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071 第七十一回 行者(ぎょうじゃ)、仮名(かな)を以(もっ)て怪犼(かいこう)を降(くだ)し 観音(かんのん)、現象(げんしょう)して妖王(ようおう)を伏(ふ)す

色(しき)は即(すなわ)ち空(くう)なりとは古(いにしえ)よりのこと、
空(くう)は是(こ)れ色(しき)なりと言(い)うも然(しか)るが如(ごと)し。
人(ひと)能(よ)く色空(しきくう)の禅(ぜん)を悟(さと)り徹(つ)くさば、
何(なん)ぞ丹砂(たんさ=辰砂)を炮煉(ほうれん=焼き煉る)を用(もち)いん。
徳行(とくこう)を全(まった)う修(おさ)めて懈(おこた)ること休(な)く、
工夫(くふう)を苦(くる)しみ用(もち)いて熬煎(ごうせん=煮え煎(い)る)す。
時(とき)有(あ)って行(ぎょう)満(み)ちて始(はじ)めて天(てん)に朝(ちょう)し、
永(なが)く仙顔(せんがん=仙人の貌)に駐(とど)まりて変(かわ)らず。

話説(さて)、那(か)の賽太歳(さいたいさい)は前後(ぜんご)の門戸(もんこ=門)を緊(かた)く関(と)ざして行者(ぎょうじゃ)を捜(さが)し尋(たず)ね、直(ただ)に嚷(わめ)きて黄昏(たそがれ)の時分(じぶん)に到(いた)るまで、踪跡(しょうせき=あとかた)を見(み)ず。那(か)の剥皮亭(はくひてい=皮剥ぎの亭)の上(うえ)に坐(ざ)し、群妖(ぐんよう)を点(てん)じ聚(あつ)め、号令(ごうれい)を発(はっ)し、皆(みな)各門(かくもん)の上(うえ)に鈴(すず)を提(さ)げて号(ごう)を喝(とな)え、鼓(つづみ)を撃(う)ち梆(ほう=拍子木)を敲(たた)き、一箇箇(おのおの)弓(ゆみ)に弦(つる)を上(か)け、刀(かたな)鞘(さや)を出(い)で、更(こう=夜回り)を支(ささ)えて夜(よる)に坐(ざ)すと教(おし)えた。

原来(もと)、孫大聖(そんたいせい)は変じて箇(ひと)りの痴蝿(おろかなはえ)と作(な)り、門(もん)の旁(かたわら)に釘(とま)りて、前面(ぜんめん)の防備(ぼうび)の甚(はなは)だ緊(かた)きを見(み)るや、即(すなわ)ち翅(つばさ)を抖(ふる)い開(ひら)き、飛(と)びて後宮門(こうきゅうもん)の首(もと)に入(い)りて看(み)る処(ところ)、金聖娘娘(きんせいにょうにょう)の御案(ぎょあん=玉座の机)に伏(ふ)して、清清(しくしく)と涙(なみだ)を滴(したた)らせ、隐隐(しめやか)に声(こえ)を悲(かな)しむを見(み)る。行者(ぎょうじゃ)飛(と)びて門(もん)の内(うち)に入(い)り、軽軽(そっと)と彼(か)の烏雲散髻(ううんさんけい=黒髪の乱れた髷)の上(うえ)に落(お)ち、彼(かれ)の哭(な)く甚(なん)であるかを聴(き)く。少頃(しばらく)の間(あいだ)に、那(か)の娘娘(にょうにょう)忽(たちま)ち声(こえ)を失(うしな)って道(い)う、「主公(しゅこう)よ!」と。

我(われ)と汝(なんじ)とは──
前生(ぜんせい)に断頭香(だんとうこう=途中で切れた線香)を焼(た)きし故(ゆえ)、
今世(こんせい)に潑怪王(はつかいおう=乱暴な化物の王)に遭(あ)い逢(あ)えり。
鳳(ほう)を拆(わ)かれて三年(さんねん)、何(いず)れの日(ひ)か会(あ)わん、
鴛(えん)を両処(りょうしょ)に分(わ)かたれて悲傷(ひしょう)を致(いた)す。
差(つか)わし来(きた)れる長老(ちょうろう)やっとのことで信(たより)を通(つう)ぜしに、
佳姻(かいん=良き縁)を驚(おどろ)かし散(ちら)して一命(いちめい)亡(ほう)ぶ。
只(た)だ金鈴(きんれい)の解(と)き識(し)り難(がた)きが為(ため)に、
相思(そうし)又(また)旧時(きゅうじ)よりも狂(くる)おし。」

行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)くや、即(すなわ)ち身(み)を彼(か)の耳根(じこん=耳の付け根)の後(うしろ)に移(うつ)し、悄悄(ひそひそ)と叫(よ)んで道(い)う、「聖宮娘娘(せいきゅうにょうにょう)、汝(なんじ)、恐惧(おそれ)ること休(や)めよ。我(われ)は還(ま)た是(こ)れ汝(なんじ)が国(くに)より差(つか)わし来(きた)れる神僧(しんそう)孫長老(そんちょうろう)なり、未(いま)だ命(いのち)を傷(そこな)われず。只(た)だ自家(じか=自分)の性急(せいきゅう)の因(ゆえ)に、妝台(しょうだい=化粧台)に近(ちか)づきて金鈴(きんれい)を偸(ぬす)み、汝(なんじ)の妖王(ようおう)と酒(さけ)を喫(きっ)するの時(とき)、我(われ)却(かえ)って身(み)を脱(だっ)し私(ひそ)かに前亭(ぜんてい)を出(い)で、忍(しの)びずして打(う)ち開(ひら)きて看(み)んとせしに、期(おも)わず那(か)の塞口(そくこう=口の栓)の綿花(めんか)を扯(ひ)き動(うご)かし、那(か)の鈴(すず)一声(ひとこえ)響(ひび)きて、煙火(えんか)と黄沙(こうさ)を迸(ほとばし)らせり。我(われ)就(すなわ)ち手(て)と足(あし)を慌(あわ)て、金鈴(きんれい)を投(な)げ捨(す)て、原身(げんしん=元の姿)を現(あらわ)し、鉄棒(てつぼう)を使(つか)うも、苦(くる)しみ戦(たたか)うも出(い)でず、毒手(どくしゅ)に遭(あ)わんことを恐(おそ)れ、故(ゆえ)に変じて一箇(ひとつ)の蝿児(はえ)と作(な)り、門枢(もんすう=戸の軸)の上(うえ)に釘(とま)りて、如今(いま)まで隠(かく)れ到(いた)れり。那(か)の妖王(ようおう)愈(いよいよ)厳(げん)しく緊(かた)くして、肯(あえ)て門(もん)を開(ひら)かず。

汝(なんじ)去(ゆ)きて再(ふたた)び夫妻(ふさい)の礼(れい)を以(もっ)て、彼(かれ)を哄(たぶら)かし入(はい)り来(きた)りて安(やす)く寝(い)ねしめよ。我(われ)好(よ)く身(み)を脱(だっ)して事(こと)を行(おこ)ない、別(べつ)に区処(くしょ=手立て)を作(な)して汝(なんじ)を救(すく)わん」と。

娘娘(にょうにょう)此(こ)の言(げん)を一(ひと)たび聞(き)くや、戦兢兢(おののき)て髪(かみ)は神(かみ)に揪(ひ)かれるが如(ごと)く、虚怯怯(おびえ)て心(こころ)は杵(きね)に筑(つ)かるるが如(ごと)く、涙汪汪(なみだあふれ)て道(い)う、「汝(なんじ)如今(いま)は人(ひと)か、是(また)鬼(おに)か」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「我(われ)も也(また)人(ひと)に非(あら)ず、我(われ)も也(また)鬼(おに)に非(あら)ず、如今(いま)変じて箇(ひと)りの蝿児(はえ)と作(な)りて此(ここ)に在(あ)り。汝(なんじ)怕(おそ)るること休(や)め、快(すみや)かに去(ゆ)きて那(か)の妖王(ようおう)を請(しょう)ぜよ」と。娘娘(にょうにょう)信(しん)ぜず、涙滴滴(なみだしたた)らせ悄語低声(ささやきごえ)に道(い)う、「汝(なんじ)我(われ)を魘寐(えんび=夢魔に悩ます)こと莫(なか)れ」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、

「我(われ)豈(あ)に敢(あえ)て汝(なんじ)を魘寐(えんび)せんや。汝(なんじ)若(も)し信(しん)ぜずんば、手(て)を展(ひら)き開(ひら)き、我(われ)跳(と)び下(お)りて汝(なんじ)が看(み)るを等(ま)て」と。

那(か)の娘娘(にょうにょう)真箇(ほんとう)に左手(ひだりて)を把(と)って張(ひら)き開(ひら)けば、行者(ぎょうじゃ)軽軽(ふわり)と飛(と)び下(お)り、彼(か)の玉掌(ぎょくしょう=玉のような掌)の間(あいだ)に落(お)ちぬ。好(あた)かも便(ちょうど)似(に)たり──

菡萏(かんたん=蓮の花)の蕊頭(ずいとう=蕊の先)に黒豆(こくとう)の釘(とま)りしが如(ごと)く、
牡丹(ぼたん)の花(はな)の上(うえ)に遊蜂(ゆうほう)の歇(やす)らえるが如(ごと)く、
繍球(しゅうきゅう=刺繍の毬)の心裡(うち)に葡萄(ぶどう)の落(お)つるが如(ごと)く、
百合(ゆり)の枝(えだ)の辺(ほとり)に黒点(こくてん)濃(こま)やかなるが如(ごと)し。

金聖宮(きんせいきゅう)玉掌(ぎょくしょう)を高(たか)く擎(ささ)げ、叫声(よばわ)りて「神僧(しんそう)」と。行者(ぎょうじゃ)嚶嚶(ぶんぶん)と応(こた)えて道(い)う、「我(われ)は是(こ)れ神僧(しんそう)の変(へん)ぜるなり」と。那(か)の娘娘(にょうにょう)方(はじ)めて信(しん)じ、悄悄(ひそひそ)と道(い)う、「我(われ)去(ゆ)きて那(か)の妖王(ようおう)を請(しょう)じ来(きた)る時(とき)、汝(なんじ)却(かえ)って怎(いか)に生(どう)か事(こと)を行(おこ)なう」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「古人(こじん)云(いわ)く、一生(いっしょう)を断送(だんそう=送り終える)するは惟(た)だ酒(さけ)有(あ)ると。又(また)云(いわ)く、万事(ばんじ)を破除(はじょ=破り除く)するは酒(さけ)に過(す)ぐるは無(な)しと。酒(さけ)の用(よう)と為(な)るや端(たん)多(おお)し。汝(なんじ)只(た)だ飲酒(いんしゅ)を以(もっ)て上(じょう)と為(な)し、那(か)の貼身(てんしん=身に添う)の侍婢(じひ)を将(もっ)て、一箇(ひとり)を喚(よ)び入(い)れ、指(さ)し与(あた)えて我(われ)に看(み)しめよ。我(われ)就(すなわ)ち変じて彼(か)の形姿(けいし=姿かたち)と作(な)り、旁(かたわら)に在(あ)りて伏侍(ふくじ=仕え)し、却(かえ)って好(よ)く手(て)を下(くだ)さん」と。

