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083 第八十三回 心猿(しんえん)丹頭(たんとう)を識(し)り 奼女(ちゃじょ)本性(ほんしょう)に還(かえ)る

さて、三蔵(さんぞう)、妖精(ようせい)に洞(どう)の外(そと)まで送(おく)り出(いだ)されしかば、沙和尚(さおしょう)進(すす)み近(ちか)づきて問(と)うて曰(いわ)く、「師父(しふ)、出(い)で来(きた)りたれど、師兄(しい)はいずこにか在(あ)ります」と。八戒(はっかい)言う、「彼(かれ)に算計(さんけい=たくらみ)あれば、必(かなら)ず師父(しふ)を貼(つ)け換(か)えて送(おく)り出(いだ)したるならん」と。三蔵、手(て)をもちて妖精(ようせい)を指(さ)して言う、「汝(なんじ)が師兄(しい)は彼(か)の者(もの)が腹(はら)の裡(うち)に在(あ)るぞ」と。八戒笑って言う、「腌臢(あくた=むごたらし)や、人を殺(ころ)すな!腹の裡に在りて何(なに)をか做(な)す。疾(と)く出(い)で来(こ)よ!」と。行者(ぎょうじゃ)、裡辺(うち)に在りて叫(よばわ)って言う、「口(くち)を張(ひら)け、我が出(い)づるを待(ま)て!」と。かの怪(かい)、真(まこと)に口を張り開(あ)く。行者、小々(ちいさく)に変(へん)じて咽喉(いんこう=のど)の内(うち)に隠(かく)れおるが、正(まさ)に出(い)でんと欲(ほっ)するに、また彼が無理(むり)に来(きた)りて咬(か)まんことを恐(おそ)れ、すなわち鉄棒(てつぼう)を取出(とりだ)し、一口(ひとくち)の仙気(せんき)を吹(ふ)きて「変(へん)!」と叫(よばわ)る。

すなわち変じて一箇(ひとつ)の棗核釘児(そうかくていじ=棗の種の釘)と作(な)り、彼が上腭(じょうがく=上あご)を撑(つ)き支(ささ)え、身(み)を一縦(ひとおどり)して口の外(そと)に跳(と)び出(い)で、すなわち鉄棒(てつぼう)を手に随(したが)えて帯(たい)し出(いだ)し、腰(こし)を一躬(ひとこご)みして、また元の本(ほん)の法象(ほっそう=本来の姿)に還(かえ)り、棒(ぼう)を挙(あ)げ来(きた)りてすなわち打(う)つ。かの妖精(ようせい)もまた手に随(したが)いて両口(ふたふり)の宝剣(ほうけん)を取出(とりだ)し、叮噹(ていとう=かちかち)と架(かま)え住(とど)む。二人、山頭(さんとう=山のいただき)に在りてこの一場(ひとしきり)の好(よ)き殺(たたか)いかな。ただ見よ、
双(ふた)つの宝剣(ほうけん)舞(ま)い飛(と)んで当面(とうめん=真正面)に架(かま)え、金箍棒(きんこぼう)起(おこ)りて頭(かしら)を照(てら)して来(きた)る。
一箇(ひとり)はこれ天(てん)に生(しょう)ぜし猴属(こうぞく=猿の類)の心猿体(しんえんたい=心の猿のからだ)、
一箇はこれ地(ち)の産(さん)ぜし精霊(せいれい)の奼女骸(ちゃじょがい=奼女のがいこつ)。
彼(か)の二人、恨(うらみ)懐(ふところ)を衝(つ)き、喜(よろこ)ぶ処(ところ)に仇(あだ)を生(しょう)じて大(おお)いに会垓(かいがい=戦場)す。
かの者(もの)は元陽(げんよう=男の陽気)を取(と)りて配偶(はいぐう)を成(な)さんと要(もと)め、
この者は純陰(じゅんいん)を戦(たたか)いて聖胎(せいたい=聖なる胎)を結(むす)ばんとす。
棒(ぼう)挙(あが)れば一天(いってん)寒霧(かんむ=冷たい霧)漫(み)ち、剣(けん)迎(むか)えば満地(まんち)黒塵(こくじん)篩(ふるわ)る。
長老(ちょうろう)に因(よ)り、如来(にょらい)を拝(おが)まんとて、恨(うら)み苦(くるし)み相(あい)争(あらそ)いて大才(たいさい)を顕(あらわ)し、
水火(すいか)投(とう)ぜずして母道(ぼどう)損(そこな)われ、陰陽(いんよう)合(がっ)し難(がた)くして各(おのおの)分(わ)かれ開(ひら)く。
両家(りょうけ)闘(たたか)い罷(や)みて多時節(しばらく)、地(ち)動(うご)き山(やま)揺(ゆる)いで樹木(じゅもく)摧(くだ)く。
と。

八戒(はっかい)、彼(か)れらの賭闘(ととう=勝負)するを見、口(くち)の裡(うち)に絮絮叨叨(じょじょとうとう=ぶつぶつ)として、却(かえ)って行者(ぎょうじゃ)を恨(うら)み、身(み)を転(てん)じて沙僧(さそう)に向(むか)いて言う、
「兄弟(きょうだい)よ、師兄(しい)は胡(みだ)りに纏(まと)わるるかな!才(さい=さっき)彼が腹(はら)の裡(うち)に在(あ)りしとき、拳(こぶし)を輪(めぐ)らし起(おこ)して、彼に一箇(ひとつ)の満肚紅(まんとこう=腹いっぱいの血みどろ)を送(おく)り、肚皮(とひ=腹の皮)を扒(か)き開(ひら)いて潜(くぐ)り出(い)でなば、却(かえ)って了帳(りょうちょう=決着)とならずや。いかにしてかまた彼が口(くち)より出(い)でて、却(かえ)って彼と争(あらそ)い戦(たたか)い、彼をしてこのごとく猖狂(しょうきょう=横暴)ならしむるか!」
と。沙僧(さそう)言う、「是(ぜ)なり。されどまた師兄(しい)の深洞(しんどう=深き洞)の中(うち)より師父(しふ)を救(すく)い出(いだ)し、却(かえ)ってまた妖精(ようせい)と厮戦(しせん=斬り合い)するを頼(たの)めり。且(しばら)く請(こ)う、師父(しふ)には自(みずか)ら坐(ざ)したまえ。我と汝(なんじ)と各(おのおの)兵器(へいき)を執(と)り、大哥(たいか=兄貴)を助(たす)け助けして、妖精(ようせい)を打(う)ち倒(たお)しに往(ゆ)かん」と。八戒、手(て)を擺(ふ)って言う、「否(いな)否(いな)否(いな)!彼に神通(じんずう)あり、我らは及(およ)ばず」と。沙僧言う、「何(なん)の話(はなし)をか説(い)うや!みなこれ大家(たいか=みな)の益(えき)ある事(こと)なり。及(およ)ばずと申(もう)すとも、却(かえ)ってまた屁(へ)を放(ひ)りて風(かぜ)を添(そ)えん」と。

かの呆子(あほう)、一時(ひととき)に興(きょう)を発(おこ)し、釘鈀(ていは)を掣(ひっさ)げ、「去来(いざや)!」と一声(ひとこえ)叫(よばわ)る。彼(か)の二人(ふたり)、師父(しふ)を顧(かえり)みず、一擁(いちよう=ひとしく)して風(かぜ)に駕(が)して趕(お)いつき、釘鈀(ていは)を挙(あ)げ、宝杖(ほうじょう)を使(つか)い、妖精(ようせい)を望(めが)けて乱(みだ)りに打(う)つ。かの妖精(ようせい)、行者(ぎょうじゃ)一人(ひとり)と戦(たたか)うすらすでに能(あた)わざるに、また彼の二人の来(きた)るを見、いかでか抵敵(ていてき=防ぎ戦)し得(え)ん、急(いそ)ぎ頭(こうべ)を回(めぐ)らし身(み)を抽(ひ)いてすなわち走(に)ぐ。行者喝(しか)って言う、「兄弟(きょうだい)ら、趕(お)いつけ!」と。かの妖精(ようせい)、彼(か)れらの趕(お)うこと緊(きつ)きを見、すなわち右脚(みぎあし)の花鞋(かぐつ=花模様の靴)を脱(ぬ)ぎ下(おろ)し、一口(ひとくち)の仙気(せんき)を吹(ふ)き、一箇(ひとつ)の咒語(じゅご=まじない)を念(とな)え、「変(へん)!」と叫(よばわ)れば、すなわち変じて本(ほん)の姿(すがた)と作(な)り、両口(ふたふり)の宝剣(ほうけん)を使(つか)いて舞(ま)い来(きた)らせ、身(み)を一幌(ひとひらめき)して、一陣(ひとむれ)の清風(せいふう)と化(か)し、径(ただち)に回(かえ)り去(さ)る。この番(たび)もただ、彼(か)れらに戦(たたか)い過(す)ぐること能(あた)わずして、命(いのち)を顧(かえり)みて回(かえ)るとのみ思(おも)いしに、いずくんぞ知(し)らん、またこのごとき事(こと)の有(あ)らんとは!

