばら)く下回(げかい)の分解(ぶんかい)を聴(き)け。