那(か)の娘娘(にょうにょう)真箇(ほんとう)に言(げん)に依(よ)り、即(すなわ)ち叫(よ)ぶ、「春嬌(しゅんきょう)何(いずこ)にか在(あ)る」と。那(か)の屏風(びょうぶ)の後(うしろ)より一箇(ひとつ)の玉面狐狸(ぎょくめんこり=美貌の狐)転(ころ)び出(い)で、跪(ひざまず)きて道(い)う、「娘娘(にょうにょう)の春嬌(しゅんきょう)を喚(よ)ぶは何(なん)の使令(しれい=おおせ)有(あ)る」と。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「汝(なんじ)去(ゆ)きて彼等(かれら)を来(きた)らしめ紗灯(さとう=紗の灯籠)を点(てん)じ、脳麝(のうじゃ=竜脳と麝香)を焚(た)き、我(われ)を扶(たす)けて前庭(ぜんてい)に上(のぼ)り、大王(だいおう)を請(しょう)じて安(やす)く寝(い)ねしめよ」と。

那(か)の春嬌(しゅんきょう)即(すなわ)ち前面(ぜんめん)に転(まわ)り、七八箇(ななやつ)の怪鹿(かいろく=化け鹿)妖狐(ようこ)を叫(よ)び、両対(ふたつがい)の灯龍(とうろう=灯籠)を打(う)たせ、一対(ひとつがい)の提炉(ていろ=手あぶり)を提(さ)げしめ、左右(さゆう)に擺列(なら)べしむ。娘娘(にょうにょう)身(み)を欠(かが)めて手(て)を叉(こうまぬ)く。那(か)の大聖(たいせい)早(はや)く已(すで)に飛(と)び去(さ)れり。好(よ)き行者(ぎょうじゃ)、翅(つばさ)を展(の)べ開(ひら)き、径(ただ)ちに那(か)の玉面狐狸(ぎょくめんこり)の頭(あたま)の上(うえ)に飛(と)び到(いた)り、一根(ひとすじ)の毫毛(ごうもう)を抜(ぬ)き下(お)ろし、一口(ひとくち)の仙気(せんき)を吹(ふ)き、「変(へん)ぜよ」と叫(よ)ぶや、一箇(ひとつ)の瞌睡虫(かっすいちゅう=眠り虫)と変(へん)じ作(な)り、軽軽(そっと)と彼(か)の顔(かお)の上(うえ)に放(お)きぬ。原来(もと)、瞌睡虫(かっすいちゅう)人(ひと)の顔(かお)の上(うえ)に到(いた)れば、鼻孔(びこう)の裡(うち)へ往(ゆ)きて爬(はい)、孔(あな)の中(なか)に爬(はい)り進(い)れば、即(すなわ)ち瞌睡(まどろ)むなり。那(か)の春嬌(しゅんきょう)果(はた)して漸(ようや)く困倦(こんけん=眠け)を覚(おぼ)え、脚(あし)を立(た)て住(とど)めず、樁(くい)を揺(ゆ)るがして盹(まどろ)み、即(すなわ)ち忙(いそ)ぎて原(もと)の睡(ねむ)る処(ところ)を尋(たず)ね着(あ)て、頭(あたま)を投(な)げ倒(たお)して只(た)だ情(ひたすら)に呼呼(ぐうぐう)と睡(ねむ)り起(お)これり。行者(ぎょうじゃ)跳(と)び下(お)り、身(み)を揺(ゆ)りて一(ひと)たび変(へん)じ、那(か)の春嬌(しゅんきょう)と一般(おなじ)の形姿(けいし=姿)と変(へん)じ做(な)り、屏風(びょうぶ)を転(まわ)りて衆(しゅう)と排(なら)び立(た)つは不題(さておき)。

却説(さて)、那(か)の金聖宮娘娘(きんせいきゅうにょうにょう)前(まえ)へ向(むか)い正(まさ)に走(ゆ)くに、小妖(しょうよう)有(あ)りて看(み)るや、即(すなわ)ち賽太歳(さいたいさい)に報(ほう)じて道(い)う、「大王(だいおう)、娘娘(にょうにょう)の来(きた)れる」と。那(か)の妖王(ようおう)急(いそ)ぎ剥皮亭(はくひてい)の外(そと)に出(い)でて迎迓(げいが=迎え入)う。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「大王(だいおう)よ、煙火(えんか)既(すで)に息(や)み、賊(ぞく)已(すで)に踪(あと)無(な)し。深夜(しんや)の際(さい)なれば、特(とく)に大王(だいおう)を請(しょう)じて安置(あんち=休ま)せんとす」と。那(か)の妖(よう)心(こころ)に満(み)ちて喜(よろこ)び道(い)う、「娘娘(にょうにょう)珍重(ちんちょう=お大事に)。却(かえ)って才(さっき)の那(か)の賊(ぞく)は乃(すなわ)ち是(こ)れ孫悟空(そんごくう)なり。彼(かれ)我(わ)が先鋒(せんぽう)を敗(やぶ)り、我(わ)が小校(しょうこう=小兵)を打(う)ち殺(ころ)し、変化(へんげ)して入(はい)り来(きた)り、我等(われら)を哄(たぶら)かせり。我等(われら)此(か)くのごとく捜検(そうけん=捜し調べ)するも、彼(かれ)却(かえ)って渺(かすか)に踪跡(しょうせき)無(な)し。故此(このゆえ)に心(こころ)の上(うえ)に安(やす)んぜず」と。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「那(か)の厮(やつ)想(おも)うに是(こ)れ走(に)げ脱(のが)れたるならん。大王(だいおう)心(こころ)を放(はな)ちて慮(おもんばか)る勿(なか)れ、且(しばら)く自(みずか)ら安(やす)く寝(い)ねに去(ゆ)かん也(よ)」と。妖精(ようせい)娘娘(にょうにょう)の侍立(じりつ=傍らに立ち)し敬请(せいけい=請い請う)するを見(み)て、敢(あえ)て堅(かた)く辞(じ)せず、只(た)だ得(え)て群妖(ぐんよう)に吩咐(いいつ)け、各(おのおの)火燭(かしょく=火の用心)を小心(しょうしん=気をつ)け、謹(つつし)みて盗賊(とうぞく)を防(ふせ)がんことを要(よう)し、遂(つい)に娘娘(にょうにょう)と径(ただ)ちに後宮(こうきゅう)に往(ゆ)く。行者(ぎょうじゃ)仮(かり)に春嬌(しゅんきょう)に変(へん)じ、両班(りょうはん=左右の列)の侍婢(じひ)より引入(みちび)かれらる。娘娘(にょうにょう)叫(よ)ぶ、「酒(さけ)を安排(あんばい=用意)し来(きた)りて大王(だいおう)と労(ろう)を解(と)かん」と。妖王(ようおう)笑(わら)って道(い)う、「正是(まさに)正是(まさに)、快(すみや)かに酒(さけ)を将(も)ち来(きた)れ、我(われ)娘娘(にょうにょう)と圧驚(あっきょう=驚きを鎮め)ん」と。

仮春嬌(にせしゅんきょう)即(すなわ)ち衆怪(しゅうかい)と同(とも)に果品(かひん=果物と菓子)を鋪排(ほはい=並べ備え)し、些(いささ)かの腥肉(せいにく=生臭い肉)を整頓(ととの)え、桌椅(たくいす=卓と椅子)を調(との)え開(ひら)く。那(か)の娘娘(にょうにょう)杯(さかずき)を擎(ささ)ぐれば、此(こ)の妖王(ようおう)也(また)一杯(いっぱい)を以(もっ)て奉(たてまつ)り上(あ)ぐ。二人(ふたり)酒杯(しゅはい)を穿換(とりかわ)せり。仮春嬌(にせしゅんきょう)旁(かたわら)に在(あ)りて酒壺(しゅこ)を執(と)りて道(い)う、「大王(だいおう)と娘娘(にょうにょう)今夜(こんや)才(いま)しがた杯盞(はいさん=盃)を逓交(かわ)せり。請(こ)う、各(おのおの)飲(の)み干(ほ)し、箇(ひとつ)の双喜杯児(そうきはい=二重の祝い杯)を穿(とお)されよ」と。真箇(ほんとう)に又(また)各(おのおの)斟(つ)ぎ上(あ)げ、又(また)飲(の)み干(ほ)せり。仮春嬌(にせしゅんきょう)又(また)道(い)う、「大王(だいおう)と娘娘(にょうにょう)の喜会(きかい=喜びの宴)なれば、衆侍婢(しゅうじひ)の唱(うた)うことを会(え)する者(もの)は供(そな)えて唱(うたい)、舞(ま)うを善(よ)くする者(もの)は起(た)ちて舞(ま)え来(きた)れ耶(よ)」と。說(い)い未(いま)だ畢(お)わらざるに、只(た)だ聴(き)く一派(いっぱ=一群)の歌声(かせい)、斉(ひとし)く音律(おんりつ)を調(との)え、唱(うた)うは唱(うたい)、舞(ま)うは舞(ま)う。彼(か)の二箇(ふたり)又(また)許多(あまた)を飲(の)めり。娘娘(にょうにょう)歌舞(かぶ)を住(とど)めしむ。衆侍婢(しゅうじひ)分(わか)れて班(くみ)と成(な)り、屏風(びょうぶ)の外(そと)に出(い)でて擺列(なら)ぶ。惟(た)だ仮春嬌(にせしゅんきょう)の壺(つぼ)を執(と)り、上下(じょうげ)に奉酒(ほうしゅ=酒をすすむ)るのみ。娘娘(にょうにょう)と那(か)の妖王(ようおう)の専(もっぱ)ら說(と)くは是(こ)れ夫妻(ふさい)の話(はなし)。汝(なんじ)看(み)よ、那(か)の娘娘(にょうにょう)一片(いっぺん)の雲情雨意(うんじょううい=情愛の心)もて、那(か)の妖王(ようおう)を哄(たぶら)かし得(え)て骨(ほね)軟(やわ)らかく筋(すじ)麻(しび)るるも、只(た)だ是(こ)れ福(ふく)無(な)くして、身(み)を沾(ふ)るることを得(え)ず。怜(あわ)れむべし! 真(まこと)に是(こ)れ、猫(ねこ)の尿胞(にょうほう=膀胱)を咬(か)むも空(むな)しく喜(よろこ)ぶのみ!

叙(つづ)ること一会(ひとしきり)、笑(わら)うこと一会(ひとしきり)、娘娘(にょうにょう)問(と)うて道(い)う、「大王(だいおう)、宝貝(ほうばい=宝物)は曾(かつ)て傷損(しょうそん=損なわれ)ざりしか」と。妖王(ようおう)道(い)う、「此(こ)の宝貝(ほうばい)は乃(すなわ)ち先天(せんてん)の摶鋳(たんちゅう=練り鋳る)の物(もの)なり、如何(いか)でか損(そこな)いを得(え)ん! 只(た)だ是(こ)れ那(か)の賊(ぞく)に塞口(そくこう)の綿(わた)を扯(ひ)き開(ひら)かれ、豹皮(ひょうひ)の包袱(ほうふく=包み)を焼(や)かれしのみ」と。娘娘(にょうにょう)說(い)う、「怎(いか)に生(どう)か收拾(しゅうしゅう=仕舞う)する」と。妖王(ようおう)道(い)う、「收拾(しま)うを用(もち)いず、我(われ)腰間(ようかん=腰のあたり)に帯(お)びて在(あ)る哩(ぞ)」と。