またこれ三蔵(さんぞう)が災星(さいせい=災いの星)いまだ退(しりぞ)かざるなり。彼(か)の妖(よう)、洞門(どうもん)の前(まえ)の牌楼(はいろう=門の楼)の下(もと)に到(いた)りしかば、却(かえ)って唐僧(とうそう)のそこに独(ひと)り坐(ざ)せるを見(み)る。すなわち進(すす)み近(ちか)づき一把(ひとつかみ)に抱(いだ)き住(とど)め、行李(こうり)を搶(かす)め取(と)り、繮縄(こうじょう=手綱)を咬(か)み断(た)ち、人(ひと)と馬(うま)ともどもに、また復(ま)た摂(さら)いて将(も)ち入(い)り往(ゆ)く。これ語(かた)らず。

さて、八戒(はっかい)、空(くう)を閃(かわ)して一鈀(ひとは)もて妖精(ようせい)を打(う)ち落(おと)せしに、これ一只(ひとつ)の花鞋(かぐつ)なりき。行者(ぎょうじゃ)見て言う、「汝(なんじ)らこの二人(ふたり)の呆子(あほう)め!師父(しふ)を見(み)ておれば足(た)るに、孰(たれ)が汝(なんじ)の来(きた)りて何(なん)の功(こう)をか助(たす)けんことを要(もと)めしぞ!」と。八戒言う、「沙和尚(さおしょう)、どうじゃ!来(く)るなと申(もう)せしに。この猴(さる)め、好(よ)く些(いささ)かの夹脳風(きょうのうふう=頭のおかしさ)ありて、我(われ)らが彼に代(かわ)りて妖怪(ようかい)を降(くだ)したるに、却(かえ)って彼に生(なま)の報怨(ほうえん=恨み言)を落(おと)さるるとは!」と。行者言う、「いずこにか妖怪(ようかい)を降(くだ)ししや。かの妖怪(ようかい)は昨日(きのう)我と戦(たたか)いしとき、一箇(ひとつ)の遺鞋計(いぐつけい=靴を残す計)を使(つか)いて哄(たぶらか)せり。汝(なんじ)ら走(ゆ)き去(さ)りて、師父(しふ)の如(いか)なるを知(し)らず、我(われ)ら疾(と)く往(ゆ)きて看(み)ん!」と。三人(さんにん)急(いそ)ぎ回(かえ)り来(きた)るに、果(はた)して師父(しふ)は無(な)く、行李(こうり)と白馬(はくば)もろともに一(ひとえ)に踪(あと)無(な)し。慌(あわ)てたるかな八戒(はっかい)、両頭(りょうとう=あちこち)を乱(みだ)りに跑(はし)り、沙僧(さそう)前後(ぜんご)に跟(したが)い尋(たず)ぬ。孫大聖(そんたいせい)もまた心(こころ)焦(こが)れ性(せい)燥(いら)だつ。正(まさ)に尋覓(じんべき=捜し求)むる処(ところ)に、ただ見よ、かの路(みち)の旁(かたわら)に半截児(はんせつじ=半切れ)の繮縄(こうじょう)の斜(なな)めに軃(た)れおるを。彼(か)れ、一把(ひとつかみ)に拿(と)り起(あ)ぐるや、眼中(がんちゅう)の涙(なみだ)の流(なが)るるを止(とど)めえず、声(こえ)を放(はな)って叫(よばわ)って曰(いわ)く、
「師父(しふ)や!
我が去(ゆ)きしときは人(ひと)と馬(うま)とに辞別(じべつ=別れを告)げしに、回(かえ)り来(きた)ればただこれらの縄(なわ)のみを見(み)る!」
と。これ正(まさ)に、かの鞍(くら)を見て俊馬(しゅんば=駿馬)を思(おも)い、涙(なみだ)を滴(したた)らせて親人(しんじん=したしきひと)を想(おも)う、なり。八戒、彼が涙(なみだ)を垂(た)るるを見、忍(しの)びえずして天(てん)を仰(あお)いで大(おお)いに笑(わら)う。行者罵(ののし)って言う、「汝(なんじ)この夯貨(こうか=鈍物)め!またこれ散火(さんか=解散)せんと欲(ほっ)するか」と。八戒また笑って言う、「哥(あに)や、さような話(はなし)に非(あら)ず。師父(しふ)は定(かなら)ずまた妖精(ようせい)に洞(どう)の裡(うち)へ摂(さら)われ往(ゆ)きしならん。常言(じょうげん=ことわざ)に道(いわ)く、『事(こと)三(みたび)無(な)くんば成(な)らず』と。汝(なんじ)、すでに二遭(にかい)洞(どう)に入(い)りたり、もう一遭(ひとたび)入(い)り往(ゆ)かば、管(かなら)ず師父を救(すく)い出(いだ)し得(う)べし」と。行者、涙(なみだ)を揩(ぬぐ)うて言う、「しからば、この地歩(ちほ=境地)に到(いた)りては、勢(いきおい)己(おのれ)を容(い)れず、我はまた入(い)らん。汝(なんじ)ら二人(ふたり)は行李(こうり)も馬匹(ばひつ)も無(な)くして心(こころ)を耽(と)じること莫(な)かれ、好(よ)く生(よく)洞口(どうこう)を把守(はしゅ=守)れ」と。

好(よ)き大聖(たいせい)かな、すなわち身(み)を転(てん)じて裡(うち)に跳(と)び入(い)るに、変化(へんげ)を施(ほどこ)さず、ただ本身(ほんしん)の法相(ほっそう=法の姿)をもちてす。真箇(まこと)にこれ、
古怪(ここわい=風変わり)にして別腮(べっさい=こけた頬)、心裡(しんり=心のうち)強(つよ)く、
小(ちいさ)きより怪(かい)と為(な)りて神力(しんりき)壮(さか)んなり。
高低(こうてい=でこぼこ)の面(おもて)は馬鞍鞽(ばあんきょう=鞍の反り)に賽(まさ)り、眼(まなこ)は金光(きんこう)を放(はな)ちて火(ひ)の如(ごと)く亮(あきら)かなり。
渾身(こんしん=からだじゅう)の毛(け)は硬(かた)きこと鋼針(こうしん=鋼の針)に似(に)、虎皮裙(こひくん)は明花(めいか)を系(か)けて響(ひび)く。
天(てん)に上(のぼ)れば撞(つ)き散(ち)らして万雲(ばんうん)飛(と)び、海(うみ)に下(くだ)れば混(みだ)り起(おこ)して千層(せんそう)の浪(なみ)あり。
当(まさ)に天(てん)に倚(よ)り力(ちから)もて天王(てんのう)を打(う)ち、擋(ふせ)ぎ退(しりぞ)けて十万八千(じゅうまんはっせん)の将(しょう)あり。
官(かん)に封(ほう)ぜられて大聖(たいせい)美猴精(びこうせい)、手(て)の中(うち)に慣(な)れて金箍棒(きんこぼう)を使(つか)う。
今日(こんにち)西天(せいてん)に能(のう)を任(まか)せて顕(あらわ)し、復(ま)た洞内(どうない)に来(きた)りて三蔵(さんぞう)を扶(たす)く。
と。汝(なんじ)看(み)よ、彼(か)れ雲光(うんこう)を停(とど)め住(とど)め、径(ただち)にかの妖精(ようせい)の宅外(たくがい)に到(いた)りしに、あの門楼(ろう)の門(もん)の関(とざ)されたるを見、好歹(よしあし)を分(わか)たず、鉄棒(てつぼう)を輪(めぐ)らして一下(ひとつ)に打(う)ち開(あ)け、闯(つ)け入(い)りて往(ゆ)く。かの裡辺(うち)は静悄悄(しずか)として、全(まった)く人(ひと)の迹(あと)無(な)く、東廊(とうろう=東の廊下)の下(した)に唐僧(とうそう)を見(み)ず、亭子(ていす=あずまや)の上(うえ)の桌椅(たくい=机や椅子)と各処(かくしょ=あちらこちら)の家火(かか=道具)と、一件(ひとえ)もまた無(な)し。元来(もと)かの洞(どう)の裡(うち)は周囲(しゅうい)三百余里(さんびゃくより)ありて、妖精(ようせい)の窠穴(かけつ=巣穴)甚(はなは)だ多(おお)し。前番(ぜんばん=先のたび)唐僧(とうそう)をここに摂(さら)いしとき、行者(ぎょうじゃ)に尋(たず)ね著(あ)てられしにより、この番(たび)摂(さら)いては、また行者の来(きた)りて尋(たず)ぬるを怕(おそ)れ、当時(そのとき)搬(うつ)りて、いずこへか往(ゆ)きしを知(し)らず。

悩(なや)ましたるかなこの行者(ぎょうじゃ)、足(あし)を跌(ふみなら)し胸(むね)を捶(う)ち、声(こえ)を放(はな)って高(たか)く叫って言う、
「師父や!汝(なんじ)はこれ晦気(わいき=不運)の転(てん)じ成(な)りし唐三蔵(とうさんぞう)、災殃(さいおう=災い)の鋳(い)て就(な)しし取経僧(しゅきょうそう=経を取りに往く僧)なるかな!噫(ああ)!この路(みち)はかつて歩(あゆ)み熟(な)れたるに、いかにしてか在(あ)らざる。却(かえ)って老孫(ろうそん)をしていずこにか尋(たず)ね覓(もと)めしむるや!」
と。正(まさ)に吆喝(ようかつ=叫び)し爆燥(ばくそう=苛立)ちおる間(あいだ)に、忽然(たちまち)一陣(ひとむれ)の香烟(こうえん=香のけぶり)の鼻(はな)を撲(う)つを聞(き)くや、彼(か)れ性(せい)を回(かえ)して言う、「この香烟(こうえん)は後面(うしろ)より飄(ただよ)い出づるなれば、想(おも)うに後頭(うしろ)に在(あ)るならん」と。步(あゆみ)を運(はこ)び、鉄棒(てつぼう)を提(ひっさ)げ、走(あゆ)み将(も)ちて裡(うち)へ入(い)りて看(み)るに、また動静(どうせい=気配)を見(み)ず。ただ三間(さんげん)の倒坐児(とうざじ=裏向きの座敷)の有(あ)るのみにして、後壁(こうへき=奥の壁)に近(ちか)く却(かえ)って一張(ひとつ)の龍呑口彫漆供卓(りゅうどんこうちょうしつくたく=竜の口の彫漆の供え机)を鋪(し)けり。卓上(たくじょう)に一箇(ひとつ)の大きなる流金香炉(りゅうきんこうろ=金を流した香炉)有(あ)りて、炉(ろ)の内(うち)に香烟(こうえん)馥郁(ふくいく=芳しく)たり。その上(うえ)に一箇(ひとつ)の大きなる金字牌(きんじはい=金文字の札)を供養(くよう)し、牌(はい)の上(うえ)に『尊父李天王之位(そんぷりてんのうのい)』と写(うつ)しあり、少(すこ)し次(つい)でまた『尊兄哪吒三太子位(そんけいなたさんたいしのい)』と写しあり。

行者(ぎょうじゃ)これを見て満心(まんしん)に歓喜(かんき)し、妖怪(ようかい)を捜(さぐ)り唐僧(とうそう)を找(たず)ねるにも往(ゆ)かず、鉄棒(てつぼう)を捻(ひね)って一箇(ひとつ)の繍花針児(しゅうかしんじ=刺繍針)と作(な)し、耳朶(じた=耳)の裡(うち)に揌(おしこ)め、手(て)を輪(めぐ)らし開(ひら)き、かの牌子(はいす=札)と香炉(こうろ)とを拿(と)り将(も)ち起(あ)げ、雲光(うんこう)を返(かえ)し、径(ただち)に門(もん)を出でて去(さ)る。洞口(どうこう)に至(いた)るや、唏唏哈哈(ききかから=にこにこ)として笑(わら)い声(こえ)絶(た)えず。八戒(はっかい)・沙僧(さそう)これを聴(き)き、洞口(どうこう)に掣(ひっさ)げ放(お)きて、行者(ぎょうじゃ)を迎(むか)えて言う、「哥哥(あに)のこのごとく歓喜(かんき)したまうは、想(おも)うに師父を救(すく)い出(いだ)したるならん」と。行者笑って言う、「我(われ)らの救(すく)うを要(よう)せず、ただこの牌子(はいす)に問(と)うて人(ひと)を要(もと)めん」と。八戒言う、「哥(あに)や、この牌子(はいす)は妖精(ようせい)に非(あら)ざるのみならず、また話(はなし)を為(な)すことを会(え)せず、いかにしてか彼(か)れに問(と)うて人(ひと)を要(もと)めん」と。行者、地(ち)の上(うえ)に放(お)き置(お)いて言う、
「汝(なんじ)ら看(み)よ!」
と。沙僧(さそう)、進(すす)み近(ちか)づきて看(み)る時(とき)、上(うえ)に『尊父李天王之位(そんぷりてんのうのい)』『尊兄哪吒三太子位(そんけいなたさんたいしのい)』と写(うつ)しあり。沙僧言う、「この意(こころ)は何(なん)ぞや」と。行者言う、「これかの妖精の家(いえ)の供養(くよう)せるところなり。我(われ)かの住居(じゅうきょ)の所(ところ)に闯(つ)け入(い)りしに、人迹(じんせき)の俱(みな)無(な)きを見(み)て、ただこの牌(はい)の有(あ)るのみ。想(おも)うに李天王(りてんのう)の女(むすめ)、三太子(さんたいし)の妹(いもうと)にして、凡(ぼん)を思(おも)いて下界(げかい)に降(くだ)り、妖邪(ようじゃ)に仮(かり)に扮(よそお)い、我(わ)が師父を摂(さら)い去(さ)りしならん。彼(か)れに問(と)うて人を要(もと)めずんば、却(かえ)って孰(たれ)にか問(と)わん。汝(なんじ)ら二人(ふたり)且(しばら)くここに在(あ)りて把守(はしゅ)せよ、老孫(ろうそん)のこの牌位(はいじ)を執(と)り、径(ただち)に天堂(てんどう)に上(のぼ)り玉帝(ぎょくてい)の前(まえ)に一箇の御状(ぎょじょう=天子への訴え)を告(こ)うし、天王(てんのう)の爺児(やじ=親子)らをして我が師父を還(かえ)さしむるを待(ま)て」と。八戒言う、
「哥(あに)や、常言(じょうげん)に道(いわ)く、『人を告(つ)ぐるに死罪(しざい)を得(う)れば死罪(しざい)を得(う)』と。須(かなら)ずこれ理(ことわり)の順(したが)うにして、方(はじ)めてこれを為(な)すべし。いわんや御状(ぎょじょう)はまた豈(あ)に軽(かろ)ろく告(こ)うべきものならんや。汝(なんじ)且(しばら)く我に与(とも)に説(と)け、いかにしてか彼(か)れを告(つ)ぐる」と。行者笑って言う、「我に主張(しゅちょう=考え)有(あ)り。我、この牌位(はいじ)香炉(こうろ)を把(も)ちて一箇の証見(しょうけん=証拠)と做(な)し、別(べつ)にまた紙状児(しじょうじ=紙の訴状)を備(そな)えん」と。八戒言う、
「状児(じょうじ=訴状)の上にいかにか写(うつ)す。汝(なんじ)且(しばら)くこれを念(よ)みて我(われ)に聴(き)かせよ」
と。行者言う、
「告状人孫悟空(こくじょうにんそんごくう)、年甲(ねんこう=年齢)牒(ちょう)に在(あ)り、東土唐朝(とうどとうちょう)の西天(せいてん)に経(きょう)を取(と)る僧(そう)唐三蔵(とうさんぞう)が徒弟(でし)たり。
告(こく)するは仮妖(けよう=偽りの妖)の人口(じんこう)を摂(さら)い陷(おとしい)るるの事(こと)の為(ため)なり。
今(いま)托塔天王李靖(たくとうてんのうりせい)同(どう)に男(なん)哪吒太子(なったたいし)の、閨門(けいもん=奥向き)謹(つつし)まず、親女(しんじょ=実の娘)を走出(にげいだ)して、下方(かほう)の陥空山無底洞(かんくうざんむていどう)に在りて妖邪(ようじゃ)に変化(へんげ)し、人命(じんめい)を迷(まよ)わし害(そこな)うこと無数(むすう)なる有(あ)り。
今(いま)吾(わ)が師(し)を摂(さら)い陷(おとしい)れて曲邃(きょくすい=奥深き)の所(ところ)に在りて、渺(びょう)として尋(たず)ぬる処(ところ)無(な)し。
若(も)し状告(じょうこく=訴え出)せずんば、切(せつ)に思(おも)うに伊(かれ)が父子(ふし)不仁(ふじん)にして、故(ことさら)に女氏(じょし=娘)を縦(ほしいまま)にして精(せい)と成(な)り衆(しゅう)を害(そこな)わしむ。
伏(ふ)して憐(あわれ)み准(ゆる)して、行(ゆ)きて案(あん)に拘(こう)し至(いた)り、邪(じゃ)を収(おさ)め師(し)を救(すく)い、其(そ)の罪(つみ)を明(あきら)かに正(ただ)さんことを乞(こ)う。深(ふか)く恩便(おんべん=恩恵)を為(な)すものなり。
此(これ)有(あ)りて上告(じょうこく)す」
と。八戒・沙僧其(そ)の言(げん)を聞(き)き、十分(じゅうぶん)に歓喜(かんき)して言う、「哥(あに)や、告(こ)うること理(ことわり)有(あ)り、必(かなら)ず上風(じょうふう=勝ち)を得(う)べし。切(きっ)と須(かなら)ず早(はや)く来(きた)れ、稍(すこ)しく遅(おく)るれば妖精の師父が性命(いのち)を傷(そこな)わんことを恐(おそ)る」と。行者言う、「我は疾(と)し!我は疾し!多時(おおとき)には飯(はん)熟(じゅく)し、少時(すことき)には茶(ちゃ)滚(わ)くほどにしてすなわち回(かえ)らん」と。