仮春嬌(にせしゅんきょう)此(こ)の言(げん)を聞(き)き得(え)るや、即(すなわ)ち毫毛(ごうもう)一把(ひとつかみ)を抜(ぬ)き下(お)ろし、嚼(か)みて粉砕(ふんさい=粉々)に得(し)、軽軽(そっと)と妖王(ようおう)に挨(すり)り近(ちか)づき、那(か)の毫毛(ごうもう)を将(もっ)て彼(か)の身(み)の上(うえ)に放(お)き、三口(みくち)の仙気(せんき)を吹(ふ)き、暗暗(ひそか)に「変(へん)ぜよ」と叫(よ)ぶ。那(か)の些(これら)の毫毛(ごうもう)即(すなわ)ち変じて三様(みとおり)の悪物(あくぶつ)と做(な)り、乃(すなわ)ち虱子(しっし=シラミ)、虼蚤(こつそう=ノミ)、臭虫(しゅうちゅう=南京虫)なり。妖王(ようおう)の身内(みうち)に攻(せ)め入(い)り、皮膚(ひふ)に挨(くっつ)きて乱(みだ)りに咬(か)む。那(か)の妖王(ようおう)燥痒(そうよう=かゆさ)禁(た)え難(がた)く、手(て)を伸(の)べて懐(ふところ)に入(い)れ揣摸(しまつ=まさぐり)揉(も)み痒(かゆ)がり、指頭(ゆびさき)を用(もち)いて幾箇(いくつ)かの虱子(しらみ)を捏(つま)み出(い)だし、拿(と)りて灯(ともしび)の前(まえ)に近(ちか)づけて観看(み)る。娘娘(にょうにょう)見(み)るや、含忖(がんじょん=思いやり)て道(い)う、「大王(だいおう)、想(おも)うに是(こ)れ襯衣(しんい=下着)の禳(きたな)くなりて、久(ひさ)しく曾(かつ)て漿洗(しょうせん=糊付けして洗う)せざる故(ゆえ)、此(こ)の物(もの)を生(しょう)ぜるのみ」と。妖王(ようおう)慚愧(ざんき=恥じ)て道(い)う、「我(われ)従来(これまで)此(こ)の物(もの)を生(しょう)ぜざりしに、可可的(こうこうてき=図らずも)今宵(こんや)醜(しこ)を出(いだ)せり」と。娘娘(にょうにょう)笑(わら)って道(い)う、「大王(だいおう)何(なん)と為(し)てか醜(はじ)を出(いだ)す。常言(じょうげん=世の諺)に道(い)う、皇帝(こうてい)の身(み)の上(うえ)に也(また)三箇(みつ)の御虱(おしらみ=御身のシラミ)有(あ)る哩(ぞ)。且(しばら)く衣服(いふく)を脱(ぬ)ぎ下(お)ろし来(きた)れ、我(われ)汝(なんじ)に替(かわ)りて捉捉(とらえ)んを等(ま)て」と。

妖王(ようおう)真箇(ほんとう)に帯(おび)を解(と)き衣(ころも)を脱(ぬ)ぐ。仮春嬌(にせしゅんきょう)旁(かたわら)に在(あ)り、意(こころ)を著(つ)けて那(か)の妖王(ようおう)の身(み)の上(うえ)を看(み)れば、衣服(いふく)の層層(かさねがさね)皆(みな)虼蚤(のみ)の跳(と)ぶ有(あ)り、件件(いちいち)皆(みな)大(おお)なる臭虫(なんきんむし)を排(なら)べり。子母虱(しぼしらみ=親子のシラミ)は密密濃濃(びっしり)として、就(すなわ)ち螻蟻(ろうぎ=けらと蟻)の窩(そう=巣)の中(なか)より出(い)づるが如(ごと)し。覚(おぼ)えずして掲(めく)りて第三層(だいさんそう)の肉(にく)の見(み)ゆる処(ところ)に到(いた)れば、那(か)の金鈴(きんれい)の上(うえ)に紛紛垓垓(ふんふんがいがい=うようよ)として、也(また)其(そ)の数(かず)に勝(た)えず。仮春嬌(にせしゅんきょう)道(い)う、「大王(だいおう)、鈴子(すず)を拿(と)りて来(きた)れ、我(われ)也(また)汝(なんじ)に与(かわ)りて虱子(しらみ)を捉捉(とらえ)んを等(ま)て」と。那(か)の妖王(ようおう)一(ひとつ)には羞(はじ)らい、二(ふたつ)には慌(あわ)て、却(かえ)って也(また)真假(しんぎ)を認(みわ)け得(え)ず、三箇(みつ)の鈴児(すず)を将(もっ)て仮春嬌(にせしゅんきょう)に遞(わた)す。

仮春嬌(にせしゅんきょう)接(う)けて手(て)の中(なか)に在(あ)り、売弄(ろうえい=見せびらかし)すること多時(しばらく)、那(か)の妖王(ようおう)の頭(あたま)を低(た)れて此(こ)の衣服(いふく)を抖(はら)うを見(み)るや、彼(かれ)即(すなわ)ち金鈴(きんれい)を将(もっ)て蔵(かく)し、一根(ひとすじ)の毫毛(ごうもう)を抜(ぬ)き下(お)ろし、三箇(みつ)の鈴児(すず)に変(へん)じ作(な)し、一般無二(そっくり)にして、拿(と)りて灯(ともしび)の前(まえ)に向(む)かいて翻検(ひろげてしら)ぶ。却(かえ)って又(また)身(み)を把(と)って扭扭捏捏(くねくね)と抖(ふる)い一(ひと)たび抖(ふる)い、那(か)の虱子(しらみ)、臭虫(なんきんむし)、虼蚤(のみ)を将(もっ)て収(おさ)めて身(み)の上(うえ)に帰(かえ)し、仮(にせ)の金鈴児(きんれい)を将(もっ)て那(か)の怪(かい)に遞(わた)す。那(か)の怪(かい)接(う)けて手(て)の中(なか)に在(あ)り、一発(いっそう)朦朧(もうろう=ぼんやり)として措(おく)するところ無(な)く、那裡(いずく)にか甚(なん)の真假(しんぎ)を認(みわ)け得(え)ん。双手(もろて)に那(か)の鈴児(すず)を托(いただ)き、娘娘(にょうにょう)に遞(わた)して道(い)う、「今番(こんばん)汝(なんじ)却(かえ)って収(おさ)め好(よ)くせよ。却(かえ)って仔細仔細(つつしみつつしみ)せよ、前一番(ぜんいちばん)の象(ごと)くならざるを要(よう)す」と。那(か)の娘娘(にょうにょう)接(う)け過(す)ぎ来(きた)り、軽軽(そっと)と衣箱(いばこ=衣装箱)を掲(あ)け開(ひら)き、那(か)の仮鈴(にせすず)を把(と)って収(おさ)め、黄金(おうごん)の鎖(じょう)を用(もち)いて鎖(とざ)し、却(かえ)って又(また)妖王(ようおう)と叙飲(じょいん=語り飲み)して幾杯(いくばい)かの酒(さけ)を飲(の)み、侍婢(じひ)に教(おし)えて、「牙床(がしょう=象牙の寝台)を浄(きよ)く払(はら)い、錦被(きんぴ=錦の夜着)を展(の)べ開(ひら)け、我(われ)大王(だいおう)と同(とも)に寝(い)ねん」と。那(か)の妖王(ようおう)諾諾(へいへい)と声(こえ)を連(つら)ねて道(い)う、「福(ふく)無(な)し! 福(ふく)無(な)し! 敢(あえ)て奉陪(ほうばい=お供)せず、我(われ)還(ま)た一箇(ひとり)の宮女(きゅうじょ)を帯(つ)れて西宮(せいきゅう)の裡(うち)に往(ゆ)きて睡(ねむ)らん。娘娘(にょうにょう)請(こ)う自(みずか)ら安置(あんち=休み)せよ」と。遂(つい)に此(ここ)に各(おのおの)寝処(しんしょ=寝所)に帰(かえ)るは不題(さておき)。

却説(さて)、仮春嬌(にせしゅんきょう)手(て)を得(え)て、彼(か)の宝貝(ほうばい)を将(もっ)て腰間(ようかん)に帯(お)び、本象(ほんしょう=本来の姿)を現(あらわ)し、身(み)を把(と)って抖(ふる)い一(ひと)たび抖(ふる)い、那(か)の瞌睡虫児(かっすいちゅう)を収(おさ)め去(さ)り、径(ただ)ちに前(まえ)へ向(むか)い走(ゆ)くに、只(た)だ聴(き)く梆鈴(ほうれい=拍子木と鈴)斉(ひとし)く響(ひび)き、緊(きん)に三更(さんこう=夜中の十二時)を打(う)つ。好(よ)き行者(ぎょうじゃ)、訣(けつ=印)を捏(ひね)り、真言(しんごん)を念(とな)え動(うご)かし、箇(ひとつ)の隠身法(おんしんぽう=姿隠しの術)を使(つか)い、直(ただ)ちに門(もん)の辺(ほとり)に至(いた)る。又(また)那(か)の門(もん)の上(うえ)の拴鎖(せんさ=掛け金と錠)の甚(はなは)だ密(みつ)なるを見(み)るや、却(かえ)って就(すなわ)ち金箍棒(きんこぼう)を取(と)り出(い)だし、門(もん)を望(めが)けて一(ひと)たび指(さ)し、那(か)の解鎖(かいさ=錠外し)の法(ほう)を使(つか)い出(いだ)せば、那(か)の門(もん)就(すなわ)ち軽軽(するり)と開(ひら)けり。急(いそ)ぎ歩(あゆみ)を曳(ひ)きて門(もん)を出(い)で站(た)ち下(お)り、厲声(れいせい=荒々しい声)に高(たか)く叫(よ)んで道(い)う、「賽太歳(さいたいさい)! 我(われ)に金聖娘娘(きんせいにょうにょう)を還(かえ)せ来(きた)れ!」と。

連(つづ)け叫(さけ)ぶこと両三遍(にさんべん)、大小(だいしょう)の群妖(ぐんよう)を驚(おどろ)かし動(うご)かし、急急(いそい)で看(み)る処(ところ)、前門(ぜんもん)開(ひら)けたり。即(すなわ)ち忙(いそ)ぎて灯(あかり)を掌(かか)げ鎖(じょう)を尋(たず)ね、門児(もん)を把(と)って依然(もとのごと)く鎖(とざ)し上(あ)げ、幾箇(いくたり)かを着(さしむ)けて裡辺(うち)に跑(はし)り入(い)りて去(ゆ)きて報(ほう)じて道(い)わしむ、「大王(だいおう)! 人(ひと)有(あ)りて大門(だいもん)の外(そと)に在(あ)りて大王(だいおう)の尊号(そんごう)を呼喚(よばわ)り、金聖娘娘(きんせいにょうにょう)を要(もと)む哩(ぞ)」と。那(か)の裡辺(うち)の侍婢(じひ)即(すなわ)ち宮門(きゅうもん)を出(い)で、悄悄(ひそひそ)と言(げん)を伝(つた)えて道(い)う、「吆喝(さけび)こと莫(なか)れ、大王(だいおう)才(いま)しがた睡(ねむ)り着(つ)きたる」と。行者(ぎょうじゃ)又(また)門(もん)の前(まえ)に在(あ)りて高(たか)く叫(よ)ぶも、那(か)の小妖(しょうよう)又(また)敢(あえ)て去(ゆ)きて驚(おどろ)かし動(うご)かさず。此(か)くの如(ごと)き者(こと)三四遍(さんよんべん)、俱(とも)に敢(あえ)て去(ゆ)きて通報(つうほう)せず。那(か)の大聖(たいせい)外(そと)に在(あ)りて嚷嚷鬧鬧(わいわいがやがや)と、直(ただ)に弄(さわ)ぎて天暁(てんぎょう=夜明け)に到(いた)り、手(て)に鉄棒(てつぼう)を輪(ふる)うを忍(しの)びず、上(すす)みて前(まえ)に去(ゆ)きて門(もん)を打(う)つ。慌(あわ)てて那(か)の大小(だいしょう)の群妖(ぐんよう)、門(もん)を頂(ささ)うるは門(もん)を頂(ささ)え、信(しん)を報(ほう)ずるは信(しん)を報(ほう)ず。

那(か)の妖王(ようおう)一覚(ひとねむり)方(まさ)に醒(さ)め、只(た)だ聞(き)く乱攛攛(どたばた)たる喧嘩(けんか=騒ぎ)、身(み)を起(お)こして衣服(いふく)を穿(き)て、即(すなわ)ち羅帳(らちょう=薄絹の帳)の外(そと)に出(い)でて問(と)うて道(い)う、「嚷(わめ)くは甚(なん)ぞ」と。衆侍婢(しゅうじひ)才(やっ)と跪(ひざまず)きて道(い)う、「爺爺(おじいさま)、是(こ)れ甚(なん)の人(ひと)か知(し)らず、洞(ほらあな)の外(そと)に在(あ)りて半夜(はんや=夜中じゅう)叫(さけ)び罵(ののし)り、如今(いま)却(かえ)って又(また)門(もん)を打(う)てり」と。妖王(ようおう)歩(あゆ)みて宮門(きゅうもん)を出(い)づれば、只(た)だ見(み)る、那(か)の幾箇(いくたり)かの伝報(つたえしら)する小妖(しょうよう)の、慌張張(あわてふため)きて頭(あたま)を磕(ぬか)ずきて道(い)う、「外面(そと)に人(ひと)有(あ)りて叫(さけ)び罵(ののし)り、金聖宮娘娘(きんせいきゅうにょうにょう)を要(もと)む哩(ぞ)! 若(も)し半箇(ひとかけら)の不(いや)の字(じ)を說(い)わば、彼(かれ)就(すなわ)ち無数(むすう)の歪話(わいわ=無礼な言葉)を說(い)い出(いだ)し、甚(はなは)だ中聴(きくにた)えず。天暁(あけ)るを見(み)て大王(だいおう)の出(い)でざるを、逼(せま)られ得(え)て門(もん)を打(う)てる也(なり)」と。那(か)の妖(よう)道(い)う、「且(しばら)く門(もん)を開(ひら)くこと休(や)め、汝(なんじ)去(ゆ)きて彼(かれ)に是(こ)れ那裡(いずこ)より来(きた)れるか、姓(せい)は甚(なん)と名(な)は誰(たれ)かを問(と)い、快(すみや)かに来(きた)りて回報(ほうこく)せよ」と。小妖(しょうよう)急(いそ)ぎ出(い)で去(ゆ)き、門(もん)を隔(へだ)てて問(と)うて道(い)う、「門(もん)を打(う)つは是(こ)れ誰(たれ)ぞ」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「我(われ)は是(こ)れ朱紫国(しゅしこく)より拝請(はいせい=拝み請う)し来(きた)れる外公(がいこう=母方の祖父)なり、聖宮娘娘(せいきゅうにょうにょう)を取(と)りて国(くに)に回(かえ)らんと来(きた)る哩(ぞ)!」と。那(か)の小妖(しょうよう)聴(き)き得(え)て、即(すなわ)ち此(こ)の言(げん)を以(もっ)て回報(ほうこく)す。那(か)の妖(よう)随(したが)いて後宮(こうきゅう)に往(ゆ)き、来歴(られき=素性)を査(ただ)し問(と)う。

原来(もと)、那(か)の娘娘(にょうにょう)才(やっ)と起(お)き来(きた)り、未(いま)だ梳洗(そせん=髪をとかし洗う)せざるに、早(はや)くも侍婢(じひ)の来(きた)りて報(ほう)ずるを見(み)る、「爺爺(おじいさま)の来(きた)れる」と。那(か)の娘娘(にょうにょう)急(いそ)ぎ衣(ころも)を整(ととの)え、黒雲(こくうん=黒髪)を散(くだ)き挽(ま)き、宮(みや)を出(い)でて迎迓(むか)う。才(やっ)と坐(ざ)するに、未(いま)だ問(と)うに及(およ)ばざるに、又(また)小妖(しょうよう)の来(きた)りて報(ほう)ずるを聴(き)く、「那(か)の来(きた)れる外公(がいこう)已(すで)に門(もん)を将(もっ)て打(う)ち破(やぶ)れり」と。那(か)の妖(よう)笑(わら)って道(い)う、「娘娘(にょうにょう)、汝(なんじ)が朝(ちょう)の中(なか)に多少(いくら)の将帥(しょうすい=将軍)有(あ)る」と。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「朝(ちょう)に在(あ)るに四十八衛(しじゅうはちえい)の人馬(じんば)、良将(りょうしょう)千員(せんいん)、各辺(かくへん=各地方)の上(うえ)の元帥(げんすい)総兵(そうへい)、其(そ)の数(かず)を計(かぞ)えず」と。妖王(ようおう)道(い)う、「箇(ひとつ)の外(がい)と姓(せい)する有(あ)るや」と。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「我(われ)宮(きゅう)に在(あ)りて、只(た)だ裡内(うち)にて君王(くんおう)を輔(たす)け佐(たす)け、早晚(ちょうばん)に妃嬪(ひひん)を教誨(きょうかい=教え諭す)することを知(し)るのみ、外事(がいじ)は辺(かぎり)無(な)く、我(われ)怎(いか)でか名姓(めいせい)を記(おぼ)え得(え)ん!」と。妖王(ようおう)道(い)う、「此(こ)の来(きた)れる者(もの)外公(がいこう)と称(とな)う。我(われ)想(おも)うに百家姓(ひゃっかせい)の上(うえ)に、更(さら)に箇(ひとつ)の外(がい)と姓(せい)するは無(な)し。娘娘(にょうにょう)賦性(ふせい=生まれつき)聡明(そうめい)に、出身(しゅっしん)高貴(こうき)、皇宮(こうきゅう)の中(なか)に居(お)れば、必(かなら)ず多く書籍(しょせき)を覧(み)たり。那(いず)れの書(しょ)の上(うえ)に此(こ)の姓(せい)の有(あ)るを記(おぼ)える也(か)」と。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「只(た)だ千字文(せんじもん)の上(うえ)に句(く)の『外(そと)に傅訓(ふくん=師の教え)を受(う)く』有(あ)るのみ、想(おも)うに必(かなら)ず就(すなわ)ち是(こ)れならん」と。

妖王(ようおう)喜(よろこ)んで道(い)う、「定(さだ)めて是(しか)なり! 定(さだ)めて是(しか)なり!」と。即(すなわ)ち身(み)を起(お)こして娘娘(にょうにょう)に辞(じ)し、剥皮亭(はくひてい)の上(うえ)に到(いた)り、結束(けっそく=身支度)を整(ととの)え斉(ととの)え、妖兵(ようへい)を点(てん)じ出(いだ)し、門(もん)を開(ひら)きて、直(ただ)ちに外面(そと)に至(いた)り、手(て)に一柄(ひとふり)の宣花鉞斧(せんかえつふ=宣花のまさかり)を持(じ)し、厲声(れいせい)に高(たか)く叫(よ)んで道(い)う、「那(いず)れか是(こ)れ朱紫国(しゅしこく)より来(きた)れる外公(がいこう)」と。行者(ぎょうじゃ)金箍棒(きんこぼう)を把(と)って右手(みぎて)に攥(にぎ)り、左手(ひだりて)を将(もっ)て指(さ)し定(さだ)めて道(い)う、「賢甥(けんせい=賢い甥)、我(われ)を叫(よ)ぶは怎(どう)した」と。那(か)の妖王(ようおう)見(み)るや、心(こころ)の中(なか)に大(おお)いに怒(いか)って道(い)う、「汝(なんじ)が此(こ)の厮(やつ)や──
相貌(そうぼう=顔かたち)は猴子(こうし=猿)の若(ごと)く、
嘴臉(しれん=面つき)は猢猻(こそん=猿)に似(に)たり。
七分(ななぶ)は真(まこと)に是(こ)れ鬼(おに)、
大胆(だいたん)に敢(あ)えて人(ひと)を欺(あざむ)く!」

行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「汝(なんじ)が此(こ)の誑上欺君(きょうじょうぎくん=主を欺き君を騙す)の潑怪(はつかい=乱暴な化物)、原来(もと)眼(め)無(な)しか! 想(おも)うに我(われ)五百年前(ごひゃくねんぜん)に天宮(てんきゅう)を大(おお)いに鬧(さわ)がしし時(とき)、九天(きゅうてん)の神将(しんしょう)も我(われ)を見(み)て、一箇(ひとり)も老(ろう)の字(じ)無(な)くしては、敢(あえ)て称呼(しょうこ=呼びかけ)せざりき。汝(なんじ)我(われ)を一声(ひとこえ)の外公(がいこう)と叫(よ)ぶも、那裡(いずこ)にか汝(なんじ)を虧(そこな)える!」と。妖王(ようおう)喝(かつ=叱咤)して道(い)う、「快(すみや)かに早(はや)く姓(せい)は甚(なん)と名(な)は誰(たれ)か、些(いささ)かの甚(なん)の武芸(ぶげい)有(あ)るかを說(い)い出(いだ)せ、敢(あえ)て我(われ)が此(ここ)に到(いた)りて猖獗(しょうけつ=暴れまわる)すとは!」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「汝(なんじ)若(も)し姓名(せいめい)を問(と)わずんば猶(なお)可(よ)し、若(も)し我(われ)に姓名(せいめい)を說(い)い出(いだ)さしめんと要(よう)せば、只(た)だ怕(おそ)らくは汝(なんじ)身(み)を立(た)つるに地(ち)無(な)からん! 汝(なんじ)上(のぼ)り来(きた)れ、站(た)ち穏(おだ)やかにして、我(われ)が道(い)うを聴(き)け」と。