好(よ)き大聖(たいせい)かな、この牌位(はいじ)香炉(こうろ)を執(と)り、身(み)を一縦(ひとおどり)して、祥雲(しょううん)に駕(が)して直(ただち)に南天門(なんてんもん)の外(そと)に至(いた)る。時(とき)に天門(てんもん)を把(まも)る大力天王(だいりきてんのう)と護国天王(ごこくてんのう)と行者の来るを見、箇箇(おのおの)みな背(せ)を控(ひき)め身(み)を躬(かが)めて、敢(あ)えて攔阻(らんそ=さえぎり留)めず、彼をして入らしむ。直(ただち)に通明殿(つうめいでん)の下(もと)に至(いた)れば、張葛許邱(ちょうかつきょきゅう)の四大天師(よんだいてんし)有(あ)りて、面(おもて)を迎(むか)えて礼(れい)を作(な)して言う、「大聖(たいせい)はいずこより来る」と。行者言う、「紙状児(しじょうじ)有(あ)りて、二人(ふたり)の者(もの)を告(こ)うと要(ほっ)するなり」と。天師(てんし)吃驚(びっくり)して言う、「この頼皮(らいひ=食わせ者)め、孰(たれ)をか告(つ)げんとするを知(し)らず」と。無奈(いたしかたなく)、彼を将(も)ちて霊霄殿(れいしょうでん)の下(もと)に引(ひ)き入れて啓奏(けいそう=申し上げ)す。旨(みことのり)を蒙(こうむ)りて宣(せん)じ入れられ、行者、牌位(はいじ)香炉(こうろ)を放下(おろ)し、上(かみ)に向(むか)いて礼(れい)を畢(おわ)り、状子(じょうす=訴状)を呈上(ていじょう=差し出す)。葛仙翁(かつせんおう)これを接(う)けて、御案(ぎょあん=天子の机)に鋪(し)く。玉帝(ぎょくてい)頭(かしら)より看(み)て、このごときこのごときと見(み)れば、すなわち原状(げんじょう)を将(も)ちて聖旨(せいし=勅旨)に批(ひ)し作(な)し、西方(せいほう)の長庚(ちょうこう)たる太白金星(たいはくきんせい)を宣(せん)じて旨(みことのり)を領(う)けて雲楼宮(うんろうきゅう)に到(いた)り、托塔李天王(たくとうりてんのう)を宣して見駕(けんが=天子に謁見)せしむ。行者、前(まえ)に進(すす)み出でて奏(そう)して言う、「望(のぞ)むらくは天主(てんしゅ)好(よ)く生(よく)懲治(ちょうじ=懲らしめ治)めたまえ。然(しか)らずんば、また別(べつ)に事端(じたん=騒ぎ)を生(しょう)ぜん」と。玉帝また吩咐(いいつけ)て言う、「原告(げんこく=訴え人)もまた去(ゆ)け」と。行者言う、「老孫(ろうそん)もまた去(ゆ)くか」と。

四天師(よんてんし)言う、「万歳(ばんぜい)すでに旨意(しい=勅命)を出(いだ)されたれば、汝(なんじ)金星(きんせい)と同(とも)に去(ゆ)くべし」と。行者、真(まこと)に金星(きんせい)に随(したが)いて、雲頭(うんとう)を縦(はな)ちて早(はや)くも雲楼宮(うんろうきゅう)に至(いた)る。元来(もと)これ天王(てんのう)の住宅(じゅうたく)にして、号(ごう)して雲楼宮(うんろうきゅう)と曰(い)う。金星、宮門首(きゅうもんしゅ=宮の門前)に一箇(ひとり)の童子(どうじ)の侍立(じりつ=かしこまり立つ)せるを見るに、かの童子金星を認(みと)め、すなわち裡に入りて報(しら)して言う、「太白金星(たいはくきんせい)の老爺(ろうや=ご主人)が来られました」と。天王(てんのう)すなわち出でて迎迓(げいが=迎え)し、また金星の旨意(しい)を捧(ささ)ぐるを見て、すなわち命(めい)じて香(こう)を焚(た)かしむ。身(み)を転(てん)ずるに及(およ)び、また行者(ぎょうじゃ)の跟(したが)い入るを見て、天王すなわちまた作怒(さくど=怒りを発)す。汝(なんじ)彼(か)れの作怒(さくど)するは何(なん)の為(ため)ぞと道(い)わば、
当年(とうねん=そのかみ)行者の天宮(てんぐう)を大(おお)いに闹(さわ)がしし時(とき)、玉帝かつて天王を降魔大元帥(ごうまだいげんすい)に封(ほう)じ、哪吒太子(なったたいし)を三壇海会之神(さんだんかいえのしん)に封じ、天兵(てんぺい)を帥領(すいりょう=率い)して行者を収降(しゅうこう=降伏させ連行)せしめしに、屡(しばしば)戦(たたか)うも勝(か)つを取(と)る能(あた)わざりき。これ還(けだ)し五百年前(ごひゃくねんぜん)に陣(じん)に敗(やぶ)れし仇気(あだぎ=遺恨)にして、些(いささ)か彼を悩(なや)ますところ有(あ)れば、このをもて作怒(さくど)せるなり。彼(か)れ且(しばら)くも忍(しの)びえずして言う、
「老長庚(ろうちょうこう)、汝(なんじ)が赍(たずさ)え来りしは何(なん)の旨意(しい)ぞ」
と。金星言う、「これ孫大聖(そんたいせい)の汝(なんじ)を告(つ)ぐる状子(じょうす)なり」と。かの天王、本(もと)煩悩(はんのう=心乱れ)せるに、「告(こく)」の字(じ)を説(い)うを聴(き)くや、一発(いっぱつ)に雷霆(らいてい=雷のごとく)大怒(だいど)して言う、「彼(か)れ我を告(つ)ぐるとは何(なん)としたるか」と。金星言う、「汝(なんじ)が仮妖(けよう)の人を摂(さら)い陷(おとしい)るるの事(こと)を告(こ)うるなり。汝、香(こう)を焚(た)きて、請(こ)う、自(みずか)ら開(ひら)き読(よ)め」と。かの天王、気(き)呼呼(ここ)として香案(こうあん=香を焚く机)を設(もう)け、空(くう)を望(のぞ)みて恩(おん)を謝(しゃ)す。拝(はい)し畢(おわ)り、旨意(しい)を展開(ひろげ)して看(み)れば、元来(もと)これこのごときこのごとき、如此如此(かくのごとくかくのごとく)にして、恨(うら)むらくは彼(か)れ手(て)もて香案(こうあん)を撲(う)ちて言う、「この猴頭(こうとう=猿め)!彼(か)れもまた我を錯(あやま)り告(つ)げたり!」と。金星言う、「且(しばら)く怒(いかり)を息(いこ)え。現(げん)に牌位(はいじ)香炉(こうろ)の御前(ごぜん)に在りて証(しょう)と作(な)り、汝(なんじ)が親女(しんじょ)なりと説(い)うぞ」と。天王言う、「我(われ)ただ三箇(みたり)の児子(むすこ)と一箇(ひとり)の女児(むすめ)と有(あ)るのみ。大(いちばん)の児(こ)は名(な)を金吒(こんだ)と曰(い)い、如来(にょらい)に侍奉(じほう=仕え)して、前部(ぜんぶ)の護法(ごほう)を做(な)す。二(にばん)の児は名を木吒(もくた)と曰い、南海(なんかい)に在りて観世音(かんぜおん)に随(したが)いて徒弟(でし)と為(な)る。三(さんばん)の児は名を得(え)て哪吒(なった)と曰い、我が身辺(しんぺん=そば)に在りて、早晩(ちょうそう=朝な夕な)朝(みかど)に随(した)がいて護駕(ごが=みかどをお守)す。一女(ひとり)は年(とし)方(まさ)に七歳(ななつ)、名(な)を貞英(ていえい)と曰(い)うに、人事(じんじ=人の世のこと)いまだ省得(さと)らざるに、いかでか妖精と做(な)ることを会(え)せん!
信(しん)ぜずんば、抱(いだ)き出(いだ)して汝(なんじ)に看せん。この猴頭(こうとう)め、着実(じゃつじつ=まったく)無礼(ぶれい)なり!且(しばら)く我(われ)の天上(てんじょう)の元勲(げんくん=古き功臣)にして、先斬後奏(さきに斬り後に奏す)の職(しょく)を封受(ほうじゅ=授かり)たるを言(い)わず、すなわち下界(げかい)の小民(しょうみん)なりとも、また誣告(ふこく=偽り告げる)すべからず。律(りつ)に云(いわ)く、『誣告(ふこく)は三等(さんとう)を加(くわ)う』と」
と。手下(しゅか=家来)に叫って言う、「縛妖索(ばくようじゃく=妖を縛る縄)を将ちてこの猴頭(こうとう)を捆(くく)れ!」と。かの庭下(ていか=庭のもと)に巨霊神(きょれいしん)・魚肚将(ぎょとしょう)・薬叉雄帥(やくしゃゆうすい)の擺列(ならびつらな)れるありしが、一擁(いちよう)して前(まえ)に進(すす)み、行者を捆(くく)り了(おわ)んぬ。金星言う、「李天王(りてんのう)、闖禍(ちょうか=禍を起こ)す莫(な)かれ!我(われ)御前(ごぜん)に在りて彼と同(とも)に旨意(しい)を領(う)けて汝(なんじ)が人を宣(せん)じに来れるなり。汝(なんじ)がかの索児(じゃくじ=縄)は頗(すこぶ)る重(おも)し、一時(ひととき)に彼を捆(くく)り壊(こわ)さば、閤気(こうき=揉め事)ならん」と。天王言う、「金星(きんせい)や、彼(か)れのこのごとく詐偽(さぎ=いつわり)して告え擾(みだ)すが如(ごと)きは、いかでか容(ゆる)すべきや!汝(なんじ)且(しばら)く坐下(ざげ)せよ、我(われ)が砍妖刀(かんようとう=妖を斬る刀)を取(と)りてこの猴頭(こうとう)を砍(き)らんを待(ま)て、然(しか)して後(のち)に汝(なんじ)と与(とも)に見駕(けんが)して旨(むね)を回さん」と。金星、彼(か)れの刀(かたな)を取(と)るを見、心(こころ)驚(おどろ)き胆(きも)戦(おのの)き、行者に向(むか)いて言う、「汝(なんじ)が事(こと)を幹(おこな)うは差(たが)えり。御状(ぎょじょう)は豈(あ)に軽(かろ)ろく告うべきものならんや。汝(なんじ)また的実(てきじつ=確かなること)を訪(たず)ねず、このごとく乱(みだ)りに弄(いじ)りて、其(そ)が性命(いのち)を傷(そこな)わば、いかんか好からん」と。行者、全(まった)く懼(おそ)れず、笑吟吟(しょうぎんぎん=にこにこ)として言う、「老官児(ろうかんじ=おじいさん)放心(ほうしん)せよ、些(いささ)かも事無(な)し。老孫(ろうそん)が売買(ばいばい=商売)は、元(も)とこのごとく做(な)すものなり。一定(かなら)ず先(まず)輸(ま)けて後(のち)に贏(か)たん」と。