生身(せいしん=生みの)の父母(ふぼ)は是(こ)れ天地(てんち)、
日月(じつげつ)の精華(せいか)聖胎(せいたい)を結(むす)べり。
仙石(せんせき)の懐抱(かいほう=抱く)に歳数(さいすう=年齢)無(な)く、
霊根(れいこん)の孕育(うんいく=はぐくむ)甚(はなは)だ奇(き)なる哉(かな)。
当年(とうねん)我(われ)を産(う)みしは三陽泰(さんようたい)、
今日(こんにち)真(しん)に帰(かえ)りて万会(ばんかい)諧(かな)う。
曾(かつ)て衆妖(しゅうよう)を聚(あつ)めて帥首(すいしゅ=頭領)と称(とな)え、
能(よ)く衆怪(しゅうかい)を降(くだ)して丹崖(たんがい=赤き崖)に拝(はい)せしむ。
玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)宣旨(せんじ)を伝(つた)え、
太白金星(たいはくきんせい)詔(みことのり)を捧(ささ)げて来(きた)る。
我(われ)を請(しょう)じて天(てん)に上(のぼ)り職裔(しょくえい=職の家柄)を承(う)けしむ、
官(かん)に弼馬(ひつば)に封(ほう)ぜらるるも懐(こころ)を開(ひら)かず。
初心(しょしん)に造反(ぞうはん=謀反)して山洞(さんどう)を謀(はか)り、
大胆(だいたん)に兵(へい)を興(おこ)して御階(ぎょかい=御殿の階)を鬧(さわ)がす。
托塔天王(たくとうてんのう)并(ならび)に太子(たいし)、
交鋒(こうほう=切り結ぶ)すること一陣(いちじん)、尽(ことごと)く猥衰(わいすい=くじけ衰う)。
金星(きんせい)復(ま)た玄穹帝(げんきゅうてい)に奏(そう)し、
再(ふたた)び招安(しょうあん=招き鎮める)の敕旨(ちょくし)を降(くだ)して来(きた)る。
封(ほう)じて斉天大聖(せいてんたいせい)と做(な)さる、
那(か)の時(とき)方(はじ)めて棟梁(とうりょう)の材(ざい)と称(とな)う。
又(また)蟠桃会(ばんとうかい)を攪乱(かくらん)せるに因(よ)り、
酒(さけ)を仗(たの)み丹(たん)を偸(ぬす)みて災(わざわい)を惹(ひ)き下(くだ)す。
太上老君(たいじょうろうくん)親(みずか)ら駕(が)に奏(そう)し、
西池(せいち)の王母(おうぼ)瑤台(ようだい)に拝(はい)す。
情(じょう)に是(こ)れ我(われ)の王法(おうほう)を欺(あざむ)くと知(し)り、
即(すなわ)ち天兵(てんぺい)を点(てん)じ火牌(かはい=急ぎの札)を発(はっ)す。
十万(じゅうまん)の凶星(きょうせい)并(ならび)に悪曜(あくよう)、
干戈(かんか)剣戟(けんげき)密(びっし)りと排排(ならびたて)り。
天羅(てんら)地網(ちもう)山(やま)に漫(あまね)く布(し)き、
斉(ひとし)く刀兵(とうへい)を挙(あ)げて大(おお)いに会垓(かいがい=合戦)す。
悪闘(あくとう)一場(いちじょう)勝敗(しょうはい)無(な)く、
観音(かんのん)推薦(すいせん)して二郎(じろう)来(きた)る。
両家(りょうか)敵(てき)に対(たい)して高下(こうげ)を分(わ)かつ、
彼(かれ)に梅山(ばいざん)の兄弟(けいてい)の儕(ともがら)有(あ)り。
各(おのおの)英雄(えいゆう)を逞(たくま)しくして変化(へんげ)を施(ほどこ)し、
天門(てんもん)の三聖(さんせい)雲(くも)を撥(かきわ)けて開(ひら)く。
老君(ろうくん)金鋼套(きんこうとう=金剛の輪)を投(な)げ打(う)ち、
衆神(しゅうしん)我(われ)を擒(とら)えて金階(きんかい)に到(いた)る。
詳允(しょういん=詳しく調べ許す)して供状(きょうじょう=供述書)を書(か)くを須(もち)いず、
罪犯(ざいはん)は凌遅(りょうち=磔刑)殺斬(さつざん)の災(わざわい)。
斧(おの)に剁(きざ)られ鎚(つち)に敲(たた)かるるも命(いのち)を損(そこな)い難(がた)く、
刀(かたな)に掄(ふる)われ剣(けん)に砍(き)らるるも怎(どう)して懐(むね)を傷(そこな)わん!
火(ひ)に焼(や)かれ雷(かみなり)に打(う)たるるも只(た)だ此(か)くの如(ごと)し、
長寿胎(ちょうじゅたい=不老の身)を摧(くだ)き残(そこな)うの計(けい)無(な)し。
押(お)し赴(おもむ)かしめ太清(たいせい)兜率院(とそついん)へ、
炉(ろ)の中(なか)に煅煉(たんれん=焼き鍛える)尽(ことごと)く安排(あんばい)せらる。
日期(にっき)満(み)ち足(た)って才(はじ)めて鼎(かなえ)を開(ひら)く、
我(われ)中(なか)に向(むか)いて跳(と)び出(い)で来(きた)る。
手(て)に此(こ)の条(ひとふり)の如意棒(にょいぼう)を挺(ささ)げ、
身(み)を翻(ひるがえ)して打(う)ちて玉龍台(ぎょくりゅうだい)に上(のぼ)る。
各星(かくせい)各象(かくしょう)皆(みな)潜(ひそ)み隠(かく)れ、
天宮(てんきゅう)を大(おお)いに鬧(さわ)がすは我(われ)の歪(ほしいまま)に任(まか)す。
巡視(じゅんし)の霊官(れいかん)忙(いそ)ぎて仏(ほとけ)を請(しょう)じ、
釈迦(しゃか)我(われ)と英才(えいさい)を逞(たくま)しくす。
手心(てのひら)の内(うち)に筋斗(きんと=宙返り)を翻(ひるがえ)すも、
周天(しゅうてん)を遊(あそ)び遍(あまね)く去(ゆ)きて復(ま)た来(きた)る。
仏(ほとけ)先知(せんち=先を見る)の賺哄法(かんこうほう=欺き哄す法)を使(つか)い、
彼(かれ)に圧(おさ)え住(とど)められて天崖(てんがい=天の涯)に在(あ)り。
今(いま)に到(いた)るまで五百余年(ごひゃくよねん)なり、
微躯(びく=この身)解脱(げだつ)して又(また)乖(かしこ)きを弄(ろう)す。
特に唐僧(とうそう)を保(ほ)して西域(せいいき)に去(ゆ)く、
悟空行者(ごくうぎょうじゃ)甚(はなは)だ明白(めいはく=明らか)なり。
西方(さいほう)の路(みち)の上(うえ)に妖怪(ようかい)を降(くだ)す、
那(いず)れの妖邪(ようじゃ)か懼(おそ)れざらん哉(や)!」

那(か)の妖王(ようおう)彼(かれ)の悟空行者(ごくうぎょうじゃ)と說(い)い出(いだ)すを聴(き)くや、遂(つい)に道(い)う、「汝(なんじ)原来(もと)は是(こ)れ天宮(てんきゅう)を大(おお)いに鬧(さわ)がしし那(か)の厮(やつ)なり。汝(なんじ)既(すで)に身(み)を脱(だっ)して唐僧(とうそう)を保(ほ)して西(にし)に去(ゆ)くならば、汝(なんじ)汝(なんじ)が路(みち)を走(ゆ)き去(さ)らんに便(か)って罷(や)めよ。怎(なん)ぞや羅織(らしょく=罪をでっちあげ)し事(こと)を管(つかさど)り、那(か)の朱紫国(しゅしこく)に替(かわ)りて奴(やっこ)と為(な)り、却(かえ)って我(われ)が此(ここ)に到(いた)りて死(し)を尋(たず)ぬる!」と。行者(ぎょうじゃ)喝(かつ)して道(い)う、「賊(ぞく)の潑怪(はつかい)め! 說話(せつわ=言うこと)無知(むち)なり! 我(われ)朱紫国(しゅしこく)の拝請(はいせい)の礼(れい)を受(う)け、又(また)彼(かれ)が称呼(しょうこ=持ち上げ)し管待(かんたい=もてなし)する恩(おん)を蒙(こうむ)れり。我(われ)が老孫(ろうそん)は那(か)の王位(おうい)よりも還(な)お千倍(せんばい)高(たか)し。彼(かれ)之(これ)を敬(けい)して父母(ふぼ)の如(ごと)く、之(これ)に事(つか)えて神明(しんめい)の如(ごと)し。汝(なんじ)怎(どう)して奴(やっこ)と為(な)るの二字(にじ)を說(い)い出(いだ)す! 我(われ)汝(なんじ)が此(こ)の誑上欺君(きょうじょうぎくん)の怪(かい)を把(とら)えん、走(に)ぐること莫(なか)れ! 外公(がいこう)の一棒(いっぽう)を喫(くら)え!」と。那(か)の妖(よう)手(て)と足(あし)を慌(あわ)て、即(すなわ)ち身(み)を閃(ひらめ)かして避(さ)け過(す)ぎ、宣花斧(せんかふ)を使(つか)い面(おもて)を劈(つんざ)きて相(あい)迎(むか)う。此(こ)の一場(ひとしきり)の好(よ)き殺(あらそ)い! 汝(なんじ)看(み)よ──

金箍(きんこ)如意棒(にょいぼう)、
風刃(ふうじん=風の刃)宣花斧(せんかふ)。
一箇(ひとつ)は牙(きば)を咬(か)み狠凶(げんきょう=凶暴さ)を発(はっ)し、
一箇(ひとつ)は歯(は)を切(せつ)して威武(いぶ=勇猛)を施(ほどこ)す。
此(こ)れは是(こ)れ斉天大聖(せいてんたいせい)の凡(ぼん=地上)に降臨(こうりん)せる、
那(か)れは是(こ)れ怪(かい)を作(な)す妖王(ようおう)の土(つち)に下(くだ)り来(きた)れる。
両箇(ふたり)雲(くも)を噴(ふ)き霧(きり)を噯(は)きて天宮(てんきゅう)を照(てら)し、
真(まこと)に是(こ)れ石(いし)を走(はし)らせ沙(すな)を揚(あ)げて斗府(とふ=星宿の宮)を遮(おお)う。
往往来来(ゆきつもどりつ)解数(かいすう=技の数)多(おお)く、
翻翻復復(ひるがえりかえり)金光(きんこう)を吐(は)く。
斉(ひとし)く本事(ほんじ=技)を将(もっ)て施(ほどこ)し、
各(おのおの)神通(じんつう)を把(と)って賭(か)く。
此(こ)れは娘娘(にょうにょう)を取(と)りて帝都(ていと)に転(かえ)さんと要(よう)し、
那(か)れは皇后(こうごう)と同(とも)に山塢(さんう=山あい)に居(お)らんことを喜(よろこ)ぶ。
此(こ)の場(ば)は皆(みな)是(こ)れ来由(らいゆ=わけ)無(な)し、
死(し)を捨(す)て生(いのち)を忘(わす)るるは国主(こくしゅ)の因(ゆえ)なり。

彼(か)の二箇(ふたり)戦(たたか)うこと五十回合(ごじゅうがいごう)を経(へ)るも、勝負(しょうぶ)を分(わ)かたず。那(か)の妖王(ようおう)行者(ぎょうじゃ)の手段(てだて)の高強(こうきょう)なるを見(み)て、料(おもんぱか)るに勝(か)つことを能(あた)わず、斧(おの)を将(もっ)て彼(か)の鉄棒(てつぼう)を架(か)ぎ住(とど)めて道(い)う、「孫行者(そんぎょうじゃ)、汝(なんじ)且(しばら)く住(とど)まれ。我(われ)今日(こんにち)未(いま)だ早膳(そうぜん=朝餉)せず、我(われ)が膳(ぜん)を進(すす)むるを待(ま)ち、再(ふたた)び来(きた)りて汝(なんじ)と雌雄(しゆう=勝敗)を定(さだ)めん」と。行者(ぎょうじゃ)情(じょう)に知(し)る、是(こ)れ鈴鐺(すず)を取(と)らんと要(よう)するなり。鉄棒(てつぼう)を収(おさ)めて道(い)う、「好漢子(こうかんし=真の男)は乏(つか)れたる兔児(うさぎ)を赶(お)わず。汝(なんじ)去(ゆ)け汝(なんじ)去(ゆ)け! 飽(あ)き喰(くら)う些(ほど)に、好(よ)く来(きた)りて死(し)を領(う)けよ!」と。

那(か)の妖(よう)急(いそ)ぎ身(み)を転(てん)じて裡辺(うち)に闖(とびこ)み入(い)り、娘娘(にょうにょう)に対(むか)いて道(い)う、「快(すみや)かに宝貝(ほうばい)を将(もっ)て拿(と)りて来(きた)れ!」と。娘娘(にょうにょう)道(い)う、「宝貝(ほうばい)を要(よう)して何(なん)の干(かかわり)有(あ)る」と。妖王(ようおう)道(い)う、「今早(けさ)戦(たたか)いを叫(よばわ)れる者(もの)は、乃(すなわ)ち是(こ)れ経(きょう)を取(と)る和尚(おしょう)の徒(でし)、叫(い)うて孫悟空行者(そんごくうぎょうじゃ)と做(な)し、仮(かり)に外公(がいこう)と称(とな)う。我(われ)彼(かれ)と此(こ)の時(とき)まで戦(たたか)いて、勝負(しょうぶ)を分(わ)かたず。我(われ)が宝貝(ほうばい)を拿(と)りて出(い)で去(ゆ)き、些(いささ)かの煙火(えんか)を放(はな)ち、此(こ)の猴頭(こうとう=猿め)を焼(や)かんを等(ま)て」と。娘娘(にょうにょう)說(いう)を見(み)るや、心(こころ)の中(なか)に怛突(たっとつ=おののき騒ぐ)──

鈴児(すず)を取(と)り出(いだ)さざらんと欲(ほっ)すれば、彼(かれ)の疑(うたが)いを見(み)んことを恐(おそ)れ、
鈴児(すず)を取(と)り出(いだ)さんと欲(ほっ)すれば、又(また)孫行者(そんぎょうじゃ)の性命(せいめい)を傷(そこな)わんことを恐(おそ)る。

正(まさ)に自(みずか)ら踌躇(ちゅうちょ=ためらう)して未(いま)だ定(さだ)めざるに、那(か)の妖王(ようおう)又(また)催(うなが)し逼(せま)って道(い)う、「快(すみや)かに拿(と)り出(いだ)せ!」と。此(こ)の娘娘(にょうにょう)無奈(しかたなく)、只(た)だ得(え)て鎖鑰(さやく=錠と鍵)を将(もっ)て開(あ)け、三箇(みつ)の鈴児(すず)を把(と)って妖王(ようおう)に遞(わた)す。妖王(ようおう)拿(と)って、就(すなわ)ち出(い)でて洞(ほら)を走(ゆ)く。娘娘(にょうにょう)宮(きゅう)の中(なか)に坐(ざ)し、涙(なみだ)雨(あめ)の下(くだ)るが如(ごと)く、行者(ぎょうじゃ)の能(よ)く性命(せいめい)を逃(のが)れ得(う)るや否(いな)やを知(し)らずと思量(おもんばか)る。両人(ふたり)却(かえ)って俱(とも)に是(こ)れ仮鈴(にせすず)なるを知(し)らざる也(なり)。

那(か)の妖(よう)門(もん)を出(い)づるや、就(すなわ)ち上風(じょうふう=風上)を占(し)め起(お)こし、叫(よ)んで道(い)う、「孫行者(そんぎょうじゃ)走(に)ぐること休(や)め! 我(われ)が鈴児(すず)を揺(ゆ)り揺(ゆ)らんを看(み)よ!」と。行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「汝(なんじ)に鈴(すず)有(あ)らば、我(われ)に就(すなわ)ち鈴(すず)無(な)からんや。汝(なんじ)揺(ゆ)ることを会(え)すれば、我(われ)に就(すなわ)ち揺(ゆ)ることを会(え)ざらんや」と。妖王(ようおう)道(い)う、「汝(なんじ)に甚(なん)の鈴児(すず)有(あ)るか、拿(と)り出(いだ)して我(われ)に看(み)しめよ」と。行者(ぎょうじゃ)鉄棒(てつぼう)を将(もっ)て捏(ひね)りて箇(ひとつ)の繍花針児(しゅうかしん=刺繍針)と做(な)し、耳(みみ)の内(うち)に蔵(かく)し、却(かえ)って腰間(ようかん)に去(ゆ)きて三箇(みつ)の真(しん)の宝貝(ほうばい)を解(と)き下(お)ろし来(きた)り、妖王(ようおう)に対(むか)いて說(い)う、「是(こ)れ我(わ)が紫金鈴児(しきんれい)に非(あら)ずや」と。妖王(ようおう)見(み)るや、心(こころ)に驚(おどろ)いて道(い)う、「蹺蹊(きょうけい=おかしい)! 蹺蹊(きょうけい)! 彼(かれ)が鈴児(すず)は怎(どう)して我(わ)が鈴児(すず)と就(すなわ)ち一般無二(そっくり)なる! 縦然(たと)い一箇(ひとつ)の模子(かた)の鋳(い)たるにするも、打磨(みがき)の到(いた)らざるは好道(よもや)有(あ)らん、也(また)多(おお)きに箇(ひとつ)の瘢児(はんじ=傷)有(あ)り、少(すくな)きに箇(ひとつ)の蒂児(ていじ=へた)有(あ)らんに、却(かえ)って怎(どう)して此(か)くの等(ごと)く一毫(いちごう)も差(たが)わざる」と。又(また)問(と)う、「汝(なんじ)が那(そ)の鈴児(すず)は是(こ)れ那裡(いずこ)より来(きた)れる」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「賢甥(けんせい)、汝(なんじ)が那(そ)の鈴児(すず)は却(かえ)って是(こ)れ那裡(いずこ)より来(きた)れる」と。妖王(ようおう)老実(ろうじつ=正直)に、便(すなわ)ち就(そこ)で說(い)って道(い)う、「我(わ)が此(こ)の鈴児(すず)は是(かく)の如(ごと)し──
太清(たいせい)仙君(せんくん)道源(どうげん)深(ふか)く、
八卦炉(はっけろ)の中(なか)久(ひさ)しく金(こがね)を煉(ね)る。
結(むす)び就(な)して鈴児(すず)は至宝(しほう)と称(とな)えられ、
老君(ろうくん)留(とど)め下(おろ)して如今(いま)に到(いた)る。」

行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「老孫(ろうそん)が鈴児(すず)も、也(また)是(こ)れ那(か)の時(とき)より来(きた)れる」と。妖王(ようおう)道(い)う、「怎(いか)に生(どう)か出処(しゅっしょ=由来)」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「我(わ)が此(こ)の鈴児(すず)は是(かく)の如(ごと)し──
道祖(どうそ)丹(たん)を焼(や)く兜率宮(とそつきゅう)、
金鈴(きんれい)摶(たん=こね)り煉(ね)られて炉(ろ)の中(なか)に在(あ)り。
二(に)三(さん)は六(ろく)の如(ごと)く循環(じゅんかん)の宝(ほう)、
我(わ)が雌(めす)にして汝(なんじ)が雄(おす)。」

妖王(ようおう)道(い)う、「鈴児(すず)は乃(すなわ)ち金丹(きんたん)の宝(ほう)、又(また)是(こ)れ飛禽(ひきん=飛ぶ鳥)走獣(そうじゅう)に非(あら)ず、如何(いか)でか雌雄(しゆう)を弁(わきま)え得(え)ん。但(た)だ只(た)だ是(こ)れ宝(ほう)を揺(ゆ)り出(いだ)せば、就(すなわ)ち是(こ)れ好(よ)き也(なり)!」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「口(くち)に說(い)うは憑(よりどころ)無(な)し、做(な)し出(いだ)せば便(すなわ)ち見(み)ゆ。且(しばら)く汝(なんじ)をして先(さき)に揺(ゆ)らしめん」と。那(か)の妖王(ようおう)真箇(ほんとう)に頭(はじめ)の一箇(ひとつ)の鈴児(すず)を将(もっ)て幌(ふ)ること三幌(みたび)すれど、火(ひ)の出(い)づるを見(み)ず。第二(だいに)の箇(ひとつ)を幌(ふ)ること三幌(みたび)すれど、煙(けむり)の出(い)づるを見(み)ず。第三(だいさん)の箇(ひとつ)を幌(ふ)ること三幌(みたび)すれど、也(また)沙(すな)の出(い)づるを見(み)ず。妖王(ようおう)手(て)と足(あし)を慌(あわ)てて道(い)う、「怪(あや)しき哉(かな)! 怪(あや)しき哉(かな)! 世情(せいじょう=世の道理)変(かわ)れり! 此(こ)の鈴児(すず)想(おも)うに是(こ)れ内(うち=妻)を懼(おそ)るるならん、雄(おす)雌(めす)に逢(あ)えば、所以(ゆえ)に出(い)で来(きた)らざる也(なり)」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「賢甥(けんせい)、手(て)を住(とど)めよ、我(われ)も也(また)揺(ゆ)り揺(ゆ)らんを汝(なんじ)に看(み)しめんを等(ま)て」と。

好(よ)き猴子(さる)、一把(ひとつかみ)に三箇(みつ)の鈴児(すず)を攥(にぎ)り、一斉(いっせい)に揺(ゆ)り起(お)こす。汝(なんじ)看(み)よ、那(か)の紅火(こうか=赤き火)、青煙(せいえん)、黄沙(こうさ)、一斉(いっせい)に滚(ころび)り出(い)で、骨都都(こつとつ=めらめら)と樹(き)を燎(や)き山(やま)を焼(や)く! 大聖(たいせい)口(くち)の裡(うち)に又(また)箇(ひとつ)の咒語(じゅご=呪文)を念(とな)え、巽地(そんち=巽の方角)の上(うえ)を望(めが)けて叫(よ)ぶ、「風(かぜ)来(きた)れ!」と。真箇(ほんとう)に是(こ)れ、風(かぜ)火勢(かせい)を催(うなが)し、火(ひ)風威(ふうい)を挟(はさ)み、紅焰焰(こうえんえん=真っ赤に)、黒沉沉(こくちんちん=真っ暗に)、天(てん)に満(み)つる煙火(えんか)、地(ち)に遍(あまね)き黄沙(こうさ)! 那(か)の賽太歳(さいたいさい)を把(と)って唬(おど)ろかして魄(たましい)散(ち)り魂(たま)飛(と)び、走(ゆ)きて投(なげう)つ路(みち)無(な)からしめ、那(か)の火(ひ)の当(ま)たりの中(なか)に在(あ)りて、怎(どう)して性命(せいめい)を逃(のが)れん!

只(た)だ聞(き)く、半空(はんくう=中空)の中(なか)に厲声(れいせい)に高(たか)く叫(よ)ぶ、「孫悟空(そんごくう)! 我(われ)来(きた)れる也(ぞ)!」と。行者(ぎょうじゃ)急(いそ)ぎ頭(あたま)を回(めぐ)らして上(うえ)を望(のぞ)めば、原来(なんと)是(こ)れ観音菩薩(かんのんぼさつ)、左手(ひだりて)に浄瓶(じょうへい)を托(いただ)き、右手(みぎて)に楊柳(ようりゅう)を拿(と)り、甘露(かんろ)を洒(そそ)ぎ下(おろ)して火(ひ)を救(すく)う哩(なり)。慌(あわ)てて行者(ぎょうじゃ)鈴児(すず)を把(と)って腰間(ようかん)に蔵(かく)し、即(すなわ)ち掌(て)を合(あわ)せ身(み)を倒(たお)して下(した)に拝(おが)む。那(か)の菩薩(ぼさつ)柳枝(りゅうし)を将(もっ)て連(つづ)け幾点(いくてん)かの甘露(かんろ)を拂(はら)えば、霎時間(しばらく)にして、煙火(えんか)俱(とも)に無(な)く、黄沙(こうさ)跡(あと)を絶(た)つ。行者(ぎょうじゃ)頭(こうべ)を叩(たた)いて道(い)う、「大慈(だいじ=大慈の菩薩)の凡(ぼん)に臨(のぞ)むを知(し)らず、回避(かいひ=お避けする)を失(うしな)えり。敢(あ)えて問(と)う、菩薩(ぼさつ)何(いずこ)へか往(ゆ)く」と。菩薩(ぼさつ)道(い)う、「我(われ)特に此(こ)の妖怪(ようかい)を収(おさ)め尋(たず)ねんと来(きた)れる」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「此(こ)の怪(かい)は是(こ)れ何(なん)の来歴(られき)ぞ、敢(あ)えて金身(こんしん=黄金の御身)を労(ろう)して下(くだ)り降(くだ)りて之(これ)を収(おさ)めしむ」と。