説(いう)了(おわ)らざるに、天王刀(かたな)を輪(めぐ)らし過(よ)ぎ来り、行者を望(めが)けて頭(かしら)を劈(つんざ)いてすなわち砍(き)る。早(はや)くもかの三太子(さんたいし)の趕(お)い前(すす)み出で、斬腰剣(ざんようけん=腰を斬る剣)を将ちて架(かま)え住(とど)め、叫って言う、「父王(ふおう)、怒(いかり)を息(いこ)え」と。天王、大(おお)いに驚(おどろ)きて色(しき=顔色)を失(うしな)う。噫(ああ)!

父(ちち)子(こ)が剣(けん)をもちて刀(かたな)を架(かま)うるを見なば、すなわち当(まさ)に喝(しか)り退(しりぞ)くべしに、いかにしてか却って大(おお)いに驚(おどろ)き色(しき)を失(うしな)うや。元来(もと)天王(てんのう)この子(こ)を生(う)みし時(とき)、彼の左手(ひだりて)の掌(てのひら)の上に一箇の『哪(な)』の字(じ)有(あ)り、右手(みぎて)の掌(たなごころ)の上に一箇の『吒(た)』の字有(あ)りしかば、故(ゆえ)に名(な)づけて哪吒(なった)と曰(い)う。この太子(たいし)、三朝児(さんちょうじ=生後三日)にしてすでに海(うみ)に下(くだ)り身(み)を浄(きよ)めて闖禍(ちょうか)し、水晶宮(すいしょうきゅう)を踏(ふ)み倒(たお)し、蛟龍(こうりゅう=みずち)を捉(とら)え住(とど)めて筋(すじ)を抽(ぬ)きて縧子(とうす=組紐)と為(な)さんと要(もと)めき。天王これを知(し)り、後患(こうかん=後の災い)を生(しょう)ぜんことを恐(おそ)れて、之(これ)を殺(ころ)さんと欲(ほっ)す。哪吒(なった)奮怒(ふんぬ=奮い怒り)、刀(かたな)を手に将(と)り、肉(にく)を割(さ)きて母(はは)に還(かえ)し、骨(ほね)を剔(えぐ)りて父(ちち)に還(かえ)し、父の精(せい)母の血(ち)を還(かえ)し了(おわ)りて、一点(ひとつぶ)の霊魂(れいこん)は径(ただち)に西方極楽世界(せいほうごくらくせかい)に到(いた)りて仏(ほとけ)に告う。仏、正(まさ)に衆(しゅう)の菩薩(ぼさつ)と与(とも)に経(きょう)を講(こう)じおるに、ただ幢幡宝蓋(どうばんほうがい=仏の幡と天蓋)の裡より人の「救命(たすけたまえ)!」と叫るを聞(き)くのみ。仏、慧眼(えげん=智慧の眼)もて一(ひと)たび看て、これ哪吒(なった)の魂(たましい)なるを知(し)り、すなわち碧藕(へきぐう=青き蓮根)を将ちて骨(ほね)と為し、荷葉(かよう=蓮の葉)を以(も)ちて衣(ころも)と為し、起死回生(きしかいせい=死を起こし生に回る)の真言(しんごん)を念(とな)え動(うご)かせば、哪吒(なった)遂(つい)に性命(いのち)を得(え)たり。神力(しんりき)を運用(うんよう=働か)して、法(ほう)もて九十六洞(きゅうじゅうろくどう)の妖魔(ようま)を降(くだ)し、神通(じんずう)広大(こうだい)なりしかば、後(のち)に天王(てんのう)を殺(ころ)して、かの剔骨(てきこつ=骨をえぐる)の仇(あだ)を報(むく)いんと要(ほっ)す。天王無奈(いたしかたなく)、我(わ)が仏(ほとけ)如来(にょらい)に告(つ)げ求(もと)む。如来、和(わ)を以(も)って尚(たっと)び、彼れに一座(ひとつ)の玲瓏剔透(れいろうてきとう=透き通るほど精巧)の舎利子(しゃりし)如意黄金宝塔(にょいおうごんほうとう)を賜(たま)う。かの塔(とう)の上には層層(そうそう=層ごと)に仏(ほとけ)有(あ)りて、艶艶(えんえん)として光明(こうみょう)なり。哪吒を喚(よ)びて仏を以(も)って父(ちち)と為し、冤仇(えんきゅう=恨みの敵)を釈(と)き了(おわ)んぬ。ゆえに称(とな)えて托塔李天王(たくとうりてんのう)と曰(い)うは、これなり。今日(こんにち)閑(ひま)によりて家(いえ)に在りて、いまだかつてかの塔(とう)を托(たく=いただき持)さざりしにより、恐(おそ)らくは哪吒に報仇(ほうきゅう=仇を報いる)の意(こころ)有(あ)らんかとて、故(ゆえ)に嚇(おどろ)かされて大きに驚き色(しき)を失(うしな)えるなり。すなわち却って手を回(めぐ)らし、塔座(とうざ=塔の台座)の上に向(むか)いて黄金宝塔(おうごんほうとう)を取(と)り、手の間(あいだ)に托(いただ)きて哪吒に問(と)うて言う、「孩児(がいじ=わが子)よ、汝(なんじ)剣(けん)をもちて我(わ)が刀(かたな)を架(かま)え住(とど)むるは、何の話(はなし)か有(あ)る」と。哪吒、剣(けん)を棄(す)てて頭(こうべ)を叩(う)って言う、「父王(ふおう)、是(こ)れ女児(むすめ)の下界(げかい)に在る有ります」と。天王言う、「孩児(がいじ)よ、我(われ)ただ汝(なんじ)ら姉妹(しまい)四人(よたり)を生(しょう)ぜしのみ、いずこにかまた一箇(ひとり)の女児(むすめ)の有らんや」と。哪吒言う、「父王(ふおう)は忘(わす)れたまえり。かの女児(むすめ)は元来(もと)これ一箇(ひとり)の妖精にして、三百年前(さんびゃくねんぜん)に怪(かい)と成(な)り、霊山(りょうざん)に在りて如来(にょらい)の香花宝燭(こうかほうしょく=香花と宝の燭)を偸(ぬす)み食(くら)いしを、如来、我(われ)が父子(ふし)と天兵(てんぺい)を差(つか)わして、彼れを拿(とら)え住めしめたまえり。拿(とら)え住めし時(とき)、ただ当(まさ)に打(う)ち殺(ころ)すべきなるに、如来吩咐(いいつけ)て道(のたま)わく、『積水(せきすい=水をたたえ)て魚(うお)を養(やしな)えば終(つい)に釣(つ)らず、深山(しんざん)に鹿(しか)を喂(やしな)いては長生(ちょうせい)を望(のぞ)む』と。当時(そのとき)其(そ)が性命(いのち)を饒(ゆる)したまえり。この恩念(おんねん=恩義)を積(つ)みて、父王(ふおう)を拝(おが)みて父(ちち)と為し、孩児(がいじ=わたくし)を拝(おが)みて兄(あに)と為し、下方(かほう)に在りて牌位(はいじ)を供設(きょうせつ=供え設)け、香火(こうか=線香の火)を侍奉(じほう)せしむ。期(き)せずや彼れまた精(せい)と成(な)りて、唐僧(とうそう)を陷(おとしい)れ害(そこな)いしを、却って孫行者(そんぎょうじゃ)に巣穴(そうけつ)の間(あいだ)に捜尋(そうじん=捜し求)め到(いた)られ、牌位(はいじ)を将ちて拿(と)り来り、すなわち名(な)に做(な)して御状(ぎょじょう)を告うるに至(いた)れり。
これ結拝(けっぱい=義兄弟の契り)の恩女(おんじょ=恩義ある娘)にして、我(わ)が同胞(どうほう=同じ腹)の親妹(しんまい)に非(あら)ざるなり」
と。天王(てんのう)言(げん)を聞(き)きて悚然(しょうぜん=ぞっと)として驚訝(きょうが=驚き怪しみ)して言う、
「孩児(がいじ)よ、我(われ)実(げ)に忘(わす)れたり。彼れは何と名(な)を喚(よ)ぶや」
と。太子(たいし)言う、「彼れに三箇(みつ)の名(な)有り、
其(そ)の本身(ほんしん)の出処(しゅっしょ=本来の素性)は、金鼻白毛老鼠精(きんびはくもうろうそせい)と喚(よ)び、
香花宝燭(こうかほうしょく)を偸(ぬす)みしに因(よ)りて、名を改(あらた)めて半截観音(はんせつかんのん)と喚(よ)び、
如今(いま)彼れを下界(げかい)に饒(ゆる)して、また改(あらた)めて、地湧夫人(ちゆうふじん)と喚(よ)ぶ是(これ)なり」
と。天王(てんのう)却って才(ようや)く省悟(せいご=悟り覚)り、宝塔(ほうとう)を放下(おろ)し、すなわち手を親(みずか)ら下(くだ)して来りて行者(ぎょうじゃ)を解(と)かんとす。行者すなわち刁(そら=強請)を放(ほしいまま)に起(おこ)して言う、
「孰(たれ)か敢(あ)えて我(われ)を解(と)かん!要(もと)むらくは縄児(じょうじ=縄)もろともに抬(かつ)きて見駕(けんが)しに往かばこそ、老孫(ろうそん)が官事(かんじ=訴訟)は才(ようや)く贏(か)たん!」
と。

慌(あわ)てたるかな天王(てんのう)、手軟(よわ)み、太子(たいし)言(ことば)無く、衆(しゅう)の家将(かしょう=家来の将)は委委(いい=しおしお)として退(しりぞ)く。かの大聖(たいせい)は地(ち)に打(う)ち滚(ころ)び撒頼(さらい=だだをこね)て、ただ天王(てんのう)の見駕(けんが)しに去(ゆ)くを要(もと)む。天王計(けい)を施(ほどこ)す可(べ)き無く、哀(あわれ)みて金星(きんせい)に方便(ほうべん=とりなし)を説(と)きてくれんことを求(もと)む。金星言う、「古人(こじん)云(いわ)く、『万事(ばんじ)寛(かん=寛大)より従(したが)う』と。汝(なんじ)が事を幹(おこな)うは忒(はなは)だ些(いささ)か緊(きつ)かりき、すなわち彼れを把(も)ちて捆(くく)り住め、また彼を殺(ころ)さんとせしは。この猴(さる)はこれ名(な)の有る頼皮(らいひ)なれば、汝(なんじ)今(いま)我(われ)をしていかにか処(しょ)せんことを教(おし)うるか!もし汝が令郎(れいろう=若君)の講(い)い起(お)こすところを論(ろん)ぜば、恩女(おんじょ)なりと雖(いえど)も、親女(しんじょ)に非(あら)ざれども、却ってまた晩親(ばんしん=後に結びし親)の義(ぎ)重(おも)ければ、いかにか折弁(せつべん=申し開き)するをも拘(かかわ)らず、汝にもまた一箇の罪名(ざいめい)有るべし」と。天王言う、「老星(ろうせい)はいかにして方便(ほうべん)を説(と)きてくれなば、すなわち罪(つみ)無からん」と。金星言う、
「我(われ)もまた汝らを和解(わげ=仲直り)せしめんと要(ほっ)すれど、ただこれ情(じょう=道理)の説(と)く可(べき)無きのみ」
と。天王笑って言う、「汝かの招安(しょうあん=招き安んず)を奏(そう)して官銜(かんがん=官職)を授(さず)けられし事を説(と)き説(と)かば、彼れもまた罷(や)まん」と。真(まこと)に金星、前(まえ)に進(すす)み、手を将ちて行者を摸(さす)りて言う、「大聖(たいせい)、我(わ)が薄面(はくめん=面子)を看て、縄(なわ)を解(と)きて好く見駕(けんが)に去(ゆ)かれよ」と。行者言う、「老官児(ろうかんじ)、解(と)くを用(もち)いず、我(われ)は滚法(ころびほう=転がる術)を会(え)するが、一路(ひとすじ)に滚(ころ)べばすなわち滚(ころ)び到(いた)るなり」と。金星笑って言う、「汝この猴(さる)め、忒(はなは)だ恁(か)くも寡情(かじょう=情け無)し。我(われ)昔日(むかし)もまた些(いささ)かの恩義児(おんぎ=恩義)の汝に到れる有りしに、汝この些些(ささ=ちょっと)の事すら、すなわち我に依(よ)らざるか」と。

行者言う、「汝我(われ)と与(とも)に何の恩義(おんぎ)か有る」と。金星言う、「汝当年(とうねん)花果山(かかざん)に在りて怪(かい)と為り、虎(とら)を伏(ふく)し龍(りゅう)を降(くだ)し、強(あなが)ちに死籍(しせき=死者の名簿)を消(け)し、群妖(ぐんよう=妖の群れ)を聚(あつ)めて大(おお)いに肆(ほしいまま)に猖狂(しょうきょう)せしとき、天(てん)上(かみ)汝を擒(とら)えんと欲(ほっ)せしに、これ老身(ろうしん=このわたし)の力(つと)め奏(そう)し、旨(みことのり)を降(くだ)して招安(しょうあん)し、汝を把(も)ちて天堂(てんどう)に宣(せん)じ上(のぼ)せ、汝を封(ほう)じて弼馬温(ひつばおん)と做したるはなり。汝、玉帝(ぎょくてい)の仙酒(せんしゅ)を吃(の)み、後(のち)また招安(しょうあん)せられしも、またこれ老身(ろうしん)の力め奏して、汝を封じて斉天大聖(せいてんたいせい)と做したるなり。汝また本分(ほんぶん=身の程)を守(まも)らず、桃(もも)を偸(ぬす)み酒(さけ)を盗(ぬす)み、老君(ろうくん)の丹(たん)を窃(ぬす)み、如此如此(かくかくしかじか)にして、才(ようや)く無滅無生(むめつむしょう=滅も無く生も無き)を得(え)たり。若(も)し我(われ)に非(あら)ずんば、汝いかでか今日(こんにち)に到るを得(え)ん」と。行者言う、「古人(こじん)説(と)きて好く云(いわ)く、『死(し)しては莫(なか)れ老頭児(ろうとうじ=じいさま)と同(おな)じき墓(はか)に居(お)れ、清(きよ)く浄(きれい)に人を掲挑(けいちょう=あばき立て)るを会(え)するなり』と。我(われ)もただ弼馬温(ひつばおん)を做し、天宮(てんぐう)を闹(さわ)がししのみにて、また何の大(おお)なる事も無し。しからば、しからば、汝が老人家(ろうじんか=お年寄り)が面皮(めんぴ=顔)を看て、還(かえ)って彼れ自(みずか)ら来りて解(と)かしめん」と。天王才(ようや)く敢(あ)えて前(まえ)に進(すす)み、縛(いましめ)を解(と)き、請(こ)うて行者に衣(ころも)を着(き)けて上坐(じょうざ=上座)せしめ、一一(ひとりひとり)前(まえ)に進(すす)みて礼(れい)を施(ほどこ)す。