菩薩(ぼさつ)道(い)う、「彼(かれ)は是(こ)れ我(われ)が跨(またが)る箇(ひとつ)の金毛犼(きんもうこう=金色の毛の獅子)なり。牧童(ぼくどう)の盹睡(とんすい=うたた寝)せるに因(よ)り、防守(ぼうしゅ)を失(うしな)い、此(こ)の孽畜(げっちく=畜生め)鉄索(てっさく=鉄の綱)を咬(か)み断(た)ちて走(に)げ来(きた)り、却(かえ)って朱紫国王(しゅしこくおう)と災(わざわい)を消(け)しし也(なり)」と。行者(ぎょうじゃ)言(げん)を聞(き)くや急(いそ)ぎ身(み)を欠(かが)めて道(い)う、「菩薩(ぼさつ)反(かえ)って說(い)えり。彼(かれ)此(ここ)に在(あ)りて君(きみ)を欺(あざむ)き后(きさき)を騙(あざむ)き、俗(ぞく)を敗(やぶ)り風(ふう)を傷(そこな)い、那(か)の国王(こくおう)と災(わざわい)を生(しょう)ぜしに、却(かえ)って是(こ)れ災(わざわい)を消(け)すと說(い)うは、何(なん)の也(わけ)ぞ」と。菩薩(ぼさつ)道(い)う、「汝(なんじ)之(これ)を知(し)らず。当時(とうじ)朱紫国(しゅしこく)の先王(せんおう)の位(くらい)に在(ましま)しし時(とき)、此(こ)の王(おう)は還(ま)た東宮太子(とうぐうたいし)と做(な)りて、未(いま)だ曾(かつ)て登基(とうき=即位)せず、彼(かれ)年幼(ねんよう=幼少)の間(あいだ)、極(きわ)めて射猟(しゃりょう)を好(この)めり。彼(かれ)人馬(じんば)を率(ひき)い、鷹犬(ようけん)を縦(ほしいまま)に放(はな)ち、正(まさ)に来到(きた)りて落鳳坡(らくほうは)の前(まえ)に、西方(さいほう)の仏母(ぶつも)孔雀大明王菩薩(くじゃくだいみょうおうぼさつ)の生(う)みし二子(にし)有(あ)り、乃(すなわ)ち雌雄(しゆう)二箇(ふたつ)の雀雛(じゃくすう=雀の雛)にして、翅(つばさ)を停(とど)めて山坡(さんぱ=山の斜面)の下(した)に在(あ)りしを、此(こ)の王(おう)の弓(ゆみ)の開(ひら)ける処(ところ)に被(あ)いて、雄(おす)の孔雀(くじゃく)を射(い)て傷(そこな)い、那(か)の雌(めす)の孔雀(くじゃく)も也(また)箭(や)を帯(お)びて西(にし)に帰(かえ)れり。仏母(ぶつも)懺悔(さんげ)の以後(のち)、吩咐(いいつ)けて彼(かれ)をして鳳(ほう)を拆(わ)かれて三年(さんねん)、身(み)に啾疾(しゅうしつ=病の苦しみ)を耽(にな)わしむ。那(か)の時節(じせつ)、我(われ)此(こ)の犼(こう)を跨(またが)りて、同(とも)に此(こ)の言(げん)を聴(き)きしに、期(おも)わず此(こ)の孽畜(げっちく)心(こころ)を留(とど)め、故(ゆえ)に来(きた)りて皇后(こうごう)を騙(かた)り、王(おう)と災(わざわい)を消(け)せり。今(いま)に至(いた)るまで三年(さんねん)、冤愆(えんけん=罪過)満(み)ち足(た)り、幸(さいわい)に汝(なんじ)来(きた)りて王(おう)の患(わずらい)を救(すく)い治(なお)せるを、我(われ)特に来(きた)りて妖邪(ようじゃ)を収(おさ)むる也(なり)」と。

行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「菩薩(ぼさつ)、是(こ)れ此(か)くの般(ごとき)故事(こじ=訳)なるも、奈何(いかん)とも彼(かれ)皇后(こうごう)を玷汚(てんお=汚)し、俗(ぞく)を敗(やぶ)り風(ふう)を傷(そこな)い、倫(りん=人の道)を壊(こわ)し法(ほう)を乱(みだ)せり。却(かえ)って是(こ)れ彼(かれ)が死罪(しざい)に該(あた)る。今(いま)菩薩(ぼさつ)の親(みずか)ら臨(のぞ)むを蒙(こうむ)り、彼(かれ)が死罪(しざい)を饒(ゆる)すを得(う)るも、却(かえ)って彼(かれ)が活罪(かつざい=生きながら罰する罪)を饒(ゆる)すを得(え)ず。我(われ)をして彼(かれ)を打(う)つこと二十棒(にじゅうぼう)せしめ、汝(なんじ)に与(ともな)いて帯(つ)れ去(さ)らしめよ」と。菩薩(ぼさつ)道(い)う、「悟空(ごくう)、汝(なんじ)既(すで)に我(われ)の凡(ぼん)に臨(のぞ)むを知(し)らば、就(すなわ)ち当(まさ)に我(われ)が分上(ぶんじょう=顔)を看(み)て、一発(いっそ)皆(みな)饒(ゆる)して罷(や)めよ、也(また)汝(なんじ)が一番(ひとつ)の妖(よう)を降(くだ)すの功(こう)と算(かぞ)うれば。若(も)し是(こ)れ棍子(こんし=棒)を動(うご)かさば、彼(かれ)也(また)就(すなわ)ち是(こ)れ死(し)せるなり」と。行者(ぎょうじゃ)敢(あえ)て言(げん)に違(たが)わず、只(た)だ得(え)て拝(おが)んで道(い)う、「菩薩(ぼさつ)既(すで)に彼(かれ)を収(おさ)めて海(うみ)に回(かえ)さば、再(ふたた)び彼(かれ)をして私(ひそか)に人間(にんげん)に降(くだ)らしむること不可(べから)ず、害(がい)を貽(のこ)すこと浅(あさ)からざれば!」と。

那(か)の菩薩(ぼさつ)才(やっ)と一声(ひとこえ)喝(かつ)せらる、「孽畜(げっちく)! 還(ま)た原(もと)に還(かえ)らざるは、何時(いつ)をか待(ま)つ也(ぞ)!」と。只(た)だ見(み)る、那(か)の怪(かい)一箇(ひとつ)の滚(ころび)を打(う)ち、原身(げんしん=元の姿)を現(あらわ)し、毛衣(もうい=毛皮)を将(もっ)て抖抖(はらいはらい)すれば、菩薩(ぼさつ)騎(の)り上(あ)がる。菩薩(ぼさつ)又(また)項下(こうか=首の下)を望(み)やりて一(ひと)たび看(み)るに、那(か)の三箇(みつ)の金鈴(きんれい)の見(み)えず。菩薩(ぼさつ)道(い)う、「悟空(ごくう)、我(われ)に鈴(すず)を還(かえ)せ」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「老孫(ろうそん)知(し)らず」と。菩薩(ぼさつ)喝(かつ)して道(い)う、「汝(なんじ)が此(こ)の賊猴(ぞくこう=盗人猿)め! 若(も)し是(こ)れ汝(なんじ)が此(こ)の鈴(すず)を偸(ぬす)めるに非(あら)ずんば、一箇(ひとり)の悟空(ごくう)は說(い)わず、就(すなわ)ち是(こ)れ十箇(とたり)も、也(また)敢(あえ)て身(み)に近(ちか)づかず! 快(すみや)かに拿(と)り出(いだ)せ!」と。行者(ぎょうじゃ)笑(わら)って道(い)う、「実(じつ)に曾(かつ)て見(み)ず」と。菩薩(ぼさつ)道(い)う、「既(すで)に曾(かつ)て見(み)ずんば、我(われ)が《緊箍児咒(きんこじしゅ=金箍呪)》を念(とな)うるを等(ま)て」と。那(か)の行者(ぎょうじゃ)慌(あわ)てて、只(た)だ教(い)う、「念(とな)うること莫(なか)れ念(とな)うること莫(なか)れ! 鈴児(すず)は此(ここ)に在(あ)る哩(ぞ)!」と。是(こ)れ正(まさ)に是(かく)の如(ごと)し──
犼(こう)の項(くび)の金鈴(きんれい)何人(たれ)か解(と)かん、
鈴(すず)を解(と)く人(ひと)は還(ま)た鈴(すず)を繋(か)けし人(ひと)に問(と)う。

菩薩(ぼさつ)鈴児(すず)を将(もっ)て犼(こう)の項下(こうか)に套(かぶ)せ、身(み)を飛(と)ばして高(たか)く坐(ざ)す。汝(なんじ)看(み)よ、彼(かれ)が四足(よんそく)に蓮花(れんげ)生(しょう)じて焰焰(えんえん=燃え立ち)、満身(まんしん)に金縷(きんる=金糸)迸(ほとばし)りて森森(しんしん=きらきら)たる。大慈悲(だいじひ)南海(なんかい)に回(かえ)るは不題(さておき)。

却説(さて)、孫大聖(そんたいせい)衣裙(いうん=衣と裳)を整(ととの)え束(つか)ね、鉄棒(てつぼう)を輪(ふる)って獬豸洞(かいちどう)に打(う)ち進(すす)み入(い)り、群妖(ぐんよう)衆怪(しゅうかい)を把(と)って、情(こころ)を尽(つ)くして打(う)ち殺(ころ)し、剿除(しょうじょ=討ち滅ぼ)し干浄(かんじょう=すっかり)せり。直(ただ)ちに宮中(きゅうちゅう)に至(いた)り、聖宮娘娘(せいきゅうにょうにょう)を請(しょう)じて国(くに)に回(かえ)らんとす。那(か)の娘娘(にょうにょう)頂礼(ちょうらい=礼拝)すること尽(つ)きず。行者(ぎょうじゃ)菩薩(ぼさつ)の妖(よう)を降(くだ)ししこと并(ならび)に鳳(ほう)を拆(わ)かれし原由(げんゆう=訳)を将(もっ)て備(つぶさ)に說(と)くこと一遍(ひととおり)し、些(いささ)かの軟草(なんそう=柔らかき草)を尋(たず)ね、一条(ひとすじ)の草龍(そうりゅう=藁の龍)を扎(から)げ、教(おし)えて道(い)う、「娘娘(にょうにょう)跨(またが)り上(あが)れ、眼(め)を合(と)じて怕(おそ)るること莫(なか)れ、我(われ)汝(なんじ)を帯(つ)れて朝(ちょう)に回(かえ)り主(しゅ)に見(まみ)えんとす也(ぞ)」と。那(か)の娘娘(にょうにょう)謹(つつし)んで吩咐(いいつけ)に遵(したが)う。行者(ぎょうじゃ)神通(じんつう)を使(つか)い起(おこ)せば、只(た)だ聴(き)く耳(みみ)の内(うち)に風(かぜ)の響(ひび)き。半箇時辰(はんこじしん=一時間)、帯(つ)れて城(しろ)に進(い)り、雲頭(うんとう=雲の端)を按(おさ)え落(お)ろして叫(よ)ぶ、「娘娘(にょうにょう)眼(め)を開(ひら)け」と。

那(か)の皇后(こうごう)眼(め)を睜(みは)りて看(み)れば、是(こ)れ鳳閣龍楼(ほうかくりゅうろう=鳳凰の楼閣)なるを認(みと)め、心(こころ)の中(なか)に歓(よろこ)び、草龍(そうりゅう)を撇(す)てて、行者(ぎょうじゃ)と同(とも)に宝殿(ほうでん)に登(のぼ)る。那(か)の国王(こくおう)見(み)るや、急(いそ)ぎ龍床(りゅうしょう=玉座)を下(お)り、就(すなわ)ち来(きた)りて娘娘(にょうにょう)が玉手(ぎょくしゅ=美しき手)を扯(ひ)かんとし、離情(りじょう=離れし思い)を訴(うった)えんと欲(ほっ)するや、猛然(にわか)に倒(たお)れて地(ち)に跌(つまず)き、只(た)だ叫(よ)ぶ、「手(て)疼(いた)し! 手(て)疼(いた)し!」と。八戒(はっかい)哈哈(ははは)と大(おお)いに笑(わら)って道(い)う、「嘴臉(しれん=面つき)! 福(ふく)無(な)くして消受(しょうじゅ=受け楽しむ)す! 一(ひと)たび面(おもて)を見(み)るや就(すなわ)ち蟄(さ)し殺(ころ)されし也(なり)!」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「呆子(あほう)、汝(なんじ)敢(あえ)て彼(かれ)を扯(ひ)き扯(ひ)きする児(こと)するや」と。八戒(はっかい)道(い)う、「就(すなわ)ち彼(かれ)を扯(ひ)き儿(する)は便(すなわ)ち怎(どう)かしたる」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「娘娘(にょうにょう)が身(み)の上(うえ)に毒刺(どくし=毒の刺)を生(しょう)じ、手(て)の上(うえ)に蜇陽(せつよう=刺す陽の気)の毒(どく)有(あ)り。麒麟山(きりんざん)に到(いた)りし自(よ)り、那(か)の賽太歳(さいたいさい)と三年(さんねん)、那(か)の妖(よう)更(さら)に曾(かつ)て身(み)を沾(ふ)らず、但(た)だ身(み)を沾(ふ)らば就(すなわ)ち身(み)を害(そこな)いて疼(いた)み、但(た)だ手(て)を沾(ふ)らば就(すなわ)ち手(て)を害(そこな)いて疼(いた)む」と。衆官(しゅうかん)說(いう)を聴(き)くや、道(い)う、「此(か)くの似(ごと)きは怎(いか)に生(どう)か奈何(いかん)せん」と。

此(こ)の時(とき)外面(そと)の衆官(しゅうかん)憂疑(ゆうぎ=案じ疑い)、裡内(うち)の妃嬪(ひひん)悚懼(しょうく=おそれおののき)、旁(かたわら)に玉聖(ぎょくせい)・銀聖(ぎんせい)の二宮(にきゅう)有(あ)りて、君王(くんおう)を将(もっ)て扶(たす)け起(おこ)す。俱(とも)に正(まさ)に倉皇(そうこう=あわただしき)の際(さい)に在(あ)るに、忽(たちま)ち聴(き)く、那(か)の半空(はんくう)の中(なか)に人(ひと)有(あ)りて叫(よ)んで道(い)う、「大聖(たいせい)、我(われ)来(きた)れる也(ぞ)」と。行者(ぎょうじゃ)頭(こうべ)を抬(あ)げて観看(みわた)せば、只(た)だ見(み)る、那(か)の──

粛粛(しゅくしゅく)として天(てん)を冲(つ)く鶴唳(かくれい=鶴の鳴き声)、
飄飄(ひょうひょう)として径(ただ)ちに朝前(ちょうぜん=御前)に至(いた)る。
繚繞(りょうじょう=たなびきめぐる)祥光(しょうこう)道道(すじすじ)、
氤氳(いんうん=立ちこめる)瑞気(ずいき)翩翩(へんへん=ひらひら)。
棕衣(そうい=棕櫚の衣)体(からだ)を苫(おお)いて雲煙(うんえん)を放(はな)ち、
足(あし)に踏(ふ)む芒鞋(ぼうかい=わらじ)は罕(まれ)に見(み)る。
手(て)に執(と)るは龍鬚(りゅうしゅ=龍の髭)の蠅帚(えいそう=蝿たたき)、
糸縧(しとう=絹の帯)腰下(ようか)に囲(めぐ)り纏(まと)う。
乾坤(けんこん=天地)処処(しょしょ)に人縁(じんえん=人の縁)を結(むす)び、
大地(だいち)に逍遥(しょうよう)して遊(あそ)び遍(あまね)し。
此(こ)れ乃(すなわ)ち是(こ)れ大羅天(だいらてん)の上(うえ)の紫雲仙(しうんせん)、
今日(こんにち)凡(ぼん)に臨(のぞ)みて魘(えん=魔)を解(と)く。

行者(ぎょうじゃ)上(すす)みて前(まえ)に迎(むか)え住(とど)めて道(い)う、「張紫陽(ちょうしよう)何(いずこ)へか往(ゆ)く」と。紫陽真人(しようしんじん)直(ただ)ちに殿前(でんぜん)に至(いた)り、身(み)を躬(かが)めて礼(れい)を施(ほどこ)して道(い)う、「大聖(たいせい)、小仙(しょうせん)張伯端(ちょうはくたん)起手(きしゅ=拝)す」と。行者(ぎょうじゃ)礼(れい)に答(こた)えて道(い)う、「汝(なんじ)何(いずこ)よりか来(きた)る」と。真人(しんじん)道(い)う、「小仙(しょうせん)三年前(さんねんぜん)曾(かつ)て仏会(ぶつえ)に赴(おもむ)き、此(ここ)を打(とう)り過(よ)ぎるに因(よ)り、朱紫国王(しゅしこくおう)の鳳(ほう)を拆(わ)かるるの憂(うれい)有(あ)るを見(み)たり。我(われ)那(か)の妖(よう)の皇后(こうごう)を将(もっ)て玷辱(てんじょく=辱しめ)んことを恐(おそ)れ、人倫(じんりん)を壊(そこな)いて後日(ごじつ)国王(こくおう)と復(ま)た合(あ)い難(がた)からんことを恐(おそ)れたり。是(こ)れ我(われ)一件(ひとえ)の旧(ふる)き棕衣(そうい)を将(もっ)て一領(ひとえ)の新(あたら)しき霞裳(かしょう=霞の衣)に変(へん)じ作(な)し、光(ひかり)五彩(ごさい=五色)を生(しょう)じ、妖王(ようおう)に進(しん)じ与(あた)え、皇后(こうごう)に教(おし)えて穿(き)て妝新(そうしん=新装)せしめたり。那(か)の皇后(こうごう)身(み)に穿(き)て上(あ)ぐるや、即(すなわ)ち一身(いっしん)の毒刺(どくし)を生(しょう)ず。毒刺(どくし)とは、乃(すなわ)ち棕毛(そうもう=棕櫚の毛)也(なり)。今(いま)大聖(たいせい)の功(こう)を成(な)せるを知(し)り、特に来(きた)りて魘(えん=呪)を解(と)かんとす」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「既(すで)に此(か)くの如(ごと)し、汝(なんじ)を遠(とお)くより来(きた)らしめて累(わずら)わしめり、且(しばら)く快(すみや)かに解脱(げだつ=解き放つ)せよ」と。

真人(しんじん)走(はし)りて前(まえ)に向(むか)い、娘娘(にょうにょう)に対(たい)して手(て)を用(もち)いて一(ひと)たび指(さ)せば、即(すなわ)ち那(か)の件(ひとえ)の棕衣(そうい)を脱(ぬ)ぎ下(お)ろし、那(か)の娘娘(にょうにょう)遍体(へんたい=全身)旧(もと)の如(ごと)し。真人(しんじん)衣(ころも)を将(もっ)て抖(ふる)い一(ひと)たび抖(ふる)い、身(み)の上(うえ)に披(はお)りて、行者(ぎょうじゃ)に対(むか)いて道(い)う、「大聖(たいせい)罪(とが)めること勿(なか)れ、小仙(しょうせん)告辞(こくじ=いとまごい)す」と。行者(ぎょうじゃ)道(い)う、「且(しばら)く住(とど)まれ、君王(くんおう)の謝謝(しゃしゃ=礼をのぶ)るを待(ま)て」と。真人(しんじん)笑(わら)って道(い)う、「労(ろう)せず、労(ろう)せず」と。遂(つい)に長揖(ちょうゆう=深き揖)一声(ひとこえ)、空(そら)に騰(のぼ)りて去(さ)る。慌(あわ)てて那(か)の皇帝(こうてい)、皇后(こうごう)及(および)大小(だいしょう)の衆臣(しゅうしん)、一箇箇(めいめい)空(そら)を望(のぞ)みて礼拜(らいはい)す。

拝(おが)み畢(お)わるや、即(すなわ)ち命(めい)じて東閣(とうかく)を大(おお)いに開(ひら)き、四僧(しそう)を酬謝(しゅうしゃ=報い謝)す。那(か)の君王(くんおう)衆(しゅう)を領(ひき)いて跪(ひざまず)き拝(おが)み、夫妻(ふさい)才(やっ)と重(かさ)ねて諧(かな)うことを得(え)たり。正(まさ)に歓宴(かんえん)の時(とき)に当(あた)り、行者(ぎょうじゃ)叫(よ)ぶ、「師父(しふ)、那(か)の戦書(せんしょ=挑戦状)を拿(と)りて来(きた)れ」と。長老(ちょうろう)袖中(しゅうちゅう=袖の中)より取(と)り出(いだ)して行者(ぎょうじゃ)に遞(わた)し、行者(ぎょうじゃ)国王(こくおう)に遞(わた)して道(い)う、「此(こ)の書(しょ)は乃(すなわ)ち那(か)の怪(かい)の小校(しょうこう)を差(つか)わして送(おく)り来(きた)らしめし者(もの)なり。那(か)の小校(しょうこう)已(すで)に先(さき)に我(われ)に被(あ)いて打(う)ち殺(ころ)され、送(おく)り来(きた)りて功(こう)を報(ほう)ぜしめたり。後(のち)復(ま)た山中(さんちゅう)に至(いた)り、小校(しょうこう)に変(へん)じ作(な)り、洞(ほら)に進(すす)み入(い)りて回復(かいふく=返答)し、因(よ)って娘娘(にょうにょう)に見(まみ)ゆるを得(え)、金鈴(きんれい)を盗(ぬす)み出(いだ)し、幾(あわや)か彼(かれ)に拿(と)らえ住(とど)められんとせしが、又(また)変化(へんげ)して、復(ま)た偸(ぬす)み出(いだ)し、彼(かれ)と対敵(たいてき)せり。幸(さいわい)に観音菩薩(かんのんぼさつ)に遇(あ)いて彼(かれ)を将(もっ)て収(おさ)め去(さ)られ、又(また)我(われ)と鳳(ほう)を拆(わ)かれし故(ゆえ)を說(と)かれり」と。頭(はじめ)より尾(おわり)に至(いた)るまで、細(こま)かに說(と)くこと一遍(ひととおり)。那(か)の国(くに)を挙(こぞ)る君臣(くんしん)内外(ないがい)、一人(ひとり)として感謝(かんしゃ)し称賛(しょうさん)せざるは無(な)し。

唐僧(とうそう)道(い)う、「一(ひとつ)には則(すなわ)ち是(こ)れ賢王(けんおう)の福(ふく)、二(ふたつ)には来(きた)れるは是(こ)れ小徒(しょうと=弟子)の功(こう)なり。今(いま)盛宴(せいえん)を蒙(こうむ)り、至(きわま)れり! 至(きわま)れり! 就(すなわ)ち此(ここ)に拝別(はいべつ)し、貧僧(ひんそう)の西(にし)に去(ゆ)くを誤(あやま)らしむること要(い)らざる也(よ)」と。那(か)の国王(こくおう)懇(ねんご)ろに留(とど)むるも得(え)ず、遂(つい)に関文(かんぶん=通行証)を換(か)え、大(おお)いに鑾駕(らんが=天子の車駕)を排(なら)べ、唐僧(とうそう)を請(しょう)じて穏(おだ)やかに龍車(りゅうしゃ)に坐(ざ)せしむ。那(か)の君王(くんおう)妃后(ひごう)俱(とも)に轂(こく=車輪の軸)を捧(ささ)げ輪(りん=車輪)を推(お)し、相(あい)送(おく)りて別(わか)る。正(まさ)に是(かく)の如(ごと)し──

縁(えん)有(あ)って憂疑(ゆうぎ)の病(やまい)を洗(あら)い尽(つく)し、
念(ねん)を絶(た)ち思(おも)い無(な)ければ心(こころ)自(おのず)ずから寧(やす)し。

畢竟(つまるところ)、此(こ)の去(ゆ)く後面(のち)に再(ま)た甚(なん)の吉凶(きっきょう)の事(こと)有(あ)るかは、且(しばら)く下回(かかい)の分解(ぶんかい=説き明かし)を聴(き)け。