行者、金星(きんせい)に朝(むか)いて言う、「老官児(ろうかんじ)よ、何如(いかん)?我(われ)先(まず)輸(ま)けて後(のち)に贏(か)つと説(い)いしが、売買児(ばいばいじ=商売)は元(も)とこのごとく做するものぞ。疾(と)く彼れを催(うなが)して見駕(けんが)に去かしめ、我(わ)が師父を誤(あやま)る莫(な)かれ」と。金星言う、「忙(いそ)ぐ莫(な)かれ。この一会(ひととき)を弄(いじ)りたりしかば、また一盞(ひとつぎ)の茶(ちゃ)を吃(の)みて去かん」と。行者言う、「汝彼が茶(ちゃ)を吃(の)み、其(そ)が私(わたくし)を受(う)け、犯人(はんにん)を売放(ばいほう=賄賂で釈放)し、聖旨(せいし)を軽慢(けいまん=軽んじ)せば、汝何の罪(つみ)を得(え)ん」と。金星言う、「茶(ちゃ)を吃(の)まじ!茶を吃まじ!我すらもまた頼(らい=難癖)を将ちて起(おこ)されたり!李天王(りてんのう)、疾(と)く走(はし)れ疾く走れ!」と。天王いずくんぞ敢(あ)えて去かん、彼れの無きを説(と)いて有るに做し、刁(そら)を放(ほしいまま)に起し、口(くち)の裡に胡(みだ)りに説(い)い乱(みだ)りに道(い)わんことを怕(おそ)るれば、いかでか彼れと与(とも)に折弁(せつべん)せん、没奈何(いたしかたなく)、また金星(きんせい)に央(たの)みて、方便(ほうべん)を説(と)かれんことを教(おし)う。金星言う、「我一箇の話児(ことば)有り、汝我に依(よ)る可(べ)きか」と。行者言う、「縄(なわ)に捆(くく)られ刀(かたな)に砍(き)られし事は、我もまた通(ことごと)く汝が面(めん=顔)を看たり、また何の話(はなし)か有る。汝説(い)え!汝説え!説きて好ければ、すなわち汝に依(よ)らん。説きて好からざれば、怪(とが)むる莫(な)かれ」と。

金星(きんせい)言う、「一日(いちじつ)の官事(かんじ)は十日(とおか)の打(だ=拷問)なり。汝御状(ぎょじょう)を告えて、妖精は天王が女児(むすめ)なりと説えば、天王は非(しか)らずと説う。汝ら二人(ふたり)ただ管(ひたすら)に御前(ごぜん)に在りて折弁(せつべん)し、反復(はんぷく)して已(や)まざらん。我説わく、天上(てんじょう)の一日(いちじつ)は、下界(げかい)においてはすなわち一年(いちねん)なり。この一年の間(あいだ)に、かの妖精汝が師父を洞中(どうちゅう)に陷(おとしい)れて、親(よわい=婚姻)を成(な)すは申すに及(およ)ばず、若(も)し喜花(きか=懐妊)して児子(こ)を下(う)むこと有らば、すでに一箇(ひとり)の小和尚児(こおしょうじ=小坊主)を生(う)みたりなん、却って大事(だいじ)を誤(あやま)たずや」と。行者、頭(こうべ)を低(た)れて想(おも)って言う、「是(さ)なり!我八戒・沙僧を離(はな)るるに、ただ多時(おおとき)には飯(はん)熟(じゅく)し、少時(すことき)には茶(ちゃ)滚(わ)くほどにして回ると説いしに、今(いま)すでにこの半会(はんとき=しばらく)を弄(いじ)りたり、却って遅(おく)れざらんや。老官児(ろうかんじ)、既(すで)に汝が説(いう)に依(よ)らば、この旨意(しい)はいかにしてか回繳(かいきゃく=返上)せん」と。

金星(きんせい)言う、「李天王(りてんのう)に兵(へい)を点(てん=召集)させ、汝と同(とも)に下(くだ)りて妖(よう)を降(くだ)さしめ、我は往きて旨(むね)を回さん」と。行者言う、
「汝はいかようにか回す」
と。金星言う、「我ただ原告(げんこく)は脱逃(だっとう=逃げ去)り、被告(ひこく)は免提(めんてい=召喚免除)すと説わん」と。行者笑って言う、「好しや!我は却って汝が面情(めんじょう=顔)を看て罷(や)まんとするに、汝は却って我の脱逃(だっとう)せしと説うか!彼れをして兵(へい)を点じて南天門(なんてんもん)の外(そと)に在りて我を等(ま)たしめよ、我すなわち汝と与(とも)に回旨(かいし=勅命を返し)して状(じょう)を繳(ささ)げに去かん」と。天王怕(おそ)れて言う、「彼れこの一去(ひとたびゆき)に、若(も)し言語(げんご=ことば)有らば、これ臣(しん)の君(きみ)に背(そむ)くなり」と。行者言う、「汝は老孫(ろうそん)を何の様(よう)なる人と当(あて)るや。我もまたこれ一箇(ひとり)の大丈夫(だいじょうぶ)なり!一言(いちげん)既(すで)に出でなば、駟馬(しば=四頭立ての馬)も追(お)い難(がた)し、豈(あ)にまた汚言(おげん=汚いことば)有りて汝に頂(むく)いんや」と。天王すなわち行者に謝(しゃ)し、行者金星(きんせい)と与(とも)に回旨(かいし)す。天王、本部(ほんぶ)の天兵(てんぺい)を点じ起し、径(ただち)に南天門(なんてんもん)の外(そと)に出づ。金星(きんせい)と行者回りて玉帝(ぎょくてい)に見(まみ)えて言う、「唐僧(とうそう)を陷(おとしい)れし者(もの)は、これ金鼻白毛老鼠(きんびはくもうろうそ)の成(な)りて精(せい)と為りしものにして、仮(かり)に天王父子(ふし)が牌位(はいじ)を設(もう)けたるなり。天王これを知(し)り、すでに兵(へい)を点じて怪(かい)を収(おさ)めに往きしかば、望(のぞ)むらくは天尊(てんそん)罪(つみ)を赦(ゆる)したまえ」と。玉帝すでにこの情(じょう=事情)を知り、天恩(てんおん)を降(くだ)して究(きわ)むるを免(めん)ず。行者すなわち雲光(うんこう)を返(かえ)し、南天門(なんてんもん)の外(そと)に到れば、天王・太子(たいし)の天兵(てんぺい)を布列(ふれつ=並べ備え)して等候(まつ)せるを見る。噫(ああ)!かの些(これ)らの神将(しんしょう)、風(かぜ)滾滾(ころころ)、霧(きり)騰騰(とうとう)として、大聖(たいせい)を接(むか)え住め、一斉(いっせい)に雲頭(うんとう)を墜(おと)して、早(はや)くも陥空山(かんくうざん)の上に到りぬ。

八戒・沙僧眼巴巴(がんぱぱ=待ちかね)て正(まさ)に等(ま)ちおるに、ただ天兵(てんぺい)と行者の来るを見る。呆子(あほう)、天王を迎(むか)えて礼(れい)を施(ほどこ)して言う、「累及(るいきゅう=ご迷惑を)!累及(るいきゅう=ご苦労を)!」と。天王言う、「天蓬元帥(てんぽうげんすい)、汝は却って知らざるか、ただ我が父子(ふし)の彼れが一炷(ひとすじ)の香(こう)を受(う)けしに因(よ)りて、妖精をして無理(むり)を致(いた)さしめ、汝が師父を困(くるし)めたり。来ること遅(おそ)かりしも怪(とが)むる莫(な)かれ。この山(やま)はすなわちこれ陥空山(かんくうざん)なるか。ただ知らず、其(そ)が洞門(どうもん)はまた何方(いずかた)に向(むか)いて開(ひら)くや」と。行者言う、
「我がこの路(みち)はかつて歩(あゆ)み熟(な)れたり。ただこの洞(どう)を喚(よ)んで無底洞(むていどう)と做し、周囲(しゅうい)三百余里(さんびゃくより)有りて、妖精の窠穴(かけつ)甚(はなは)だ多(おお)し。前番(ぜんばん)我が師父はかの両滴水(りょうてきすい=雨だれ)の門楼(ろう)の裡に在りしに、この番(たび)は静悄悄(しずか)として、鬼(おに)の影(かげ)すらもまた箇(ひとつ)無く、いずこへかまた搬(うつ)り往きしを知らざるなり」
と。天王言う、「彼れの千般(せんぱん=さまざま)の計(けい)を設(もう)け尽(つく)すに任(まか)すとも、天羅地網(てんらちもう=天の網と地の罠)の中(うち)を脱(のが)るるに難(かた)し。洞門(どうもん)の前(まえ)に到りて、また作道理(さどうり=分別)せん」と。大家(みな)すなわち行(ゆ)く。咦(ああ)、約(およ)そ十余里(じゅうより)有るに、すなわちかの大石(たいせき)の辺(ほとり)に到る。行者、かの缸口(こうこう=甕の口)ほどの大いさなる門児(もんじ)を指(さ)して言う、「兀的(あれ)すなわちこれなり」と。天王言う、「虎穴(こけつ=虎の穴)に入らずんば、いずくんぞ虎子(こじ=虎の子)を得(え)ん!孰(たれ)か敢(あ)えて当先(とうせん=先頭)に立(た)たん」と。行者言う、「我当先(とうせん)せん」と。三太子(さんたいし)言う、「我旨(みことのり)を奉(ほう)じて妖(よう)を降(くだ)す、我当先(とうせん)せん」と。かの呆子(あほう)すなわち莽撞(もうとう=荒々しく)起り、声(こえ)を高(たか)うして叫って言う、「当頭(とうとう=先頭)には還(かえ)って我が老豬(ろうちょ=この豚)を用(もち)いよ!」と。天王言う、「囉唣(らそう=ごたごた)するを須(もち)いず、ただ我(わ)が分擺(ぶんぱい=手配)に依(よ)れ。孫大聖(そんたいせい)と太子(たいし)と同(とも)に兵将(へいしょう)を領(ひき)いて下(くだ)り往き、我ら三人(さんにん)は口(くち)の上(ほとり)に在りて把守(はしゅ)し、一箇の裏応外合(りおうがいごう=内外呼応)を做し、彼れをして天(てん)に上(のぼ)るに路(みち)無く、地(ち)に入るに門(もん)無からしめて、才(ようや)く些些(ささ=いささか)の手段(てだて)を顕(あらわ)さん」と。衆人(しゅじん)みな一声(ひとこえ)に応(こた)えて「是(しか)り」と。

汝看よ、かの行者と三太子(さんたいし)、兵将(へいしょう)を領(ひき)いて、洞の裡を望(めが)けてただ一溜(ひとすべり)なり。雲光(うんこう)を駕(が)し起し、閃閃爍爍(せんせんしゃくしゃく=きらきら)として、頭(こうべ)を抬(あ)げて一望(いちぼう)すれば、果(はた)して好き一箇の洞なるかな、
依(よ)りて旧(もと)の如(ごと)き双輪(そうりん=日輪と月輪)の日月(じつげつ)、照(てら)すこと般(ひと)しく一望(いちぼう=見わたし)の山川(さんせん)。
珠淵玉井(しゅえんぎょくせい=珠の淵に玉の井)に暖(あたたか)かに烟(けむり)を韜(つつ)み、更(さら)に許多(あまた)の羨(うらや)むに堪(た)えたる有り。
迭迭(じょうじょう=重なり)たる朱楼画閣(しゅろうがかく)、嶷嶷(ぎょくぎょく=そびえ)たる赤壁青田(せきへきせいでん)。
三春(さんしゅん)の楊柳(ようりゅう)と九秋(きゅうしゅう)の蓮(はす)、兀的(あれ)洞天(どうてん=仙郷)も罕(まれ)なり。
と。頃刻間(しばらく)にして、雲光(うんこう)を停(とど)め住め、径(ただち)にかの妖精が旧宅(きゅうたく)に到る。門児(もんじ)に挨(つ)いて捜尋(そうじん)め、吆吆喝喝(ようようかつかつ=わいわい)と、一重(ひとえ)また一重、一処(ひとところ)また一処、かの三百里(さんびゃくり)の地(ち)の草(くさ)を把(も)ちてみな踏(ふ)み光(つく)し了(おわ)りぬれど、いずこにか箇(ひとり)の妖精を見んや。いずこにか箇の三蔵(さんぞう)を見んや。みなただ言う、「この孽畜(げっちく=畜生め)は一定(かなら)ず早(はや)くこの洞を出でて、遠(とお)くへ去(さ)りたりなん」と。それかの東南(とうなん)の黒(くろ)き隅(すみ)の上(ほとり)に、下(した)を望(のぞ)めば、別(べつ)に一箇の小洞(しょうどう)の有るを、いずくんぞ知らんや。洞の裡に一重(ひとえ)の小々(ちいさ)き門(もん)、一間(ひとま)の矮矮(あいあい=低き)の屋(いえ)、盆栽(ぼんさい)に幾種(いくしゅ)かの花(はな)を植(う)え、檐(のき)には数竿(すうかん=数本)の竹(たけ)を傍(そ)えたり。黒気(こくき)氳氳(うんうん=もうもう)、暗香(あんこう)馥馥(ふくふく=こうばしく)、老怪(ろうかい)三蔵(さんぞう)を摂(さら)いて、ここに搬(うつ)りて逼(せま)り住めて親(よわい)を成(な)さんとし、ただ行者の再(ふたた)び找(たず)ね著(あ)つること能(あた)わじとのみ説(おも)えり。

孰(たれ)か知らん、彼れが命(めい)の合(あた)に該(あた)りて休(や)むべきを。かの些(これ)らの小怪(しょうかい)裡に在りて、箇箇(おのおの)嚌嚌嘈嘈(せいせいそうそう=がやがや)、挨挨簇簇(あいあいぞくぞく=ひしめき)たり。中(なか)に一箇(ひとり)の些(いささ)か大胆(だいたん)なる者有(あ)りて、頸(くび)を伸(の)し起(あ)げ、洞外(どうがい)を望(のぞ)んで少(すこ)しく一見(ひとみ)せしに、一頭(いちとう=いきなり)箇(ひとり)の天兵(てんぺい)に撞(ぶつか)り、一声(ひとこえ)嚷(わめ)いて言う、「ここに在り!」と。かの行者性(せい)を悩(なや)まし起し、金箍棒(きんこぼう)を捻(ひね)って、一下(ひとつ)に闯(つ)け入りて往けば、かの裡辺(うち)は窄小(さくしょう=狭く)して、一窟(ひとあな)の妖精を窩(すくわ)せり。三太子(さんたいし)天兵(てんぺい)を縦(はな)ち起し、一斉(いっせい)に擁(お)し上(あが)れば、箇箇(おのおの)いずこへか避(さ)け往かんや。行者、唐僧(とうそう)と、かの龍馬(りゅうば)と、かの行李(こうり)とを尋(たず)ね著(あ)つ。かの老怪(ろうかい)尋思(じんし=思案)に路(みち)無く、哪吒太子(なったたいし)を看ては、ただ頭(こうべ)を磕(う)ちて命(いのち)を求(もと)む。太子言う、
「これ玉旨(ぎょくし=天子の命)にてもちて汝を拿(とら)えに来れるなり、小可(しょうか=些細)に当(あた)らず。我が父子(ふし)はただ一炷(ひとすじ)の香(こう)を受(う)けしが為(ため)に、些(いささ)か和尚(おしょう)の木(き)を拖(ひ)きて 寺(じ=寺、事にかけた洒落)を做出(つくりだ)し了(おわ)るるところなりき!」
と。啈(こわ)だかに一声(ひとこえ)言う、「天兵(てんぺい)ら、縛妖索(ばくようじゃく)を取(と)り下(おろ)して、かの些(これ)らの妖精を把(も)ちてみな捆(くく)れ!」と。老怪(ろうかい)もまた一場(ひとしきり)の苦楚(くそ=苦しみ)を吃(な)めざるを得(え)ず。雲光(うんこう)を返(かえ)し、一斉(いっせい)に洞を出づ。行者が口(くち)の裡嘻嘻嗄嗄(ききああ=にこにこ)たり。天王、洞口(どうこう)を掣(ひら)きて、行者を迎(むか)えて言う、「今番(こんばん)こそ却って汝が師父に見(まみ)えん」と。行者言う、「多謝(たしゃ)したり!多謝したり!」と。すなわち三蔵(さんぞう)を引(ひ)きて天王に拝謝(はいしゃ=拝み謝)せしめ、次(つい)で太子(たいし)に及(およ)ぶ。沙僧・八戒はただかの老精(ろうせい)を砕(くだ)き剮(ばら)かんと要(ほっ)するのみなるに、天王言う、「彼れはこれ玉旨(ぎょくし)を奉(ほう)じて拿(とら)えたるものなれば、軽(かろ)ろくすべからず。我らはまた去きて旨(むね)を回さんことを要(よう)するなり」と。一方(ひとかた)にて天王は三太子(さんたいし)と同(とも)に天兵神将(てんぺいしんしょう)を領(ひき)い、妖精を押(おさ)え住めて、天曹(てんそう=天の役所)に奏(そう)しに往き、発落(はつらく=沙汰)を聴(き)き候(うかが)う。一方(ひとかた)にて行者は唐僧(とうそう)を擁(よう)し、沙僧行李(こうり)を收拾(しゅうしゅう=まとめ)、八戒馬(うま)を攏(ひきよ)せ、請(こ)うて唐僧(とうそう)の馬(うま)に騎(の)りたまわしめ、斉(ひと)しく大路(たいろ)に上(のぼ)る。これ正(まさ)に、
糸蘿(しら=つる草のたとえ)を割(さ)ち断(た)ちて金海(きんかい=金の海)を乾(ほ)し、玉鎖(ぎょくさ=玉の錠)を打(う)ち開(あ)けて樊籠(はんろう=鳥かご)を出づ。
と。畢竟(ひっきょう)いまだ前(まえ)に去きて如何(いかん)なるを知らず、且(しばら)く下回(かかい)の分解(ぶんかい)を聴(き)かれよ。